18:素の自分
今日の授業は6限まであった。
昨日、一昨日より帰宅時間が随分と遅い。
先週の水曜日はこのままバイト先へ行っていたが、今日はまっすぐ自宅へ向かう。
学校近くのいちょう並木に黒のセダンは見当たらない。
昨日彼に渡した領収書に記載の時間はとうに過ぎてるから、食材を求めて小売店に出向いて鉢合わせることもないと思う。
彼と出会ったのはたった1週間前だ。
その事がずっとずっと遠い昔のことのように思う。
毎日のように会っているから、昔からの馴染みなんじゃないかと少し錯覚してしまう。
どうせこんな気持ちになるなら、朝、帰宅時間を伝えていればよかった。
彼の予定を聞いておけばよかった。
いつも、いつでも当たり前に会えたらいいのに。
自分の我儘のように勝手に気持ちが伝わってしまったらいいのに。
「おかえり」
自宅前のロータリーで聞き覚えのある声、見覚えのあるセダンの車、見覚えのあるシルエット。
夕焼けで辺りが暗くなるなか、街灯がそこだけ照らしていた。
「君に会えると思って待ってた」
控えめに笑う彼が、両手をぐっと上げて身体を伸ばした。
ずいぶん待たせてしまったらしいことが伺える。
どうして待っててくれたの?いつから待ってたの?
色んな事を聞きたいが期待していた分、自分の気持ちが伝わってしまうのが悔しい。
嬉しいのに、なんだか、いつものように振る舞えない。
じっと彼の姿を見つめて立ち止まっていたら、イーサンがこちらの様子を伺うように近づいてきた。
足取りは慎重で、どことなく焦りが見える。
「予定も聞かず待ち伏せてごめん。嫌な思いをさせたなら謝る」
彼からの言葉に返事もせずじっとその場に突っ立ったまま動かなかった。
プライドが邪魔をして心と身体がチグハグだ。
近づいてくる彼の足元を真顔でじっと見つめる。
「…アンジュ?」
彼が目の前まで近づいてきた。
そのまままっすぐ彼の胸を目掛けて頭をぶつけて、ぐりぐりと擦り付けた。
「!!?」
会えて嬉しいと素直に伝えられず、顔をあげることができない。
可愛く喜んで笑顔を振りまけばいいはずなのに。
分かりきっているのに、何故かひねくれてしまう。
「……君、照れると頭突きするの?」
イーサンの言葉にバッと顔を上げて3歩引いた。
そういえば花畑でも頭を擦り付けていた気がする。
確信をつかれている気がしてショックだった。
彼の表情を確認するとさっきまで焦っていた顔はにんまりとしていた。
「ごめんごめん、可愛くて、つい、ごめん、ごめんって」
にたにたと笑うイーサンの腹部を2回叩いてやった。
全く痛がらない彼にむぅっと頬を膨らます。
恥ずかしいやら悔しいやらでいっぱいいっぱいだった。
「本当に会えてよかった」
彼が素直に気持ちを伝えてくれるものだから、ひねくれている自分が変に思えてきてしまって、思わず小さく頷いた。
アンジュの様子を確認してイーサンは車の助手席の扉を開ける。
「駐車場に車を寄せるから乗ってくれる?すぐだけど、少しでも傍に居たいから」
とことん彼のペースに持っていかれて参ってしまう。
エスコートしてくれた車の助手席に座り、ほんの数十秒のドライブをする。
「…叩いて、ごめんね?」
「全然。素の君が見られてうれしい」
「え?」
素の、自分。
そう言われてハッとした。
「アンジュは普段嫌なことがあっても感情的になったりしないだろう?ずっと我慢してる。だから僕の前では怒ったり、泣いたりして欲しいから」
さぁ、着いたと行って運転席から出ていくイーサンを目で追うことしか出来ない。
去り際に「どうして分かるの?」と聞くと「なんとなく」と返事が来る。
彼が助手席を開けてくれて数拍後ようやく気がついた。
「……ありがとう」
「いいえ」
呆気にとられたまま、ぼんやりと彼の方を見つめる。
「イーサン、やさしいね」
「逐一言っておくが君にだけだからね」
一々口説いてくる彼がおかしくて思わず吹き出した。
「やっと笑ってくれた」
そう言ってほっとした顔で手を差し伸べてくれる。
迷わず彼の手を取って車から降りた。
「簡単なものしか作れないけど、食べてく?」
「その言葉を待っていた」
彼がニヤリと答えるから、念を押して余り物しかないことを伝える。
「何を食べるかより、誰と食べるかだ」
そう自信たっぷりに答える彼が眩しかった。
自宅にたどり着き、すぐにキッチンに向かって手を洗い終わったあと、イーサンは持参していた手荷物をアンジュに渡した。
「これは…?」
「グラスだよ、君の家で一緒に使いたいんだけど」
箱を開けると小ぶりなワイングラスだった。
普段使いも出来そうな背が低いコロンとした可愛らしいフォルム。
飲み口も広く洗いやすそうで、手にも収まりやすくちょうど良い。
「かわいい、ありがとう」
新品のグラスを2つその場で洗う。
「でもどうしてグラス?」
「君と出会って1週間だから、記念になにか欲しくて。父が母に贈っていたのを思い出して買ってみた」
「イーサンって本当にまめだね…」
「他の男を寄せ付けないために必死なだけだ」
「ふふふ、必死なんだ」
「さぁ、僕は何を手伝ったらいい?」
イーサンから会話の流れを唐突に切られて、司令がかかる。
さっさと食事の準備をしなければ。
寸胴に水を貼り火をつけ乾燥パスタと卵を準備する。
豚肉とアスパラをカットするようにイーサンに命じる。
アンジュはその横できゅうりとトマト、ラディッシュを手早くカットし、ボウル型のお皿にオイルや塩などと一緒に手早く混ぜ合わせる。
イーサンが刻んだ豚肉とアスパラをフライパンで炒めて茹で上がったパスタを投入し、調味料で味をつける。
茹でた卵を剥き、カットし、ボウルに並べる。
炒めたパスタをお皿に盛り付けし、テーブルにそれぞれ置き着席した。
「春のサラダ&パスタです。さぁ食べよう」
またあっという間に完成してしまった。
二人で新しいグラスを控えめに付き合わせて乾杯する。
同時にパスタをフォークに巻き付けひとくち食べる。
「うま…」
「ふふふ、簡単で美味しいね」
「とことん豪華な夕食だ。いつもありがとう」
「いえいえ」
「ところで…あー、言いたくなかったら言わなくていいんだけど」
「?」
イーサンが言葉を濁す。
パスタをずっとくるくると巻き付けて、なかなか口に運ばない。
「今度の、休日は…何してる?」
期待と不安が入り交じっているような表情で見つめられる。
あっけに取られてしまった。
毎日会えたら、うれしい。うれしいに決まってる。
でもこんなに毎日会っているのに、休日も会う気だろうか。
どうしよう。
彼を自分が縛っておいていいのだろうか。
もしも、突然、彼が居ない生活が来たらどうする?
会えない日が怖くなる気がする。
少し考えつつ、アンジュは答えた。
「土曜日は昼までバイトで、日曜日は課題を片付けたり、買い出ししたりする予定…だ…けど…」
ぽつりぽつりとアンジュが呟くと彼は目を見開いていた。
彼の周りの景色が歪んで見える。
段々と闇に包まれて、目だけがこちらを向いている、ように見えた。
なに、これ、こわい。
「君は、土曜日も、働いているのか」
怒ってる。真顔で責められる。こわい。
戸惑いながら見ていると、彼の顔がハッとするように戻る。
「ごめん、あまりにも驚いてしまって」
と言ってからパクパクとサラダを口に放り込んでいた。
そんな彼を見てパスタを小さく丸めてぱくりと食べる。
「えっと…土曜日のシフトも、控えようかな?」
「!」
「先週の花畑も楽しかった、か、ら…ちょっとイーサン?」
ぽつりぽつりとアンジュが呟くと彼はまた目を見開いていた。
彼の周りが光輝いているように見える。
今度は何、こわい。
「まだ、デートのお誘いをしてなかったけど、僕のために時間を空けてくれるんだ?」
ハッとした。
しまった、つい会話の意図から口走ってしまった。
にたにたと笑いながらグラスに口をつける彼を、頬をふくらませて睨みつける。
「…代わりに日曜日シフトいれるもん」
「それだけは本当にやめてください」
そう早口で言って慌てはじめるイーサンは、まだ水が入ったグラスにたっぷりの水を注いだり、サラダを取り皿に取り分けたりと世話を焼き始める。
なんだかおかしくてクスクスと笑ってしまった。
「えっと、僕と休日にデートしてくれますか?」
「うーん、どうしようかな」
「誠意をもって協議すると記載したはずだ、頼むから誠意を持ってくれ」
突然契約書に記載されている事項を持ち出してくるイーサンが、あまりに必死で声を上げて笑ってしまった。
ひとしきり笑ったあと、たっぷり注がれたグラスに口をつけてからイーサンをじっと見つめた。
「デート、しましょ」
にっこり微笑んで伝えれば、彼もホッとしたような顔で笑った。




