アゲハチョウと秘密の山
小早川先生の家から帰宅した、翌日の日曜日の朝。俺は千代に連絡し、事務所に来るよう依頼した。
しばらくして便利屋猫の手のドアがノックされ、ドアが開かれた。
「おはよーございます。朝マックの季節ですね」
「おはよう。春夏秋冬美味いだろ」
「おはようございます。モスバーガー派なので、マクドナルドはちょっと」
千代が「え、つめた」と言い、応接スペースのソファーに座る。
「朝ごはん食べていーっすか。今朝バタバタしてて」
「あぁ。急に呼び出してすまんな。ゆっくり食べてくれ」
「やったぁ」
千代がテーブルに手提げ袋を置き、取り出したのはココイチのカレーだった。
「せめてアメリカンな食い物にしてくれ」
「カレーは洋風だから、おっけーっしょ」
「欧風ではございませんこと」
揚羽はいつの間にかモスバーガーを食べている。
ふとここ数日酒を飲んでいないし、飲む気にもなっていないことに気付いた。百々子や小早川先生のことも有り、深刻な事態ではあるのに、だ。
「さて、改めて現状報告の前にひとつ聞きたいことがあるんだが」
俺が飲んでいたコーヒーを置くと、千代はこくんと真剣な眼差しでうなずいた。
「徳川賢三の最近の様子は何か知ってるか」
犬神という賢三の大きな『武器』を期限付きとはいえ封じたのだ。なにか精神面で揺さぶれていないかを知りたかった。
千代が首をかしげ、眉毛を寄せる。
「TOKUGAWAの会社の人からも叔父さんのことは特に何も聞いてないなぁ。あ、でも『特別技術顧問』とかいう謎の肩書の人が社長室を出入りしたのを見たって言ってた」
おそらく魔術師だろう。急遽雇い入れたのか、元から在籍していたのか。どちらにせよ、自身の守りを固めたのだ。
「千代さんの依頼を達成するなら『犬神』を使役しているのに『使えない』状態である今が一番チャンスだ。魔力のリソースを『犬神』に割いてる分、他の魔術も使いづらいはずだからな」
「でも、叔父さんもヤバいって分かってるから、護衛を雇ったってことでしょ」
「そう。だから今すぐ正面切って賢三に挑むのは、俺がジョン・ウィック張りに強くないと作戦として成り立たない」
千代から依頼を受けたときは、長期間のスパンで『平面會』からは唾棄されるような方法を用いるつもりだった。しかし今は事情があまりに変化してしまった。
「ただ、あくまで依頼主は千代さんだ。千代さんの時間の制限もあるだろう。『やれ』といわれれば『やる』が、どうする」
千代は首を横に振った。ほとんど反射的と言ってもいいくらいの思考時間だった。
「平さんとかアゲハ姐さんが犠牲になる前提のやり方はやめて」
悲痛とも言える返答。しかし千代の目つきには力強さがあり、子どもっぽい感傷からくる言葉ではないことがうかがえた。
「分かった」
俺は千代の目を見て応えた。
揚羽が千代の手にそっと自分の手を重ねていた。
「なら次のプランだ。人狼の山に行って、犬神の契約を破棄する方法を探る。この方法はうまくいけば賢三と戦う必要すらなく決着する」
千代がぱんっと手を叩き、顔を輝かせる。
「そーゆーのが聞きたい」
俺は小早川先生から受け取ったノートを開き、該当箇所を見ながら説明する。
「犬神の魔術は、呪いだ。人を呪わば穴二つって言うだろ。本来は使役する側になんの害もないなんてことはありえない」
「でも、アイツが何か痛い目に遭ってるのみたことない」
「そこを賢三と源との『契約』でカバーしてるのかもしれない。『契約』を破棄したときに、今まで賢三の命で行われてきた悪行が呪いになって、賢三自身に跳ね返れば」
「誰も手を下さなくてもアイツを倒せるってこと」
「正直かなり楽観的だが、最低でも犬神の契約を破棄できれば、賢三の戦力は削げるはずだ」
「元カノの源さんも助かるしね」
「そーな」
「あ、流された」
千代から緊張感が抜けたのを見て、内心ほっとする。そう、誰も手を下さずに賢三を『排除』できるなら、それに越したことはない。
だが。もし、うまく行かなければ。
血みどろの道を行くしかない。俺、ひとりで。
千代がはしゃぎ、揚羽が子犬を扱うようによしよしと千代をなだめる。
揚羽が、ちらりと俺を見た。全て見透かしたように、にやりと口角をあげる。俺は、おどけて見えるよう肩をすくめる。
「人狼の山って、源さんの実家なんすよね。気になるなー」
「流石に今回は連れて行かんぞ」
小早川先生は揚羽や千代を傷つける気はなかったが、『犬神』の襲撃は下手をすれば千代を巻き込んでいた。
千代が「まあ、確かにちょっとだけコワいしー」とソファーにもたえ、反動をつけてテーブルにトンと手をついた。
「場所だけはダメっすか。ほら、平さんとアゲハ姐さん待ってる間にウチも調べたいし」
俺は腕組みをした。
人狼の山の場所は、おそらく秘したい情報だろう。百々子が小早川先生に場所を伝えたのは、万が一、修行中に何かあった際のことを考えて止むなく、だと思う。
ただ、一方で親族として徳川賢三の情報にアクセスできる千代が思わぬ繋がりを見出さないとも限らない。
悩んだ末伝えることにした。最終的な判断材料は千代の人柄だ。
「俺と揚羽以外には話すなよ」
「もちろん」
千代が満面の笑みで応える。
「葵山だ。ここから車で三十分くらいにある」
「え。アオイって、むつかしい漢字一文字の」
「あー。そうだな。うん」
千代の表情が、坂をくだり落ちるように曇る。
俺は返事を急かすことなく、身動ぎもせずに待った。
やがて千代はゆっくりと口を開いた。
「ウチのパパの小屋がある山だ」




