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アゲハチョウと影の魔術師、平面の魔術師と狼の対峙

 人狼、七瀬の牙が俺の腕に迫る。

 とっさに俺の背中の地面を泥のように緩くする。がくんと身体が沈み込み、ガチンっと狼の牙が空を噛み切る。

 狼を腹に乗せたまま、たわんだ地面の底で俺は死に物狂いで狼の前足の脇をつかみ、横に押し出した。

 ごろごろと狼が転がるも、すぐに立ち上がる。

 が、沈み込む地面に足を取られまともに走れない。ウォーターベッドの上を全力疾走できないように。

 距離は取った、時間も稼げる。この距離は魔術師の間合いだ。

「おい。もう勝負はついた」

 俺は手を前に突き出し、魔力を集める。

「時間がないんだ。お互いに本気でやり合うつもりがないなら、もうやめよう」

 最初に組み伏せられたとき、狼は俺の腕を噛もうとした。命を狙うなら首のはずだ。

 狼がぶよぶよとした地面のうえで、不快そうに足をバタバタ動かす。

「そっちが茶番を続けるなら、俺は容赦しない」

「分かった。分かったからこのぶわんぶわんやめてくれや」

 ヒトの姿になった七瀬が尻もちの体勢で手をぶんぶんと振る。

 地面にかけた魔術を解除する。

「あーしんど。『平面會』って争い事NGなのにやるやん」

『平面會』まで知ってるのか。

 聞きたいことは山ほどあるが、とっさに浮かんだ考えをぶつけてみる。

「百々子の知り合いか」

 七瀬がじろりと俺をにらむ。

「馴れ馴れしくゆーなや。モモちゃんのソンゲンを傷つけといて」

 ソンゲン。尊厳。

 俺が返答しないことに苛立ったのか、七瀬が立ち上がり声をあげる。

「ベッドの下でモモちゃんがどんな気持ちで、」

「もういい、分かった」

 どうにも緊張感が保てない話だ。

 七瀬は百々子の知り合いに違いない。『あんな話』を百々子が、気を許していない者に話すはずがない。

「モモちゃんと耐久泡盛レースして聞き出したけど、あれは無いわぁ」

 いや、本当に気を許してるのか。ついうっかりでは。

「百々子のことはあとで話そう。とにかく今は仲間と合流したい」

 七瀬はぶっくりとむくれながらも「そやな」と呟き、ぱんぱんとジーパンの土を払った。

「で、あんたのお仲間って誰。いまこの山にめっちゃヒトがおるんやけど」

「女性2人組だ。蝶みたいにヒラヒラしたヤツと、ショートカットで芯のある真面目なギャル」

「説明下手か。徳川のお嬢さんがツレと歩いとるけど」

「それだ。案内頼めるか」

「あいよ。あ、モモちゃんの件はあとでキッチリ詰めるからな」

 七瀬が狼の姿に転じ、振り返ることなくさっさと走り出した。

 走るしかない。日ごろから運動しておけばと今さらの後悔が湧き上がってきた。


 狼は容赦なく山道を駆けた。時折立ち止まって鼻先をくんくんと中に向けたり、遠吠えをしたり、逆に遠吠えに耳を傾けたりした。

 スマホの通じない山中では最強の情報伝達手段だった。

 俺は慣れない山道を走り、心臓が破裂しそうだった。

 不意に狼が立ち止まり、七瀬に姿を変えた。視線の先には土を踏み固め整備された道があった。

「この道の先にある小屋にお二人さんは向かっとる。あとは道なりにいこか」

 返答したくても出来ないほど息をきらし、俺はごくりとツバを飲み込んでなんとか頷いてみせた。

「徳川のお嬢さんはともかく、もうひとりのツレは、あれは何や。言葉にしづらいけど、何か、コワいな。羊の皮かぶった熊みたいや」

 七瀬が気味が悪そうに顔をしかめる。

 揚羽のことを言っているのだろう。ゴリラに熊に蝶と色々言われるな。ゴリラは俺が言ったのか。

「気に、しないでくれ。そういうやつだ」

 息を整え、思わず苦笑する。

「あと、山をうろついとる連中。魔術師やけど、まあ、大したことないわな。あんたの方が随分とマシや」

 でもな、と七瀬が身震いする。

「ひとり、ひとりだけヤバいのがおる。魔力も匂いもほぼ完璧に消しとる。うちら人狼の中でもベテランしか気づけへんくらいにな」 

 とっさに浮かんだのは徳川賢三だった。しかしまさか乗り込んでくるとは思えない。

 そしてそれだけ腕の立つ魔術師を賢三が刺客として送り込んだのなら、単独でもよかったのではないだろうか。

 凄腕の魔術師ひとりと、有象無象の魔術師複数。どうも噛み合っていない感じがする。

「そのヤバい魔術師はいまどこにいる」

「わからん」

 不機嫌な声で七瀬が言い切る。

「うちの仲間が近づいたら、例の『穴』に入って別の場所に移動するから動向が掴めん。かと言って近づき過ぎたらヤラれそうでなぁ、手も出せん」

 むっつり黙り込む七瀬越しに、暗闇の奥に建物の影が浮かび上がってきた。

「ついたで」

 それは、千代の両親が建てた小屋だった。


 アゲハ姐さんが「森のくまさん」を口ずさみながら山道を進む。

 ウチも輪唱に加わって場を盛り上げる。

 アゲハ姐さんの魔術の光が明るく照らしていても夜の山はやっぱりコワい。

 うぉーん。

 近くで、そして遠くで狼の遠吠えが聞こえる。

「あらあら、平さんったら、すっかりオオカミさんと仲良くなったみたいですわ」

「狼のコトバ、分かるんすか」

「えぇ。ワタクシたちの居場所を連絡し合っておられますわね」

 平然と言い放つアゲハ姐さんに、はぇーとしか言えない。本当に底しれない人だ。本当にヒトなのか。カミサマじゃないだろうか。

 そんなことをボンヤリ考えながら歩いていたら、記憶が急速に焦点を結んだ。この道は覚えてる。あと、もう少しで小屋だ。

 パパとママに手を引かれ、当時のウチが「遠い。つかれた」と不満たらたらに歩いた道。

「千代」

 アゲハ姐さんがウチの肩に手を添える。

 はっと夢から覚めたように現実に引き戻される。

 アゲハ姐さんはウチを見てはいなかった。あと、数十メートルであの小屋がある。その道の上にいる人影を、じっと見えていた。

 正光叔父さんがいる。

「叔父さん、なんで」

「千代、帰ろう。話がある」

 まるで家の中での会話みたいに正光叔父さんは、自然でいつも通りだ。ちょっと影があって、仏像みたいに穏やかな人。

 なのに暗い山のなかだと、まるで違う人に見える。

 思わず息を飲み、一歩後ずさってしまった。

 そんなウチの前に、アゲハ姐さんがすっと割ってはいる。正光叔父さんとウチとの間に、盾のように。

 正光叔父さんとアゲハ姐さんが向き合い、対峙する。口火を切ったのは叔父さんだった。

「私は千代の叔父の徳川正光と申します。ここまで千代を守ってくれことに感謝しております。あとは私にお任せください」

「ご丁寧にどうも。ワタクシは揚羽舞と申しますわ。この名前は千代からアイデアを頂きましたの。つまり、もう千代とワタクシ家族みたいなものですので、どうぞご心配なさらず」

 正光叔父さんは表情を崩さない。「そうですか」と相槌を打っただけ。

 怒鳴りあったわけでもないのに、ぴりぴりと空気が張り詰めて、呼吸し辛いと感じる。

「あなたは、私の理解を超えた存在のようだ。普段なら伏してお願い奉るだけなのだが、どうあっても譲ってはくださいませんか」

 叔父さんの言葉にアゲハ姐さんが「あらあら」とくすくす笑う。

「千代。貴女はあの小屋に行きたいのでしょう」

 アゲハ姐さんが、無防備と思えるほどあっさり正光叔父さんに背を向け、ウチに向き直る。

 ウチは大きく頷いた。

「うん。叔父さん、ウチのことは大丈夫。ウチはウチの意思でここにいるの。あとで、全部終わったら話すから」

 ウチの呼びかけに正光叔父さんの目に微かな悲しみの色が広がる。

「終わってからでは遅いんだよ、千代。特に家族間のことは取り返しがつかないんだ」

 正光叔父さんのまわりに黒闇のなかでも分かるほどの漆黒のオーラが漂う。深海生物の触手のようにうねるそれは、身体のそこから寒気を呼び起こすものだった。

「あなたにはご退場願う」

「ロケットえんぴつで宇宙にいけるとでもお思いですの」

 正光叔父さんが呪文を唱える。

 アゲハ姐さんの足元から植物のツタのように影が伸び、巻き付き、絡め取る。

 その時、ウチは見てしまった。

 あの、アゲハ姐さんが目を見開いたのを。

 音もなく、アゲハ姐さんは影のツタに絡め取られ、地の底に引きずり込まれた。

 正光叔父さんが、ゆっくりとウチに歩み寄ってくる。そして、アゲハ姐さんが消えた地面に視線を落とす。

「あなたは少し軽く見過ぎたようだな。ここが、徳川の土地で、私が徳川の人間だということを」

 正光叔父さんが顔を上げる。いつもの仏像のような穏やかな顔つき。

「土地の力というのはね、千代。みんなが思っているよりも強力なんだよ」

 ウチは、動けなかった。空が落ちてくる日があっても、こんな日は来ないとどこかで甘えていた。

 正光叔父さんが、ふうっと息をついた。

「申し訳ない。ロケットえんぴつは世代じゃないんでね」

 


 

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