8:美しい花畑
アンジュが先頭をスタスタと歩き、国立公園の遊歩道をぐるりと周ると、鮮やかなプリムラが辺り一面に広がる花畑のエリアにたどり着いた。
イーサンは事前に花畑の写真を見ていたが、自分の目で直接観ると全く違ったものに写る。
ここにアンジュを連れて来るきっかけとなったのは、チームメンバーの女性からの紹介だ。
最近恋人と来たらしい。
プリムラという花の名前も今日知った。
彼女に出会わなければここに来ることもなかっただろう。
美しく壮大な花畑。
花の蜜を求めて蝶がひらひらと舞っている。
遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
春風がそよいで草木が揺れる。
見張らしの良い敷地内には人は疎らで、穏やかな時間が流れている。
アンジュが花々を観察しながら静かに歩いている。
五感で感じるすべてが心地よい。
と、ぼんやり眺めていたが、アンジュがイーサンをそっちのけで楽しんでいることに気がついた。
しゃがみ込んで花を観察しているアンジュの背後に近づく。
するとアンジュは小さな声で「かわいい〜」だの「きれい〜」だのと、花びらに優しく触れながら目を輝かせていた。
イーサンは先程の契約を交わす際にだいぶ神経を使った。
予想外の展開になったが、無事に話がまとまった開放感から気持ちが高陽していた。
ひとまずの目標は達成できたのだ。
なにかご褒美が欲しい。
「アンジュ・ポーター」
「!!」
わざとらしく低い声でそっとアンジュをフルネームで呼ぶ。
驚いたアンジュがぱっと立ち上がる。
学業と仕事ばかりの生活で忙しかったせいか、花畑に胸が高鳴りすっかり夢中になっていた。
「ごめんなさい!花畑がきれいだったから見とれちゃって」
慌てる様子のアンジュがようやくこちらを向いてくれたことに嬉しくなる。
イーサンはアンジュの手持ちのカバンを奪い取り、自分のブリーフケースと重ねて左手に持った。
空いた右腕を少し曲げてアンジュに差し出す。
「僕のことを置いていかないでください、一緒に見ましょう」
イーサンは、姿勢を正して礼儀良くアンジュを誘う。
目をぱちくりさせてイーサンの顔と右腕を交互に見るアンジュ。
戸惑っているところを申し訳ないと思いつつ、アンジュの左手を自分の右腕に絡ませた。
悩んでるアンジュを1秒も待っていられなかった。
アンジュは驚いていたものの、観念したように次第に肩の力が抜け、イーサンの右腕を包むように掴んだ。
ただ腕を組んで一緒に歩いているだけなのに、スキップしてしまいそうになるほど嬉しい。
看板に書いてある花の品種や雑学などを一緒に読み、見聞を広める。
花言葉がイーサンの心をチクチクと刺さしてきた。
どうして愛の表現のようなものばかりなんだ。
健気な花言葉は浮ついた心によく効く。
花なんか見てどうするんだと正直思っていたが、うまく説明できそうにない。
何をするかではなく、誰と見るかが重要なのだと思った。
ふと、園内で疎らに居た人々とすれ違うと、視線を感じた。
パッと先方に視線を向けるとアンジュを見ているようだった。
アンジュは視線を集める容姿をしていることは知っている。
自分も視線を奪われたひとりだ。
相手の目線にいやらしさは無い、が、癇に障る。
相手を睨みつけ、遠退ける。
一方のアンジュは花びらの形がハートで可愛い、
色鮮やかで素敵だ、ここに来られてよかった、
とずっとずっと花の話をしている。
チームメンバーが言っていた、女の子はみんな花が好きだと。
その通りだったが、どうにも癇に障る。
「僕はアンジュの方がよっぽど可愛いと思うけどね」
「え?」
なんとも子どものように嫉妬してアンジュの注目を独占したかった。
アンジュがこちらを見上げて、なんとも言えない表情で一泊置いた。
その後、顔を横にぷいっと向けてしまった。
でも右腕は絡めたままだ。
どっちだ、その表情は。
呆れてるのか、照れてるのか、それとも怒ってるのか。
と思っているとアンジュの耳が赤く染っているのが見え、少し口を尖らせていた。
「!」
「もう!帰りましょう!」
アンジュがイーサンの腕をぐいぐいと引っ張り公園の出入口の方に向かって進むが、全然帰りたくなかった。
もっと一緒にいたい。
少しだけアンジュに引っ張られてみる。
一生懸命に引っ張るアンジュに申し訳ないが、ヘラヘラとだらしが無い顔をしてしまう。
中々進まない足取りに、アンジュがちらりとこちらを確認した。
口を小さくつぐんで、少しほっぺたが膨らんでいた。
この子、本当に可愛いが過ぎるな。
イーサンの足がピタリと止まり、引っ張っていたアンジュの腕がまっすぐに伸びた。
自分の右腕を真っ直ぐに伸ばして引き、アンジュの手に自分の手を重ねて少しだけ引き寄せた。
そのまま逃がさないようにギュッと手を握って、
「園内にレストランがある、食事して帰ろう」
だめかな?と声をかける。
アンジュは繋がれた手を見つめ、
「はぁ」と息を落とした。
それ見てギョッとした。
軽率な行動だったことを悟り胸の真ん中が冷たくなるのを感じる。
かなり調子に乗っている自覚はある。
彼女が可愛いあまりに、つい。
しまった、と思った時には手のひらに汗が滲んできているのを感じた。
手の力をパッと緩めたが、アンジュの手はそのまま自分の手の中にいた。
不思議に思いアンジュの顔を覗きこむ。
するとアンジュがイーサンの右肩に勢いよく頭をぶつけてきた。
また「はぁ」と息を吐いて頭をぐりぐりと額を擦り付けてくる。
「だめじゃないです。レストラン、行きましょう」
そのまま右肩に頭くっ付けた状態でそう言われた。
心臓が口から出てしまいそうだった。
再び手に力を込めて優しくアンジュの手を握った。
アンジュは少しだけ握り返してくれた。
手を繋ぎ、遊歩道に設置してある案内表を確認しながらレストランまでの道を進む。
イーサンの口から出てくる口説き文句と手馴れたスキンシップ。
「「ご飯行ってお金もらって、それだけ」」
今日学校で聞いた友人の言葉が頭をよぎる。
それだけ。
楽しい時間を一緒に過ごしても寂しさが跡を着いてきた。
嫌だ嫌だと抵抗すると深みに嵌っていく。
無心になりたくて、遠くを見つめた。
しばらく歩くとレストランにたどり着いた。
ガラス張りで陽の光が良く入るシンプルな建物だ。
扉を開けて入店すると、白で統一された店内は小規模ながらとても良い雰囲気だった。
平日の17時過ぎ、夕ご飯には早すぎる時間帯であったためか貸切状態だ。
店員に案内されて着席する。
夜のメニューは、コース料理のみのようだ。
ソフトドリンクをそれぞれ選び、店員がすぐに運んできてくれた。
「「乾杯」」
2人はグラスを控えめに当て、一口含む。
アンジュはアルコールメニューに目をやる。
「運転変わってあげられなくてごめんね。飲みたかった?」
たくさんの種類が揃ってるメニュー表を見て、首を振る。
「いや、アルコールが入ると後悔すると思うから、全然大丈夫」
「後悔?お酒に弱いの?」
「あー……まぁそんなところ」
イーサンはアルコールが入ると饒舌になる。
飲んでる時は最高に楽しいが、思っていることを全部言ってしまう。
今は理性でどうにかなってる自覚があるのでソフトドリンクがいい。
手際よく前菜が運ばれてきて、スープ、メインと進んでゆく。
野菜が多めで、素材の味がよく生きた優しい味だ。
不摂生な生活を送るイーサンの身体によく染みた。
小さく切って上品に食べるアンジュに習って、ゆっくりと食べ進める。
美味しそうに頬張る彼女との食事はあっという間だった。
食後のコーヒーが出された頃には18時を過ぎていた。
外の景色がよく見えるガラス張りの店内に夕焼けが差し込む。
「このあと、どこか行きたいところはある?」
まだまだ一緒に居たい気持ちを抑えつつ、アンジュに問う。
しかしアンジュは首を振ってこう答えた。
「もう、帰ろう。明日も早いし、イーサンもぐっすり寝てね」
グラスを傾けてにっこり微笑むアンジュ。
それを聞いて、しまった、という表情で顎全体を手のひらで覆うイーサン。
「僕の顔が疲れて見える?」
ううん、と答えるアンジュ。
そう言えば父にも体調を気にされた。
自分としてはすこぶる体調は良いが、顔色が悪いのだろうか?
仕事で徹夜なんてよくある事なのに。
アンジュはじっとイーサンの顔を見つめ、尋ねた。
「もしかして、今日寝てないの?」
アンジュの確信を付く発言に、イーサンは明らさまにぎくりとし、黙り込んだ。
その行動は「寝てません」と言っているようなものだ。
深夜に別れてから翌朝6時に会いに来てくれる彼。
そのまま即日の約束で16時に迎えに来てくれて、契約書を持参する。
絶対普通じゃない。
イーサンは自分の体温が上がっていることに気がついた。
目線をあちらこちらに外し、額から髪を撫でながら言い訳を考えたが、いい策が出てこなかった。
「……さっきも言ったが、君に会えるのが楽しみだったんだ。だから寝れなかった」
仕事は早帰りをしてるだけだからと大丈夫、と続けて飲み物を飲み干す。
アンジュはその言葉に固まってしまった。
なんて返せばいいかわからなかったから。
微妙な空気が流れる中、イーサンはテーブルチェックをする。
「家まで送ろう」
扉を開けてくれるイーサンに、お礼を言って店を出る。
行き道で繋いでいた手は、帰り道では繋がなかった。




