22:油断と隙
18時半過ぎ。
講義が長引き、少し遅くなってしまった。
週の最終日である金曜日は友人たちを含めて希望講座を取っているため帰宅時間はバラバラだ。
いちょう並木に向かうと、見慣れた黒色のセダンの前にイーサンが立っていた。
「遅くなってごめんね。ちょっと講義長引いちゃって」
「また変な輩に声をかけられたりしたのかと思って冷や冷やした」
さぁ乗って、と助手席の扉を開けてエスコートしてくれる。
お礼を伝えて車に乗り込み扉を閉めてもらうと、ぐるりと車外を回ってイーサンも運転席に座った。
「今朝カフェに居た男の人と、知り合いだったんだね」
「うん、彼はパートナー企業の担当者なんだ」
イーサンはハンドルを握りエンジンを掛けながらじっとアンジュの方を見る。
「ところで彼に何かされてなかった?」
「ううん、何も」
「店員さんがすごい顔で睨んでたけど、何かあったんじゃない?」
「えーっと…」
詳しく伝えない方がいいような気がして、曖昧な態度をとった。
「僕の見間違いでなければ手を掴まれていたように見えたけど」
そう言ってアンジュの膝に置かれた両手をちらりと見てアンジュの顔色を伺った。
「さすがに心配した」
ため息混じりでそう伝えられて車を走らせる。
「僕の腕時計を付けてくれてたら多少避けられると思うんだけど…」
「あの腕時計って、忘れ物?それともわざと?」
「!!」
ギクリと音が出るようにイーサンの肩が震えた。
その様子を確認して、にこーっとアンジュが微笑みながらイーサンの方を向くと、イーサンはまっすぐ道路を見ながら手を丸めて口元に当て咳払いをした。
「ハンカチも洗っておいたから今度返すね?」
「いや、その、そうじゃなくて…」
首をこてんと傾けて信号で停車している彼を見つめていると、耳が真っ赤になっていた。
今度はわざとらしく咳払いをしながら首をさすって唸っている彼を見て、いつものスマートな装いからは想像することができない行動が心底不思議で仕方がなかった。
そんな彼を眺めていたら、いつの間にか駅の周辺に着いていた。
「今日はどこかに行くの?」
「しまった、うっかり自宅方面に走っていた」
キョロキョロと周囲を見回す。
辺りは雑居ビルが立ち並び、道路は車幅が狭く渋滞していて、多くの人々が道の端を歩いていた。
「イーサンのお家ってこの辺なんだ?」
「うん、あそこのビルだよ。35階なんだけど」
「え…?」
彼が指さした駅のランドマークであるビルをポカンと眺めた。
あんなところに住んでる人が居るんだ、と思ったと同時に
「イーサンって何者なの?」と問うと「会社員だけど?」とさらりと返され、こちらの疑問は何も解消されなかった。
「どこに行こうか?今日は金曜日だからこの辺りの飲食店は混んでると思うけど、何か食べたいものはある?」
「イーサンのお家は?近くなんでしょ?」
「え!!」
バッと音が出そうな勢いでこちらを振り返るイーサンに驚き、ビクッと身体が跳ねた。
彼の顔に鋭い緊張が走っている。
アンジュは唯ならぬ緊迫感に釣られて息を飲んだ。
イーサンはじっとアンジュを見つめ、何か言いたげに口が開いたり閉じたりしている。
「えっと、車、進んでる」
「え、あ、はい」
アンジュが前方を指さして伝えると、素直に前方を向き運転に集中するイーサン。
渋滞している道路をじわじわ進みながら、次第に巨大なビルのコンコースに差し掛かった。
「えっと、僕の家に来るの?君が?本当に?」
「急だよね?だめだった?」
「君のことが大好きな男の家に入ることになるんだけど」
イーサンとパチリと目が合って、じっと彼のグリーンの瞳を見つめた。
その後何故かまた勢い良く顔を前方に向け、運転に集中するように姿勢を正す彼の横顔が赤面していた。
「なんでイーサンが照れてるの」
「自分で言っておいて恥ずかしくなった」
イーサンががっくりと項垂れながら、はぁーと大きなため息を吐く。
またじわり、じわりと渋滞を進んでいく。
「大丈夫だよ、イーサンはスポンサーだもん」
「スポンサーって言葉は本当に便利でいいなぁ」
呆れたように彼が笑い、あー、うーん、と悩んでいる。
「先に言っておく。僕はきちんとした生活をしていない。ただの、男の、一人暮らしだからね?」
「ふふふ、わかった」
「それとアンジュの家のように、整った部屋じゃないからね?」
「うちだって整ってないよ」
「あれは充分整ってる。丁寧な生活をしている人の家です」
なぜか強めの口調で諭され、逆にどんな部屋に住んでいるのか興味が湧いた。
コンコースから駅の地下駐車場へ進んでいき車を停めた。
「僕の家には調理器具がないから、出来合いのものを買おう」
助手席の車を開けてもらって外に出る。
地下駐車場もほぼ満車で、多くの人々が行き交っていた。
はぐれてしまわない様にイーサンの腕を掴むと、反対の手でそっと手の甲を撫でられた。
「消毒」
イーサンがポツリと零したセリフ。
今朝の男性に掴まれていた手を撫でられていることに気がついた。
撫でられたアンジュの手がイーサンの腕から緩む。
すかさずイーサンの手がアンジュの手を捕まえた。
ぎゅっと手を握られて歩き出すと、嬉しそうな彼の横顔をちらりと見て、そっと繋いだ手を持ち上げる。
「これ、消毒なの?」
「うん」
楽しそうに腕を振って駐車場を軽やかに抜ける。
コロコロと表情が変わる彼が可笑しくて思わず笑がこぼれた。
入口の壁面に貼られているフロアマップを二人で確認して、フードエリアを目指す。
「駅の地下街、行ったことがなかったから楽しみ」
「僕もだ。人が多くて近寄り難かった」
「お家が近くなのに?」
「会社の近くばかりで食事を調達するから、地下街は全く。でもアンジュに渡したグラスはこのビルの別のフロアで買った」
「なんでも売ってて便利だね」
「何か見たいものはある?なんでも買ってあげるよ」
「わぁ、すごくスポンサーっぽい言葉」
「僕は便利な男だからね」
少し皮肉っぽくイーサンが言うと繋いだ手を少しだけ振って誘導される。
目の前にはフードエリア、広い店内を見渡す限りの人集り。
そして美味しそうな香りと活気のある声が行き交う。
「お祭りみたい」
「すごいな」
手を繋いでいてもはぐれてしまいそうな程の人集りで、先頭を行くイーサンに引っ張られるようについて行く。
「わ、見て、あれ美味しそう」
「よし買っていこう」
「これは?どっちがいいかな?」
「僕はこっち派、迷うなら両方だ」
「こんなに?いいの?」
「少ないより多い方がいい」
「イーサンがとっても頼もしい」
注文した品物を手際よく包んでくれるスタッフから袋を受け取ると、すかさずイーサンが奪い取る。
「僕は便利で頼もしいし、君にやさしいんだ」
にこっと笑って手を引く彼に思わず彼の肩に頭を寄せてしまった。
ハッと気がつくとイーサンがにやりと笑ってこちらを見ていた。
「頭突き、してくれないの?」
ほら、と催促されて、思わずムッとする。
繋いでいた手を離して、彼の肩に拳でぐりぐりとパンチをお見舞いしてやった。
「もう、恥ずかしいからやめてよ」
「ははは、ごめんごめん」
全く堪えてなさそうにヘラヘラとする彼を見てこちらも参ってしまう。
彼のペースに持っていかれてただただ悔しい。
そのまま進行方向を向くと、迫ってくる人々に流されてあっという間に彼と距離が開いてしまった。
数歩ほど流されたあと通路の隙間に避難して大きな人混みに目を向けながらイーサンを探す。
「あの、すみません」
横からキャリーケースを持った1人のスーツ姿の男性に声をかけられる。
なにか捜し物かと思い振り向くと、ぐっと目の前に迫って数歩ほど壁側に追い詰められる。
顔を近づけてじっと見つめられた。
「今、ひとりですか?」
「えっ、と…」
「アンジュ!!」
人混みからイーサンの声が聞こえてそちらに目を向けると、イーサンはキャリーケースの男性に視線を向けて睨みを効かせていた。
イーサンがアンジュの目の前にやってくる頃には、キャリーケースを持った男性は反対側の人混みの方へ去っていったらしい。
「大丈夫だった?何かされてない?」
「大丈夫。手を離してごめんなさい」
「いや、アンジュは悪くない。全く油断も隙もないな」
人混みになれていないから、あっという間にはぐれてしまった事に驚いた。
次は離れまいとイーサンの腕に自分の両腕を巻き付けて身体もぴったりとくっつける。
「これで大丈夫」
残りの店舗も見てみようと意気込んでイーサンの腕を引くと、彼の足取りが重かった。
「ちょ、ちょっとまってくれ」
「えっと重かった?手荷物預かるね?」
イーサンの腕に巻き付きながら、もう片方の手に掛かっている袋に手を伸ばすと、イーサンは腕を広げて荷物を遠ざけた。
「そうじゃなくて、君は自然とやってるのか?」
「どういう事?あ、くっついてごめんね?迷子になったら大変だからと思ったけど、動きにくい?」
「全く油断も隙もないな…」
「え?」
「…いや、離れないようにくっついていてください」
「うん、わかった」
ぎゅっとイーサンの腕を掴んでしっかりと身体を寄せて「よし」と意気込むと「んん゛」と濁った声がイーサンから聞こえ、思わず見上げると「ごめん、行こうか」と返事が返ってきた。
真っ直ぐ人集りの通路を見据えて、再び大海原へと向い、ぐるっと1周店内を見て、前菜からデザートまで様々な惣菜たちを買い込む。
人混みをぬけて、駐車場に向かう。
ようやく程よい距離感でも良い程度のまばらな人混みになって、イーサンの腕からそっと離れた。
「いっぱい買ってくれてありがとう。すごく楽しかった」
「色々と大変だったけど、僕も楽しかった」
「美味しそうな食べ物ばかりで、余計にお腹すいちゃったね」
「確かに、ぺこぺこだ」
車の中に荷物を積んで、車に乗り込む。
「さてと、行きますか」
カチリとシートベルトを付けて、車のエンジンを掛ける。
「僕の、自宅へ」




