4:ヴァーグナー社
6時30分。
イーサンはカフェを出てからどうやって会社に来たのか記憶が定かではない中、気が付けば自部門のフロアに到着していた。
いつもより2時間も早く出社してしまった。
まだ誰も来ていない暗がりなフロアの照明を1つずつつける。
誰もいないデスクの間を真っ直ぐ通って、フロア奥の自席の椅子を引き、傾れるように座る。
背もたれにだらしなく体重をかけ、天井を向き首を伸ばした。
アドレナリンがここで切れたのか、さっきまで気が付かないでいた身体の疲れがどっと溢れた。
昨夜から心酔しっぱなしだった。
「はぁ……」
誰もいないオフィスにそこそこ大きなため息が何度も響く。
数分後、年配の清掃員が入ってきた。
すでに明かりがついているオフィスに一度声を上げ、さらに奥の方で一人ポツンと腰掛けるイーサンの姿を確認し2度目の声を上げた。
「ぼっちゃん!??もしや昨日からずっとオフィスに!?」
彼女は掃除用具を持ったままドカドカとこちらに向かって歩いてきた。
イーサンは今出社した事をだらしなく伝える。
やや低音のボリューミーな彼女の声は、先程の夢のような時間を一瞬で忘れさせてくれた。
「毎日遅くまで残ってたのにこんな朝早くから出社して!仕事のし過ぎだーって、二代目に怒られちゃいますよ!」
背を預けていた椅子からゆっくりと頭を持ち上げ、両腕を天井へ向かって突き上げ伸びをした。
ようやく浮かれていた頭が冴えてくる。
「昨夜は眠れなくて。今日はフレックスで帰ります」
父にも後ほど報告しますので、とイーサンはにこやかに告げると、彼女は少々不満げに頷き清掃道具と共に去っていった。
さて、仕事をさっさと片付けてしまおう。
姿勢を正して本日の段取りを確認した。
8時30分。
間もなく就業開始時刻となり、続々と社員たちが出社し始める。
イーサンの上司であるマネージャーが出社した時、すでにイーサンが業務に取り掛かっていることに驚き、傍まで出向き声を掛けた。
「イーサン、おはよう。早いな」
「マネージャー、おはようございます」
イーサンはマネージャーに清掃員にも話したことと同じ内容と、できればしばらく残業は控えたいことを伝えた。
マネージャーはイーサンの申告に快く了解の返事をしたあと、体調面についての心配と、スケジュールを調整するようにと伝えた。
イーサンの席から離れ自席に戻るまでの間、頭でぐるぐると最善策と最悪の事態を考える。
予期せぬ事が起こることは、自分の驕ったところが災いする。
あの仕事脳の鉄壁イーサンに何かあったことだけ推測できた。
原因は、
仕事なのか、
プライベートなのか、それとも……。
マネージャーはすぐにチームメンバーの在籍状況を確認し、片端から部下たちに声を掛けていったのだった。
◇◇◇◇
9時。
社長室の扉が開かれ、ヴァーグナー社の二代目が出社した。
社員室には秘書課も在籍しており数名の社員たちが代わる代わるあいさつをする。
そんな中、あの清掃員もいた。
「二代目!遅いですよ!」
朝から快活な彼女は20年来の仲だ。
息子が小さなら頃からこの会社に仕えてくれてる。
よく周りを見ているが少々お節介がすぎる。
そしていつも通りに出社したはずなのに遅いと言われてしまった。
焦りっぷりが垣間見える。
あいさつもそこそこに彼女は興奮したように話し出した。
「ぼっちゃん、昨夜眠れなかったんですって。朝6時代にはオフィスに居ましたよ」
夜遅くまでいる事はあっても、朝早く来ることはなかった。
それは他の社員でも言えることである。
特別な案件でも片付けていただろうか。
インシデントがあったのか?
まだ耳に入ってきていないということは重大ではなかったのだろうか。
ここ最近は特にひどく会社に残っていたと聞いている。
あればあるだけの仕事をしてしまうのが玉に瑕だ。
プレッシャーに負けたか、あるいは。
「後から連絡が来ると思いますが、フレックス退社するみたいです」
自分で体調をコントロールして休息を入れるつもりならば少し安心だ。
連絡に来た際にはフレックスと言わずにしばらくの休暇を取れるよう調整することも勧めようか、などと考えていると彼女の話は続いた。
「あたしね、見ちゃったんですよ。『はぁ……』ってため息をつくぼっちゃんの切ない顔を何度も何度も」
気になって何度かオフィスの様子を覗いたとき、何度もため息をこぼしていたらしい息子。
社長室の空気が重たくなる。
正直息子のそんな姿は全く想像できない。
いつも面白そうに仕事をし、チームと和気あいあいと談笑している姿が目に浮かぶ。
我が子ながらよく出来た人間であると思う。
規律も規則もよく守るが程よい抜け具合もあり壁を作らない。
バランスの取れた人格だ。
なにか悩んでいることがあったなんて全く知らなかった。
眠れなくなるほど、追い詰められていたのか。
「報告ありがとう。少々心配だが、息子本人からの連絡を待とうと思う」
正直気が気じゃなかったが、イーサンの気持ちを逆撫でしては行けない。
彼が完璧な鎧で守っていたプライドがあるかもしれない。
普段自ら父親に弱音を零すことが無い彼は、外から見えないだけで内に秘めているものが数多くあるのだろうとは思う。
ここで待つことしかできない状態だが、なんだか家に帰りたくなってしまった。
早く妻に会いたい。
◇◇◇◇
12時。
イーサンはマネージャーをランチに誘うために声をかけた。
ランチは誰か社員たちと共にすることがほとんどだ。
その時の何気ない会話が次の仕事に繋がることもある。
「イーサン、すまん。今日はランチミーティングを行う。ゆっくりできないと思うがいいか?」
自分のフレックス退社と残業の話から今後の業務についてのミーティングだろう、と気付き申し訳なさを感じた。
すぐにチームメンバー数名がミーティング参加者分のお弁当を買ってきていた。いくつも袋をぶら下げており、参加者が多い事が伺える。
ミーティング会場は30名程度が収容できる会議室を確保しており、会議室に弁当を持ったチームメンバーが集まった。
会議室は半数以上埋まっている。イーサンが着席したあとマネージャーから第一声が発せられた。
急なミーティングとなってしまい申し訳ない、と一同に謝罪した後イーサンがフレックスで帰宅することも伝えられた。
「俺も含めイーサンに頼り切りであったと思う。体制の見直しを含めて抱えてる案件の分担を見直したい」
イーサンも規律し、深く一礼するが皆に顔をあげるように止められた。
皆で弁当をつつきながらああだこうだと語り合う。
イーサンがいくつか握っていた内の中のひとつ、大型案件についても数名が分担して引き受けることになった。
イーサンは優しくて頼りがいがある。
どんな仕事でも嫌な顔せず任されてくれたし、積極的に引き受けてくれた。
そんなイーサンが自分の案件を、素直に他者に渡すなど今までなかったし、考えられなかった。
チームメンバーがイーサンに他にも渡せる案件は?懸念事項は無いか?と尋ねる。
少しの間があったあとイーサンは答えた。
「実は新規でスポンサー契約をしたいと思っていて」
こちらの心配を他所に爽やかな笑顔で新しい案件を放り出そうとしているイーサンにチームメンバーは横転した。
業務量の削減を考えて話し合ってるところで新規開拓が本人の口から出てこようとは。
しかしここから空気が一変する。
「若い女性が喜びそうな場所を教えて欲しい。みんなも知っての通り、こういう事には疎いんだ」
いつも自信が満ち溢れてる堂々としたイーサンが、少し照れたような微笑みと教えを乞う視線。
あの仕事しかしてないイーサンからの爆弾発言に会議室は揺れ、彼の役に立てるならとチームメンバーが男女ともに湧き上がった。
◇◇◇◇
15時過ぎ。
イーサンはいくつかの書類をブリーフケースに入れ、席を立つ。
「お先に失礼します」
一礼をしてオフィスを後にする。
チームメンバーからは熱い視線と「お疲れ様」と言う声と「がんばれよ」という声が飛び交う。
一番最初に退勤するのは初めだ。
皆に見守られての退出は少しむず痒い。
扉を開けて、1人長い廊下を進む。父が執務中である社長室へ向かう。
「遅いじゃないか!」
ノックをして扉を開けて開口一番にそう言われた。
予定も伝えず来訪したはずなのに、遅い、とは。
「報告が遅くなってしまい、すみません。本日はフレックスにて退社いたします」
「……体調は大丈夫なのか?」
「(!)はい、少々寝不足ですが大丈夫です」
やはり顔が疲れているのだろうか、と無意識に手で顎を撫でた。
父は鼻から大きく息を吸い込み、これまでに無いほどウィスパーボイスでこう言った。
「私には言えないことか?」
父の言葉にドキリとした。
酒が入った赤ら顔が終始チラついた昨晩の出来事が頭をよぎり、なんとも複雑な気分になる。
「この契約が無事結ばれたら、お話します」
そう言いブリーフケースを持ち上げて見せ、ニコリと笑って見せた。
事前に聞いていた雰囲気とは違ういつもの息子に見えた。
必要以上に会話をせず、声援を贈り、息子の後ろ姿をじっと見送る。
息子はいつだって1人でなんでもできてしまう。
少しの助言と、少しの手助けだけでこんなに大きくなってしまった。
本当は1人でできるがあえて周りの大人たちへ助けを求めてみたりしているのは知っている。
こちらの気も知らないで随分離れていってしまったようで寂しい。
「はぁ……」
社長室に大きなため息が響いた。




