アゲハチョウの不在、影と平面の戦い
「うわ、きっしょくわるー」
千代の小屋に続く道で、七瀬が突如叫んだ。
俺も「気持ち悪い」と叫ぶ七瀬の気持ちは痛いほど分かった。
地震かと思うほど、葵山全体が震えたのだ。尋常ならざる魔術が発動したのだ。人間相手に使うにはあまりに過剰な。
となれば、この魔術の使い手が対峙しているのは揚羽だ。そして千代もいる。
轟音の出処を容易に辿れるように、俺は魔術の発信源に駆け出した。小屋からは離れる方角だ。揚羽ならなんとかなると信じたいが、それが揺らぐほどのモノだった。
「死ぬで、あんた」
背後から七瀬が叫ぶ。
無視して、走る。
「ああ、もう、知らんで」
すぐに背後からチャッチャと爪が固い地を蹴る音が追いかけてきた。横並びに狼の姿の七瀬が追いつく。満月色の瞳には、あきらかにおびえの色がある。
付いてこなくていいと言ってやりたかったが、正直味方はひとりでも欲しい。
俺と狼は、夜間の道をひた走った。
道なりに走ったのはほんの数分ほどか。
道の真ん中に立ち塞がるように背を向ける男性のシルエットと、さらに奥で蛍のような光を漂わせる千代がみえた。
揚羽はどこだ。
俺がほんの一瞬戸惑う間に、七瀬が弾丸のように俺を取り残して駆け出す。
身体を突き破らんばかりの突進は、男の『壁』に阻まれた。しかし事故車のフロントガラスばり放射状のヒビが入り、さらに狼は爪をねじ込もうともがく。
「すさまじいな」
落ち着いた声。
俺は周囲の石や枝に魔力を付与し、男の足元を狙って放った。しかしそれらも男の『壁』に食い込む程度で決定打にはならない。
七瀬と対峙した時に使用した『平面會』の魔術、相手の足元の地質を変化させる魔術を使用しても、何の変化も起きない。無力化されたのか、あるいは足元に魔力を張って変化しないよう働きかけているのか。
「平さん」
千代が喉が声をあげる。
千代の無事を確認できたことに安堵しつつ、次の手を考える。
対人魔術。『平面會』としてはあるまじき人を傷つけるための魔術。
「叔父さん、やめて」
千代の声に思わず手が止まる。
淡い光に照らされた男は、徳川賢三に似ているが、決定的に違う。エネルギッシュさはなく、落ち着き払った老獪さが漂っている。
徳川の関係者。千代が車内で話していた『優しい叔父さん』ではないのか。
敵ではないのかもしれない。
そう脳裏によぎった瞬間、狼が自らの影から伸びる触手に絡め取られ、男の『壁』から引き剥がされた。
狼は触手に持ち上げられ、地に強く叩きつけられる。狼がぐったりと舌を出して倒れるも、触手は容赦なく狼を絡め取り、小枝でも投げるように俺に向かって投げ出した。
どすん。
全身に衝撃が走り、固いチクチクした毛が服に覆われていない身体に刺さる。俺は狼を受け止める形で仰向けに倒れた。
背中から伝わるヒンヤリした土の感触と鈍い痛みに呼吸が止まる。と、同時に背中を虫が這うような怖気が走り、あっという間もなく、俺自身から伸びる黒い縄のような影に地面に縛り付けられた。
抵抗の呪文を口にする間もなく影が俺の口元に入り込み、口を塞がれる。鼻だけでしか呼吸出来ない。
何もかもがあっという間に終わった。
「見下ろす形になってすまないが、いくつか質問に答えてくれないか」
仏像のような穏やかな顔つき。しかし中身は阿修羅だ。あまりに対人戦に慣れきっている。
「叔父さん」
千代が、男に駆け寄る。涙目で取り乱した姿はいつもの快活な様子がまるでない。
「もうやめて。こんなこと」
「もちろんだ、千代。だが大人は自分の行動に責任をとらないといけない。『こんなこと』になったのは、こちらの」
男が俺に視線を向ける。
「平さんのせいだ」
「違う」
千代が男にすがりつき、強く首をふる。
「ウチが頼んだの。責任はウチがとる。だから」
男が目を細める。千代に対して向けられる視線は、駄々をこねる幼子に対する保護者の眼差しだ。
「子どもには責任はとれないんだよ。責任というは、大人がとるものだ」
優しいが断固たる口調だ。
千代のすすり泣く声が山道に響く。
俺は、アゴを引き、俺の腹の上で俺ごと縛り付けられている狼をみた。狼のまぶたがヒクヒクとかすかに動いており、目覚める直前と思えた。
脱出する可能性はある。時間さえ稼げれば。
俺は男の背中越しに千代を見た。
ウチの周りから人が消えていく。
アゲハ姐さん、平さん。
視界が狭まるほどに呼吸が荒く、苦しくなる。
「千代」
正光叔父さんが優しく呼びかけてくる。黒いオーラに身体が震える。
どうすればいいのかまったく分からない。
すがる思いで平さんに目を向けてしまう。
その時、平さんと目が合った。
その目はまだ戦えると訴えていた。仰向けで、狼の下敷きで、縛られていても、まだ平さんは戦うつもりだ。
ウチは平さんから視線を外し、まっすぐに正光叔父さんを見た。
狭くなっていた視界が晴れる。そうすると、先ほどまで気付かなかった事が明るみになった。
「叔父さん、なんかすごくやつれてない」
「あぁ、そうだな。あの女性を抑えるのに、予想外に力を使い過ぎたな。こんなはずではなかったんだが」
つまり、正光叔父さんは、アゲハ姐さんのために力を目一杯使ったんだ。そして、その余力でなお平さんと狼を圧倒したんだ。
改めて背中が、ぞわりとする。
しかし、それにしても疲労し過ぎてる気がする。正光叔父さんは、汗を何度も拭い、真っ直ぐに立つこともままならないのか、少し猫背になってしまっている。
「あの人、アゲハさんっていうんだけど、すごく強い人なの。叔父さん、どうやったの」
好奇心と時間稼ぎ、その両方を兼ねてなるべく無垢な子どもの素朴な疑問に聞こえるよう尋ねる。
叔父さんはぼんやりした目で「あぁ」と呟く。
「『徳川』家という葵山の土地の所有者として、土地の、そうだな、神様の力を借りて、アゲハという女性を封じたんだ」
「ずっと閉じ込めたまま、なの」
「いずれ自力出てくるだろうが、数週間は無理だろう」
叔父さんが、道の脇に座り込む。高熱の時みたいに呼吸が荒い。
「千代。平さんに、何を依頼したんだ」
「それを答えたら、叔父さんはどうするの」
「内容による。だがもし賢三を、家族を傷つけるような内容なら、止める」
ぜいぜいと息をつきながら、叔父さんからは静かな威圧感が消えていない。
「さっき、叔父さんは『責任は大人がとるもの』って言ってたよね。だから、ウチは責任をとらせようとしてるの。それはいけないことなの」
叔父さんが力なく首を横に振る。
「私の質問への答えになっていないよ。だが千代の問いに応えるならば、責任をとらせること自体は否定しない」
だけどね。叔父さんはふらふらと立ち上がる。
「それが家族同士争うことに繋がるならば、私は全力で阻止する」
ウチは叔父さんに一歩、歩み寄る。
「どうして止めるの。ウチのパパとママは叔父さんの言ってる『家族』に殺されたのに。『家族』だから責任は取らなくていいってこと」
「賢三のことか」
ウチが頷くと、叔父さんは目を閉じて黙り込んだ。
嫌な沈黙の時間だった。
叔父さんが再び口を開く。
「千代の言い分は分かった」
「なら、」
叔父さんの顔には色んな感情がごちゃ混ぜになっていて、どんな表情といっていいのか分からない。
「それでも、私は千代を止めないといけない」
「叔父さん」
「賢三は千代にとっては仇かもしれないが、私にとっては弟なんだよ」
「パパは正光叔父さんのお兄さんでしょ」
叔父さんが胸を突かれたように苦しそうな表情になる。それが魔術の疲れなのか、ウチの言葉のせいなのかは分からない。
言いたい事がウチの脳裏を駆け巡り、もう時間稼ぎとかは彼方に置き去った。
ただ、伝えたい。どん底だったウチを助けてくれた人だから。
「叔父さんにとって『家族』は重りなの。それに縛られて動けなくなるなら、ウチはひとりで進む。邪魔はさせない」
千代と、男、正光という魔術師が話し合っている。深刻な話だということは空気感からひりひりと伝わってくる。
俺の腹の上でもぞもぞと狼が動き出した。祈る気持ちで視線を向けると、パチリと狼が目を開いた。
俺と狼の視線が合う。狼の前進が熱を帯び「やってやる」と、ばかりにゆっくりと瞬きをした。
俺はアゴを引いた。意図は伝わっている、はず。
「、、、邪魔はさせない」
千代の力強い宣言。
狼が七瀬に姿を変え、影の縄が緩む。
俺と七瀬は、なりふり構わず身体を動かし、縄から脱する。俺の口からするりと影の縄が力なく地に落ちた。
イメージするのは大蛇。
唾棄すべき対人魔術、『窒息』。
透明で真空の大蛇を、正光の身体に這わせるように操る。そして大蛇が正光の顔、鼻と口を覆う。
正光が俺を振り返り、反射的にだろう、自らの口に手をやり、振りほどこうとする。だが、その手は空を切るばかり。
「千代、離れろ」
俺の叫びに、千代が道をそれ、正光を回り込むように走りだす。
「タイラ、やったれ」
目線だけを七瀬に向ける。
七瀬はへたり込み上体だけを起こしていた。足は本来曲がらない方向に曲がっている。それでも七瀬の目にはギラギラした熱が宿っていた。
「平さん」
千代が俺と七瀬を間に挟んで、正光から距離を取っていた。その目には不安の色が覆い隠せていない。
「小屋まで行け。後で追いつく」
「うちはええから、行け」
千代の視線に気づいたのか七瀬が手を払うように振る。千代が「はい」と駆け去っていく。
「タイラ、何とかできるか」
「やってる」
正光がひざをつくも、俺を見据える目は冷静さを取り戻していた。『窒息』は呼吸が出来ない恐怖で相手をより早く無力化する魔術だが、それすらほんの数秒の猶予しか作れない。
正光がひざに手をつき、ゆらりと立ち上がる。
『窒息』はもう正光に破棄される寸前だ。
「なんか大技ないんかい」
「ある、けど、」
俺の脳裏には『平面化』が浮かんでいた。
『平面世界』に閉じ込めれば、少なくとも俺自身の魔力が切れるまでは正光を隔絶できる。
「なら、それや。うちに遠慮すな」
七瀬は、俺が動けない七瀬を巻き込むことを懸念していると思っているのだ。
問題は俺の魔力量では大した時間稼ぎにならないということなのに。
他の対人魔術を繰り出したところで、正光には大したダメージにはならないだろう。
「はよやれ。うちが許可したる」
『窒息』が解除された。
正光が呪文の詠唱を始める。俺はその呪文の断片だけで、刃物が指先をかすめたようなヒヤリとした感覚に震えた。
『平面化』だ。
結局頼れるのは、慣れ親しんだものしかない。
俺が『平面化』を唱えたとき、思わぬ感覚が身体中を駆け巡った。
蛇口ひねったら想定以上に水が出てきた、重いものと思ったら軽かったように、膨大な魔力があふれ出した。
『平面化』は成功した。正光は『平面世界』に送られ、俺が解除するか魔力が切れるまでは出てくることは出来ない。
七瀬が「うわ。何したん」と目を丸くする。
確かに異様な光景だった。
山道に四角く切り取られた電話ボックス程度の空白が生じていた。その周囲は木々や土など、なんの異変もない山の光景だけに、空白地帯は不安を感じさせる。
ひとりで『平面化』を練習していた時にも見たことがある光景だが、何度見ても慣れない。
いや、そんなことよりも。
俺は自身の両手をじっと眺めた。
全く魔力が減った感じがない。『平面世界』の維持にも苦を感じない。奇妙な全能感は、俺自身の感覚を狂わせそうで、高揚と同時に不安を煽ってくる。
「やるやないの」
七瀬が飛び跳ねんばかりに手を振り、すぐに顔を歪める。
「いったぁー。ちょ、なんとかしてぇな」
「あ、あぁ」
俺は七瀬に肩を貸して立ち上がらせる。
ずっしりと重い。
「おもっ」
「ふざけなや、あんた」
実際、ふらついてしまった。だが、俺自身の身体が変化したわけではないことに安堵する。
「取り敢えず、小屋に行こう」
ぶつくさと文句を垂れる七瀬を引きずるように俺は千代の待つ小屋に向かった。




