アゲハチョウは欠点を晒し、暗い山に蛍が光る
日曜日の昼。俺が借りてきたレンタカーに、揚羽と千代が乗り込み、千代の家に一旦立ち寄ってから葵山に向けて出発した。
千代の家はオートロック付のアパートだった。
「お待たせしましたー」
千代が明るく後部座席に乗り込む。
「学校は休むことになるけど、本当に大丈夫だな」
「はい。あ、正光叔父さんに連絡しとこー。ちょっと風邪気味って」
千代がポチポチとスマホをタップし、説明がいると思ったのか顔をあげた。
「正光叔父さんは、パパのお兄さん。めっちゃいい人でー、ウチが困ってるときにすぐ助けてくれた人なの」
「以前千代さんがちらっと言ってたTOKUGAWAの会社の人ってその人のことか」
「そう。仏像みたいに落ち着いててダンディーな人」
「はしゃいでる仏像ってみたことないな」
努めて明るい千代に合わせ、俺は軽口を叩く。
「千手観音はいかがでしょうか」
揚羽が楽しそうに茶々を入れる。
「あの人は手ぇ振ってるわけじゃないからな」
「あの人ってフケイ過ぎ。あの方でしょ。せめて」
「そういう問題じゃないだろ」
葵山までの道中、車内は終始この調子だった。
俺や千代は不安を少しでも遠ざけるために、揚羽はただ楽しんでいた、気がする。
葵山に到着したとき、時刻はすでに夕方に踏み込んでいた。
私有地につき立ち入り禁止の看板が、ぽつんと山道の脇に立っていた。車を止め、車外に降りる。生え放題の草の上に降ろした靴が、さくっと寂しげな音をたてる。
「小屋まで行こう。案内しますね。っていっても、道なりに進むだけなんすけどね」
いきましょーと間延びした口調が夕暮れと相まって淋しげに聞こえる。
気丈に振る舞っても、亡くなった両親との想い出の場所に、図らずしも踏み入れることになったのだ。思うところがあって当然だろう。
俺が千代に続こうと山に足を踏み入れた瞬間、階段を踏み外したように足が地をすり抜け、空を切った。
地の底に落ちていく内臓が浮かぶ感覚。
そして俺は何もできずに底に落ちていった。
落ちる最中、死ぬ、と思ってしまった。
しかし落ちた先は存外に柔らかかった。枯れ草と土の匂いに包まれ、俺はうつ伏せの体勢から勢いよく立ち上がり、『壁』の魔術を展開しようとした。
「あ、ちょい待ち。ニイチャン落ち着きや」
映画で覚えたような違和感のある関西弁に、毒気が抜かれそうになる。
いつでも対処できるよう警戒しつつ、声の主を見る。
若い女性だった。パーカーにジーンズ姿でどう見ても山登りに来た格好ではない。
女性は両手をぶんぶんと振る。
「そんな怖い顔でみなや。こっちかてびっくりやねんから。その拳銃のトリガーに指かけるみたいに、ビンビンの臨戦態勢で見られたらチビッてまいそう」
見た目に反して下品だな。だが、今はのんびり雑談している場合ではない。
「コレはあなたがやったんじゃないのか」
俺は視線は女性に向けたまま、天を指さす。
「ちゃう。てか、あんたやないの。あ、うちは散歩してたらズボってハマってここにおんねん。ちなみに枯れ草の山はうちがやったんちゃうよ」
俺は周囲をそれとなく観察する。
葵山のどこか別の場所だろうか。周囲を鬱蒼とした木々で覆われた開けた場所だった。枯れ草の山を除けば、背の低い草がうっすら生えているだけの広場。
入口から、別の場所まで『穴』を繫げて、移動させられたのだ。
だが、女性の言葉を信じるなら術者はわざわざ枯れ草のクッションを置いたことになる。もっとエゲツナイ罠を仕掛けることも出来たはずなのに。
「なー。あんた魔術師やろ。匂いでわかんねん。魔力の混じった匂い」
女性が、にこにこしながら近寄ってくる。
俺は隠しても仕方がないと判断し、頷いた。
「あなたは人狼、か」
俺の言葉に、女性が目を丸くし「なんでー。うちなんかしくった」とわざとらしいくらいに驚いている。
この状況で、魔術のことを知っていて、『匂い』がなどと言えばわかりそうなものだが、結局のトロコは。
「いや、勘だ」
「いややわ、ダマされた」
女性がぺたんと尻もちをつく。
俺はスマホを取り出し、確認するも圏外だった。舌打ちして、ポケットにしまう。
「いきなりで悪いが、緊急事態なんだ。俺の仲間のところにすぐに行きたい。手を貸してもらえないか」
「ええよ」
あっさりと女性は答えた。よいしょっと立ち上がると、思ったよりも身長が高いことに気付いた。
「うちは、ナナセ。『七つ』に、『瀬戸内海』で、七瀬。あんたは」
「タイラ」
女性の目がすうっと細くなる。ほわほわした空気が張り詰める。
女性の目が、飛びかかる前の肉食獣めいた鋭さを帯びる。
「タイラ、って、あれか『平家物語』の平か」
「あぁ」
「そか。あんた、いっぺん死んどくか」
七瀬の姿が、すっと消えた。いや、縮んだ。
俺が視線を落とすのと、みぞおちに強烈な体当たりを受けたのは同時だった。
草むらに仰向けで押し倒される。
生暖かい息が顔にかかる。眼前には犬が失った野生の力に満ちた狼がいた。尖った口吻から牙をむき出し、唸り声をあげる。
間近で見る狼の口の中は開かれた果実のようでどこか淫猥ですらあった。
平さんが消えた。穴に落ちるように地面の下に。
思わず地面に手をついてしまったが、不思議なことに硬いガラス板のようなひやりとした感触に押し返されただけだった。
アゲハ姐さんを振り仰ぐと「あらあら」と口元を押さえているが、本当に仰天している感じではない。そのよゆーっぷりに、少しだけ安心する。
「姐さん、平さんが消えちゃいましたけど」
「まあ、何とかするでしょう」
アゲハ姐さんに言われると「そうかも」と思ってしまうのが、不思議だ。平さんがどこに行ったのかは分からないけど、きっと平さんならなんとかするだろう。
さっと立ち上がる。
「小屋に行きましょう」
「車で待っていてもよくってよ」
アゲハ姐さんの言葉に首を振る。
「平さんなら、小屋を探して来てくれるはずだから」
「それなら参りましょうか」
山に入り、ズンズンと進む。
葵山には、パパとママが死んでしまってから、来たことは一度もない。楽しい思い出しかないこの場所に、悲しい気持ちで来たくなかったから。
でも今は違う。平さんやアゲハ姐さんがいるし、悲しみを乗り越える、いや打ち倒すためには必要なことなんだと鼓舞して進む。
「千代」
横を歩くアゲハ姐さんの声に、いつもの明るく飄々とした響きがない。
「なぜ進むのですか」
思わず足が止まる。アゲハ姐さんらしくない問いかけ。
「どうしたんすか、いきなり」
暗い雰囲気にならないようトーンをあげてみる。
「ワタクシ、たった一つだけ欠点がございます」
アゲハ姐さんはぽつぽつと話し続ける。
「なんでも出来てしまいますので、失敗だとか挫折だとか、恐いとか、そういう気持ちが分かりませんの」
「たしかに。姐さんなら地球も動かせそうっすよね」
何だか背筋が寒くなる。いつもの姐さんに戻ってほしくておどけて見る。
「ええ。よくわかっておられますこと」
姐さんが笑う。晴れやかな笑顔ではなく、どこか冷たい笑顔。
「千代や平さんのように傷つきながら、それでも足掻くヒトをみると、『頑張れ』と思う一方で『なぜこんなに頑張るのだろう』と思ってしまいますの」
ねぇ、千代。
アゲハ姐さんがまっすぐに見つめてくる。カミサマがいると信じたくなるようなキレイな顔、その中で輝く黄色と黒の斑色の瞳。
「貴女の願いを叶えて差し上げましょうか」
パパとママの顔が浮かぶ。
一体何を考えたの。『そんなこと』を願ってもどうしようもないのに。
日がどんどん落ちていく。葵山に夜が来る。
願い、は。
「願いは、ない、です」
アゲハ姐さんの顔が段々と闇に沈んでいく。
「理由を聞いてもよろしくて」
斑色の瞳から目を離さず、頭の中のぐちゃぐちゃの感情を整理しながら、まとまらない思考の中、口を開く。
「だって、もし叶っても、もしそうなったら、きっと『ウチ』は後悔する、から」
パパとママがまた『おはよう』と言ってくれたら。それ以上のことはない。
でももし、そうなったら、今ここに来て全てを乗り越えようとしている『ウチ』は、どうなる。
辛くてキツくて、死んだほうがマシだと本気で思っていたたころから、這い上がった『ウチ』はどうなる。
だから。
「願いは、ないっす」
日の落ちきった山の中、手の触れる距離にいるアゲハ姐さんの顔すら見えない闇がおおう。
「ふふっ」
パチリ。アゲハ姐さんの指先からホタルのような光の玉が浮かび上がり、ウチと姐さんの間をフワフワと漂う。
「やはり、貴女も面白いですわ」
灯りに浮かぶのはいつもの、めっちゃ綺麗で、掴みどころのない姐さんだった。
「余計なことを言いましたわね。さあ、参りましょう」
アゲハ姐さんが「レッツゴー、ですわ」と明るくはしゃいだ声を出す。
「アゲハ姐さん」
「なんですの」
「やっばり、ひとつだけ、願い、いいっすか」
アゲハ姐さんがくるりと振り返る。
「博多ラーメンの無限替え玉。一緒に行きましょう」
「ワタクシについてこられるかしら」
「マックス5玉はいけるっす」
「スイーツパラダイスから出直してきなさいな」
ほほほ、と高笑いするアゲハ姐さんの背中を追いかけて、ウチは葵山の道を、想い出の小屋に向かって進んだ。




