アゲハチョウとおにぎりと、選択がもたらす重さについて
俺が小早川先生の自室の畳の部屋に入ると、部屋の隅に敷かれた布団に先生が横たえられていた。
俺は先生のひとまずの無事を確認し、畳の上にどっかりと座った。正直立っているのが辛かった。
「千代さん、悪いんだが近くで適当に食べもん買ってきてくれないか」
俺は財布を千代に渡した。
千代は一瞬戸惑った表情を見せたが、パチパチと数回の瞬きののち、ニコリと笑った。
「おけー。内容は、ウチのセンスでいーよね。ショートケーキ味のUFOと、あとは、」
「おにぎりとお茶にしてくれ」
「ワタクシはサバ缶とゼロシュガーコーラが良いですわ」
「サバも浮かばれない食べ合わせっすね」
千代が「いってきまーす」と出て行った。
引き戸のガラガラと引き上げられる音がかすかに聞こえる。そして、畳の部屋にはお掃除ロボットの稼働する機械音だけが残った。
「助かったよ」
俺は行儀が悪いと思いながらも、座ったまま壁にもたれた。
揚羽は目で追っていたお掃除ロボットから、俺に視線に向けた。
「気になさる必要はございませんことよ。申し上げましたとおり、取引ですので」
「貸し借りなし、と思って良いのか」
「ええ」
揚羽は微笑んだ。
俺は、天を仰ぐように後ろに頭を倒した。ごんっと壁に後頭部を打ったが、それほど痛くはない。
揚羽の言葉を、今は額面通り受け取るしかないか。
「犬神は、源は今どうなってる」
揚羽が「少々お待ちを」と、以前TOKUGAWA本社出使っていた名刺入れを取り出した。
「こちらのなかですわ」
名刺入れを受け取る。物理的にも魔術的にもなんら違和感のない、ただの名刺入れにみえる。
「『平面化』を何重にも重ねがけして、締めに持ち運びやすいように圧縮しておきましたわ」
さらりと言ってのけるが、俺には逆立ちしても出来ない芸当だ。思わず笑ってしまった。あまりの差に嫉妬すら感じない。
「締めにお醤油を少々みたいに言うなよ」
揚羽はくすくすと口元を隠して笑う。
「ただし、封印したわけではございませんことよ。あくまで『平面世界』に閉じ込めただけ。言うなればパイの実の底にいる状態ですわ」
「パイの実」
あのサクサク生地のお菓子か。
「ええ。ただギネス級に層を重ねた特別仕様のパイの実ですわ。一層一層は薄くとも、表面に出てこれるのは、そうですわね、1週間はかかりますわ」
1週間が長いのか短いのかいまの疲労した頭では判断できない。
「人狼の山に行ってはどうかな」
小早川先生が布団の上で、上体だけを起こしていた。乱れた白髪が額にだらりと垂れ下がっていた。
「源くんが我が家に来て、彼女から徳川賢三に使役されてることを聞いたよ。それから私なりに源くんに出来ることがないか、徳川賢三から解放できないか調べたが正直専門外でね」
先生が揚羽を得体のしれない異物として気にしていることに俺は気付いた。揚羽は素知らぬ顔をしている。
「彼女は気にしないでください。道具を出し渋るドラえもんといいますか」
「まぁ、失礼な。わたくし120キロもございませんことよ」
「分かった分かった。じゃあコロ助だ」
小早川先生が手を上げて俺たちのやり取りを制する。
「何か事情があるんだろう。これ以上は聞かないよ。とにかく1週間しかないならば、取れる対策は限られる。信用できんだろうが『封印』については私がなんとか策を練ろうと思う。一くんは、源くんの故郷、人狼の山で犬神から解放される手段がないかを探ってはどうかな」
先生も百々子を『排除』する手段は避けたいのだろう。そして『平面世界』で犬神と対峙して実感したが、たとえ対策したとして戦うことは容易ではない。
俺は迷ったが、率直な疑問を先生に聞いてみたくなった。
「今、賢三は犬神を行使出来ません。賢三を排除した場合『契約』はどうなるのでしょうか」
先生の表情に戸惑いが浮かんだ。『平面會』は戦闘に向かない組織だ。争いごとは避けるよう小早川先生から指導されたことがある。
今回の件があったとはいえ『排除』つまり、殺すという平穏ならざる発言が俺から出たことにいい気がするはずもない。
「そうだね。犬神から解放されるかもしれないし、使役からは解放されても犬神のまま、かもしれない。あやふやで申し訳ないが、どちらとも言いかねるね」
先生はゆっくりと拾い上げるように応えた。
一か八かに百々子をかけることは出来ない。俺は「いえ」と短く返事をした。
先生が布団から起き上がり、「少し待っていてくれ」と隣室に行く。戻ってきたその手には一冊のノートがあった。
魔術による鍵が施されていたが、先生は俺の前で解錠した。
「清人くんが源くんを弟子に迎えた時に聞いた人狼の山の場所や、『平面會』で受け継がれてきた知識、魔術が記されてる。私にはもうこれを持つ資格がない。一くん、受け取ってくれ」
俺は差し出されたノートに手を伸ばし、受け取った。躊躇うことはない。今、必要なことは何であれやるべきだから。
「ありがとうございます。小早川先生。必ず役立てます」
俺が頭を上げたとき、先生の目には涙が浮かんでいた。
ガラガラと引き戸が開く音が玄関から聞こえてきた。ドタバタと走ってくる音が畳の部屋に響く。
襖がガラリと開かれる。千代だった。手にはコンビニ袋がぶら下がっている。
ショートカットの髪が揺れ、吊り上がった目が俺を捉えた。
「平さん。お財布に100円しか入ってなかったんですけど」
千代が立っている先生に気付いたのか「あ、センセー。元気になったんだ。よかったー」ところりと表情を変えて人懐っこく笑う。
俺は千代が差し出した自分の財布を受け取り、中を見た。札かとおもったらレシートだった。
「すまん。電子マネー派なんだ」
「ウソ。ウチがペイペイ使ったとき『なんだ今のマヌケな音』って言ってたじゃん」
ぷりぷりする千代が買ってきたのは、4人分のおにぎりとお茶だった。
俺たちは夕食代わりにおにぎりを食べた。ごくごくありふれたおにぎりのはずなのに、とても美味しく感じたのは疲れのせいだったのだろうか。
俺たちは日が落ちる前に小早川先生の家をあとにした。
20時。便利屋猫の手で俺はひとりコーヒーを啜っていた。揚羽には千代の自宅までの送迎を依頼した。
次にやることは人狼の山に向かうこと。
俺は先生から託されたノートのページをめくり、内容を頭に焼き付ける。
ノートの内容は、揚羽や千代には見せていない。『平面會』の秘技などが記されたモノだ。いくら依頼人とはいえ軽々しくは見せられなかった。千代もわかっていたのだろう。ノートについてはひと言も触れてこなかった。
ガチャリと事務所のドアが開かれた。
揚羽がすいっと入ってきて、応接スペースのソファーに何も言わずにぽすんと座った。
ちょうど向かい合う形になる。初めて揚羽が事務所に来た時のように。
「聞きたいことはなんですの」
「分かるか」
「顔に書いてありますもの。『聞きたいな』と」
「俺にはポーカーは向いてないな」
俺はコーヒーの入った湯呑をテーブルにおいた。「未来は、平面世界にはなってないのか」
揚羽が足を組みなおす。彫刻のような整った顔は、揚羽にしては珍しく真顔だった。
「ええ。少なくともワタクシの感知できる範囲では、世界は『平面』ではございません」
揚羽は『平面會』や『平面化』の魔術を知らなかった。
「しかし、貴方だからといって『平面世界』が実現しなかったとは言い切れませんことよ」
「実現した後に、何らかの理由で元に戻った可能性もあるってことか」
少し『平面會』にとって楽観的な考えだな。それともまさか揚羽が俺を気遣っているのか。
「パラレルワールド、ご存知ですこと」
「選択によって未来が分岐するとかいう、アレか」
揚羽がこくりと頷く。
「ワタクシが来た未来には、『平面會』や『平面化』の魔術も何一つ残っておりませんでした。『平面化』の魔術を行使できる貴方がいたことは確実ですのに」
「俺が足を半歩ずらして揚羽のご先祖サマを助けてなけりゃあ、揚羽も『ココ』にはいないわけだしな」
俺はコツコツとテーブルを指で叩いてみせた。
揚羽がにんまりと笑う。蛍光灯の安っぽい光のもとでも、まるでスポットライトに当てられているようだ。
「ワタクシが『平面會』知り、貴方がワタクシに『平面化』の魔術を教えた時点で、何か大きな分岐が起こったと考えると、とっても素敵なことじゃございませんこと」
揚羽がぐっと俺に身を乗り出してくる。
「貴方の選択が、未来を変えたのです」
「重い、言い方だな」
「念のため申しておきますが、あくまでワタクシは貴方の願いを叶えて差し上げるために参りましたのよ」
揚羽がソファーから立ち上がり、月光の差す窓にこつこつと歩く。
「貴方がどんなことを願い。そしてその願いの結果
『ワタクシの未来』がどう変わるのか。それを考えるだけで、胸がドキドキ致しますわ」
両手を胸の前で組み、恍惚の笑みを浮かべる揚羽は悪魔的に美しい。だからこそ選択を誤ってはいけない。
俺は言いようない不安と、そして自分の選択が他人も含めた未来を変えることにほんの少しだけ高揚し、そしてそんな自分を恐ろしく感じた。




