2:スポンサー契約
「スポンサー…?」
アンジュは彼が何を言っているのかよくわからない、という表情のまま、俯いていた顔をイーサンに向けた。
「そう、スポンサー。君が夜、働かなくてもいいように僕が君を援助しよう」
そうすれば夜道を歩かなくて済むだろう?と続けた。
これがイーサンの、アンジュを引き止める精一杯の策だったのだった。
◇◇◇◇
父は国を代表する巨大な財閥を築いた経営者の二代目で、イーサンは御曹司である。
つまりは箱入りだ。
小さな頃から沢山の女性たちがイーサンの周りによく集まるが、自分からアプローチをした経験が一度もない。
積極的に女性と親密になろうという気持ちにもなったことがないから、特に必要のないことだった。
父は「母との出会いは雷に打たれたようだった」とよく言った。
普段は厳格な父が酒を飲み赤ら顔になると必ず言う言葉だ。
まさか彼女との出会いであの飲兵衛の顔を思い出すことになるとは。
◇◇◇◇
――イーサンの声にじっと耳を傾けるアンジュ。
今会ったばかりで、突然スポンサー提案のプレゼンが始まった。
あまりのスピード感に思考が止まりそうになるが、驚きのあまりか涙は止まったようだった。
「必要な経費は僕が払おう、生活費のすべてを」
まずはこの程度で良いか?
とカフェで10年働いても稼げないような額をさらりと伝えられる。
どうにもおかしな展開になってきた。
早く逃げなければ、とアンジュは悟る。
「あの、本当に、大丈夫なので」
しどろもどろになりながら掴まれた手首を振りほどこうと引っ張ってみるものの、彼の腕はアンジュの腕をがっちり掴んで動かない。
「お願いですから、離してください。痛いんですけど」
そう強く伝えると、驚いたようにパッと手を離し慌てて謝る彼。
掴んでいた手首を心配そうに見つめる。
「……君を引き止めるには、どうしたらいい?」
イーサンは自分が赤面していることを感じた。
自分から言い出しているのに動揺が隠せない。
スタイリッシュなスーツに身を包み、トーンの落ち着いた低音の声色で、整った顔を真っ赤に染めながらそう言われ、思わず立ち止まる。
捨て身に近い彼のセリフに、誠実に答えなければならない気がした。
「えーと、あの、スポンサーになってもらったとして、私はどうしたらいいですか……?」
立場が逆転したように今度は彼に気を使って恐る恐るそう問いかけるアンジュ。
彼は口元に握りこぶしを当てわざとらしくゴホン、と咳をした。
「君は、な、にも」
「な、にも」
なんとなく彼のたどたどしい返答を真似たアンジュ。
イーサンは耳まで真っ赤になって、恥ずかしいのか手のひらをアンジュに向けて少しでも見られないように視線を塞ぎ、距離を取ってくる。
とんでもない金額を提示しておいて、なにも。とは。
思い過ごすには都合が良するが、
アンジュはそんな彼の様子を見て少し興味を持った。
見た目から感じる気品の高さ、丁寧な言葉遣い、しかしこのあどけない表情。
少しだけ、期待に応えてしまってもいいのではないかと。
さっきまで強ばっていた身体の力が一気に抜け自然と口元がゆるむアンジュ。
アンジュの柔らかい表情に目を見開くイーサン。
あ、と思い出したように手を叩いたアンジュ。
「自己紹介がまだでしたね、私はアンジュ。19歳です。学生をしています」
イーサンはアンジュの名を小さく復唱した。
「僕はイーサン。年齢は24歳、職業は会社員で、君のスポンサーです」
「もうスポンサー決定なんですか?」
ええ?と困ったように笑うアンジュ。
アンジュの笑顔が咲き乱れて視覚全体がスローモーションに見える。
イーサンは何故か眩しくて目を細めてしまう。
「今日はもう遅い。自宅の途中までで構わないから、送ろう」
そう言ってアンジュの横に並ぶイーサン。
自宅はどっち?と背の高いイーサンが少し首を下げて子供に問うようにやさしく言う。
スマートに人に手を差し伸べるイーサンに、慈悲深い人なのだろうな、とアンジュは思った。
さっきまでの警戒心は薄れてしまい、アンジュはすっかり彼に心を許してしまったようだった。
自宅の途中までなら、とイーサンに告げて歩き出す。
アンジュの歩幅にゆっくりと合わせて歩くイーサン。
道中では学校や仕事の当たり障りのない会話を交わした。
アンジュが近くの国家的難関校に通っていることをさらりと伝え、天は二物を与えていたか、とイーサンは思った。
「ここです」
15分ほど歩いた先に、この辺りでは新しい近代的なデザインの集合住宅前に到着した。
1階のフロントエリアにはセキュリティ室を兼ねたコンシェルジュがいるようだ。
イーサンはここでアンジュと別れても問題ないだろうと判断した。
「明日は何時から学校?」
「学校は9時からです。でも6時からカフェに出勤して…」
「君は朝も働いているのか!??」
スポンサー金額を上乗せするから辞めろと言い出すイーサンに、首を振ったアンジュ。
「早朝のカフェの勤務は、常連のお客様との会話も楽しいの。オーナーも良い人だし」
毎朝朝食を食べに立ち寄ってくれるお客たち。
店員と客の間柄であるが何度も顔を合わせる中で気軽に会話を楽しめるようになった。
学業と仕事の行き来だけの生活が当たり前になっていたアンジュは、家庭のような居心地の良い職場をすぐに辞める気にはならなかった。
「わかった。では僕もカフェにお邪魔しよう」
納得してくれたイーサンにありがとうございます、と丁寧にお礼を伝え別れを告げる。
自宅のロビーを進むアンジュを見送るイーサンに向き直り、にっこりと微笑みながら手をひらひらと振るアンジュ。
アンジュが見えなくなるまで手を振るイーサン。
彼女の姿が角の廊下に消えていったことを確認し、元来た路地に戻るべく道路に向き直った。
しかし数歩歩くとふらりとしゃがみ込んでしまった。
ドッ、
ドッ、
ドッ
息切れと動悸が今更出てきて小さく失笑する。
膝の上に腕をのばし頭を下げ、深く息を吐き出した。
今日初めて会った女性、それもまだ十代の女の子になんてことを。
先程の出来事を思い返してみて自分も強引に彼女を連れ出そうとしたあの男と同じじゃないか、と青くなる。
女性をエスコートし、2人きりで食事をしたことも何度もある。
これほどに緊張したことはあっただろうか?
吸い込まれるように目が離せなくなったことは?
心臓が切なく締め付けられることがあっただろう?
指先まで多幸感に飲み込まれて苦しいやら嬉しいやら、とにかく全身がうるさい。
たまたまあの通りをあの時間に通って本当に良かった。
いつもの駐車場が改修工事のため、別の駐車場へ止めていた。
本当に偶然の出来事だった。
あんなところにカフェがあったのか、知らなかった。
あんな女神のような女性が本当に存在するのか、知らなかった。
「「出会いは雷に打たれたようだった」」
ふとまたあの飲兵衛の声がリフレインし、ため息が出た。




