アゲハチョウは平面會に降り立ち、平面世界を知る
百々子と『鹿の目』で会った日の翌日、俺は千代に連絡を取り、『猫の手』に来るよう依頼した。
千代はすぐにやって来た。
「おはよーございます。平さん、アゲハ姐さん。元気ですか。ウチは元気です」
千代はドアを開くなりフルスロットルだった。シャツにジーパンにキャップというさっぱりした格好が、まだ高校生なんだと改めて千代の置かれた現状とのギャップを強調するようで胸が痛む。
「おはよう。猪木みたいな挨拶だな」
「おはようございます。猪木ですわね」
千代が首を傾げる。世代じゃないか。でも猪木くらいは知っておいてもいいと思うが。
そんなことを思いながら、千代にソファーを勧め、俺と揚羽も対面に座った。
雑談もそこそこに俺は昨日の出来事、株式会社TOKUGAWAで徳川賢三と会えたこと、源百々子のこと、黒い靄が百々子であること、『契約』によって百々子が徳川賢三に使役していることを伝えた。
伝えなかったのは、百々子と俺がかつて恋人だったことだけだ。
千代は時折唇を噛み締め、目を見開き、それでも黙って俺の話に耳を傾けてくれた。
「現状、無策で挑んでも返り討ちになる。とにかく、犬神をどうにかする必要がある」
「ちょ、ちょっと、タンマ。『どうにかする』って。犬神は、平さんの知り合いなんでしょ。どーするつもりなんすか」
「場合によっては排除する」
「元カノでしょ」
「な、」
努めて事務的に説明していたつもりが、とんだカウンターパンチを喰らい、思わずたじろぐ。
「貴方、話してる最中に動揺し過ぎですわ。地震かと思いましてよ」
揚羽が呆れ顔でやれやれと首をふる。
「ウチもすぐピンっときたよ。『やば、絶対に元カノじゃん。しかも未練ありありの』って」
千代の同情するような目つきが、かえって刺さってくる。
俺は空気を変えるために、苦し紛れの咳ばらいをした。
「ともかく、徳川さんの、」
「千代、でいいっすよ」
「千代さんの依頼を達成するために犬神の排除が必要なら、俺は躊躇わない。それだけは約束する」
千代が眉をひそめる。
「でも、だって、もし『そんなこと』になったら」
犬神、いや百々子が、黒幕ではないにせよ千代の両親の事故の原因であることは、千代にも分かっているはずだ。なのに千代は、俺の断言に戸惑っている。
俺は安心させるように笑ってみせた。
「最悪の事態にならないようにする方法は探すさ。心当たりもあるし」
「なんすか」
千代の目が期待で輝く。
「魔術結社『平面會』に行く」
「へーめんかい」
「そこで俺の師匠の師匠、大師匠に会う」
「大師匠」
千代のテンションが見るからに高まっている。
「え、一緒に来るつもりか」
「逆に連れてかないつもりっすか」
揚羽がほほほ、と笑う。
「いいじゃありませんの。ワタクシももちろん同行しますわ。平面會に興味もございますし」
千代はともかく、揚羽が興味を持っていることに驚く。興味があるということは、揚羽も平面會のことをすべて知っているわけではないのだろう。知らないからこそ興味をもつのだから。
「分かった。ただ先方にアポ取ってからだからな」
長い間連絡もしなかった引け目もあり、突撃で訪問することは躊躇われた。
「平さんが社会人みたいなこと言ってる、やば」
「手土産も買うからな」
「マカロンですの」
「女子会かよ」
ひとしきり笑い合ったあと、俺は自室に戻りスマホで大師匠の小早川先生の自宅の固定電話に架電した。
プルル。呼出音が鳴る間、流石に緊張する。
「はい。小早川です」
落ち着いた年配の男性の声。俺の記憶のなかより、ほんの少し低くなったように感じた。
「お久しぶりです。清人の息子の一です」
ほんの数秒の沈黙。俺の胃がキリリと痛む。
「あぁ、一くんか。久しぶりだね」
「ご無沙汰しておりましたのに、突然の電話、失礼しております」
「いやいや、声が聞けて嬉しいよ」
数ラリー、取り留めのないやり取りを交わしたのち、俺は「実は」と本題に踏み込んだ。
「長年のご無沙汰のお詫びとご相談がございまして、よければご都合のよい日程を伺えませんでしょうか。それと、2名、仕事絡みの者を同席させたいのですが」
小早川先生が、再び沈黙する。カレンダーでも見ているのだろうと俺は待った。
「そう、だね。なら来週の土曜日のお昼はどうかな」
来週の土曜日、今日が日曜日だから少し日が空くな。出来ればすぐにでも行きたかったのだが、流石にそこまで厚かましくは振る舞えない。
「分かりました。では来週の土曜日のお昼に伺います」
「あぁ。待っているよ」
プツリと小早川先生から電話が切れた。
ツーツーという通話終了の音を聞きながら、俺はやはりいくら温和な先生でも、思うところがあるのだろうとため息をついた。
便利屋猫の手から電車で1時間ほど進むと、のどかな田舎の風景がチラホラ見えてくる。
駅を降りてさらに数十分歩くと、目的の平面會の建物が見えてきた。
「あったぞ」
俺の視線を辿り、千代が平面會をみる。明らかに拍子抜けという表情だ。
魔術結社平面會の建物は、平屋の古風な建物で、都会の基準で言えば大きいとはいえ、あくまで民家の域をでない大きさだったからだろう。
引き戸の入り口の横には手書きで『個人塾 小早川』と書かれた看板が立てかけられていた。
玄関前でほうきを手に掃き掃除する老年の男性が、俺たちに気づき手を止めた。
「お久しぶりです、小早川先生」
俺は頭を下げた。
小早川典隆。平面會のトップにして、俺の親父の師匠、そして本業は個人塾の講師。白髪に温和な顔立ちで、小柄ながら、魔術師としては一流だった。
俺たちは平面會の中に通された。玄関を通ってまっすぐ廊下を進むと、小早川先生の自室がある。廊下の左右の部屋は教室として使われているはず。
小早川先生の自室は成人男性の背丈を超える高さの本棚に囲われており、圧倒される。俺たちは、ふすまで隔てられた隣の畳の部屋に案内された。
部屋全体を見通せる場所に仏壇がある。
「いまお茶をいれてくるから、よければ手を合わせてやってくれ。妻も喜ぶよ」
小早川先生はよいしょとゆっくり立ち上がり、部屋から出た。
俺が手を合わせ長い間ご無沙汰だった非礼を、先生の妻の節子さんに心の中で詫びる。千代と揚羽も手を合わせていた。
節子さんへの挨拶を終え、俺たちは座布団のうえで先生を待つことにした。
千代が声を落とし唇を尖らせる。
「『魔術結社』なんて言うから、バイオハザード的な洋館を期待してたのに。それにココって塾なんでしょ。ってことは、『へーめんかい』のトップって塾講師なんだ、ちょー意外」
「とんがり帽子被って、塔に引き篭もってる魔術師なんて現代にはいない。大抵何らかの堅実な仕事をしてるよ」
千代はぶっーとふくれっ面になった。
揚羽が畳を珍しそうに撫でている。
「塾ですのに、子どもがおりませんわね」
確かに建物全体がしんっと静まり返っている。
「今日は休みじゃないか」
「ふーん。ウチの塾は土日こそ朝からスパルタだけどねー。まあ、ウチはふつーに休むけど」
「俺たちのために予定を空けてくれたのかもしれんだろ」
そう反論しつつ、俺も千代の方が道理だと思っていた。まだ親父のもとで修行していたときに訪れた平面會は、子どもたちの賑やかな声が聞こえていたと記憶している。
会話の切れ目に、微かな機械音が聞こえてきた。
部屋の隅に目をやると、古風な和室には異質に映る円盤型のお掃除ロボットが、稼働していた。最新の機種、とCMで見た気がする。
ふすまが開かれ、小早川先生がお盆を手に立っていた。俺がお掃除ロボットを見ていることに気付いたのか、照れ隠しのようにひきつった表情が浮かぶ。
「年には勝てなくてね。使ってみると便利な物だよ」
「そう、ですか」
俺は先生からお盆を受け取り、お茶とお菓子をテーブルに並べた。ふと、テーブルの下に目をやる。リフォームのパンフレットだった。
俺はお盆をテーブルの端に置いて居住まいを正す。
先生がゆっくりと座布団に座る。その動作に年季を感じ、俺は、自分の無精を恥じ入った。
「小早川先生、この度は重ね重ね失礼いたしました」
「気にすることはないよ。清人くんが亡くなって、大変だったろう。源くんのこともあるし」
小早川先生が、揚羽と千代に顔を向ける。
「清人くんは一くんのお父様でね。本当に素晴らしい魔術師だったよ。彼が亡くなったのは個人的にも、平面會にとっても大きな損失だった」
小早川先生が、自身に言い聞かせるように「本当にね」と、ポツリと呟く。
「『平面會』とはなんですの」
しんみりとした空気を打ち消すように、揚羽が声をあげる。追随するように千代が熱心にうんうんと頷く。
熱心な生徒からの質問を受けたように、小早川先生の顔が明るくなる。
「一くんは彼女たちには未だ『平面世界』のことは話していないのかな」
「はい」
それなら、と小早川先生は腰をあげ隣室に行き、しかし今度は間を空けずに戻ってきた。手には地球儀と一枚の世界地図があった。
「『平面會』は平面となった世界、『平面世界』の実現を使命に掲げる組織だよ。と言っても平面な世界と言われてもピンとこないだろうから、ほら」
小早川先生が地球儀を揚羽と千代に差し出す。
「ご存知の通り、地球儀がまさに今この瞬間の世界の形だ。『平面會』の使命は言うなれば、この地球儀を、一枚の世界地図のように平坦にしてしまおうというものなんだ」
小早川先生が地球儀の横に、世界地図を広げる。
「はえー。でも、丸い地球をペラペラにするって出来るんすか」
「物理的には不可能だろうが、我々は魔術師だからね。非現実の力で達成を目指しているんだよ」
揚羽が形の良い唇の端をあげ、眼尻を下げて地球儀と世界地図を眺める。
「とても興味深いお話ですわ。しかし何故平面なのです」
小早川先生が満足げに頷く。
「『平面會』の使命を全て正確に言うと『世界を平面に。しかるのち土地を無限に拡張す』なんだよ。つまり、やることはふたつ、ひとつ『世界を平面にする』。もうひとつはその後に『土地を無限に拡張する』こと。残念ながら現状は『世界を平面にする』つまり、『平面世界』の実現すら出来ていないのが実情だがね」
力なく苦笑いを浮かべる小早川先生を見て、俺があとを引き継ぐ。
「地球儀の形のままで土地だけを増やしても物理的に限界がある。だからまず世界の形自体を変えるんだ。イメージとしては、輪っかをほどいて、紐をどんどん繋げていく感じ、ですよね、先生」
小早川先生が目を細めて頷く。
「突然だが、この世界で起こるトラブルを紐解いていくと行き着くのはどんな理由かわかるかい」
平面の話に困惑気味だった千代がうーんと唸る。
「人間関係かなー」
「うん。そう言われることが多いね。でも『平面會』の創設者はそこから更に踏み込んだんだ。最終的な原因は『土地』だってね」
千代がぴくっと固まる。小早川先生は気付いていないのか話を続ける。
「土地の問題は多い。広さ、形、場所、眠っている資源。昔の戦争は領土を奪い合っていたし、現代は希少な資源を血眼で探しているだろう。卑近な例で言えば、土地がないと住む家も建てられない。だったら、土地を無限に広げてしまえばいい、というのが『平面會』の結論というわけだよ」
「無限に土地があれば争う必要はございませんものね。必要なモノがあれば『無限』のなかから探せばよいですし、そもそも『無限』にあるのだから、値打ちも下がる。皆が土地というものの利益を得られるわけですわね」
「そ、そう。その通りだよ」
小早川先生が目を丸くする。
揚羽の黄色と黒の斑色の瞳が怪しげに揺れる。笑っているようにも企んでいるようにもみえる複雑な表情で「本当に、興味深いですわ」と独りごちる姿は、美しい外見と相まってぞっとするほど触れがたかった。
俺は気になっていたことを素直に、小早川先生に尋ねることにした。
「先生。『平面會』は今、どうなっているのですか」
静まり返った建物は、その静けさが答えだと言わんばかりであったが、俺は聞かずにはいられなかった。
小早川先生が肩を落とす。
「残念ながら衰退の一途を辿っていると言わざるを得ない。清人くん、源くん、そして一くんが、大きな柱だったからね。今では何人が真面目に取り組んでいるかどうかすら、私には。『平面世界』への進展は正直清人くんの死後から何も動いていないに等しいよ」
言葉を切り、沈痛な面持ちで小早川先生が足元に視線を落とす。
かつて所属していた組織の衰退は、虚しさとやるせなさを俺の胸中に巻き起こした。
「そういえば源くんが来たよ」
「『平面會』にですか」
「そう。最近ね」
小早川先生は、それ以上言葉を継がなかった。
あまりに唐突に出てきた思いがけない話題に、影が指すような違和感が走る。
『平面會』の衰退、個人塾にも関わらず生徒がいないこと、似つかわしくない最新のお掃除ロボット、リフォームのパンフレット、失踪した孫弟子に関する唐突な話題。
「小早川先生」
「何かな」
「個人塾の経営は上手くいっていますか」
千代が、目を丸くして俺を見るが、俺は小早川先生から視線を外さなかった。
小早川先生は、お茶を手に取り、口に運ぶことなくテーブルに戻した。
「言い難いが、閉業寸前だよ」
千代が、何か言いたげにおろおろと忙しなく視線を俺と小早川先生の間で揺らしている。
「一くん」
俺は先生の呼びかけに答えなかった。
小早川先生がゆっくりと立ち上がる。
「外に出よう。節子の前では醜態を晒したくない」
揚羽が千代の肩を抱いて玄関に向かうのを、小早川先生は遠い目で見送っていた。
畳の部屋から縁側を経て、庭に出た。
テニスコートほどの広さの庭は、修行に使ったり、塾の子らと水遊びをしたりした、懐かしい思い出の場所だ。
そういえば修行の合間に花火をしたな。百々子が妙にテンション高くはしゃいでいた。
甘い記憶が意図せず脳裏に浮かぶ。
「『契約』の内容はふたつだよ」
小早川先生が足元の感触を確かめるように、足で芝生を踏み鳴らす。
「ひとつ。一くんが『平面會』に接触してきたら遅滞なく徳川賢三氏に連絡すること。もうひとつ。一くんの実力を測ること」
突如、俺の足元が揺らぐ。芝生がまるで泥のようにたわみ、足首まで飲み込まれた。
急ぎ足を引きあげるも、地についた途端により深く沈んでいく。
『平面會』は戦闘に向いた組織ではない。基本的な魔術を除けば、師弟間で伝授される魔術は、地形や空間を変質させるものが大半で、その魔術も決して他者を害することに主は置いていない。
だが、要は使い方の問題だ。
俺は、小早川先生の魔術に対して、地形を固定する魔術を自分の足元だけにかけた。沈んだ芝生を階段を駆け上がる。
圧縮した空気を弾丸のようにして先生に放つ。
濡れたタオルをぶつける程度の威力だが、放った俺ですら目視できない点と、殺傷力が低いことが利点だ。
が、先生には当たった様子がない。強制的に解除されたか、『壁』でも展開しているのか。
『平面會』から距離を置いてから身につけたいくつかの魔術が脳裏をよぎる。対人用のよからぬ魔術たち。
しかし『それ』では意味がない。
今だけは『便利屋』ではなく、『平面會』の魔術師として打ち勝たねば。
「私を気遣っているのかな」
俺の数秒の迷いを見て取ったのか先生が穏やかな口調でゆっくりと歩を進める。
「私はもう覚悟している。きみからの連絡を徳川氏に伝えた時点でね」
唐突に両腕の感覚が消えた。
反射的に視線を下げると、腕と思しきモノが、ぺらぺらと紙のように力なく垂れ下がっていた。
痛みはない。が、視認した瞬間猛烈な違和感で頭がくらくらしてきた。
俺の腕を『平面』にされた。
「ここできみの仕事は終わりだ、一くん」
先生が額に汗を浮かべ、痛みに耐えるように一歩一歩俺に近づく。
「準備に時間がかかったが、この庭の範囲ならどこにいても『平面』にできる」
先生に電話してから、会えるまでの間に備えていたのか。
「手を引く、と言ってくれ」
先生はまるで自分が痛めつけられているような苦悶の表情で、懇願するようなかすれ声を絞り出した。
俺は怒りに身体が震えた。
親父の師匠を、ここまで追い詰めた賢三に。
そして、自分勝手に『平面會』から離れた俺自身に。
俺は、覚悟を決めた。
「小早川先生、ともに『平面世界』に行きましょう」
『平面世界』という言葉に先生の足が止まる。
俺は、気力、魔力を振り絞り俺は魔術を発動した。
俺と先生は四方を漆黒に囲われた空間にいた。
足元には芝生、つまり先生の家の庭が広がっている。
「ここ、は」
先生が目を見開き、よろよろと後ずさり、その場に崩れ落ちる。手で白髪の頭を押さえている。
強烈な違和感に襲われているのだろう。初めて俺自身を『平面世界』に送ったときも、しばらく立ち上がることができなかった。
「先生の庭だけを『平面』にしました。中にいた私たちは今『平面世界』にいます」
俺は手をついて荒い息を吐く先生に近づく。
先生は這いずりながら、庭の端に移動し、庭の外に手を伸ばす。しかしガラスに触れるように、その手はピタリと中空で止まった。
「私が解除するか、魔力が尽きるまで出ることは出来ません」
俺は先生の前で膝をついた。先生から見上げられるような構造は耐えられない。
「素晴らしいよ、一くん」
先生が弱々しく笑う。
「清人くんが考案した『平面化』の魔術を、きみは完全にモノにしているんだね」
「最近になってようやく形になりました」
「卑下することはない。私など、何日もかけて用意しなければ発動すらしないのだから」
穏やかいつもの表情を浮かべた後、先生はがっくりとうなだれた。
「自分が情けないよ。仮にも『平面會』の魔術師が自分の土地すら守れずに、あまつさえ金銭に釣られて孫弟子を売るような真似に手を染めるとは」
「徳川賢三、ですか」
先生がゆっくりと首を縦に振る。
「節子のために建てた家を守りたかった。だが、やり方が間違っていたよ。孫弟子を裏切って土地だけを守ったとして、節子が喜ぶはずがない」
「先生」
「ありがとう、一くん。私のことは気にするな。きみは、きみのやることをすればいい」
「賢三との『契約』や先生の家はどうなるでしょうか」
「『契約』自体は守っているさ。徳川氏に連絡し、きみの実力も測れたしね。結果として、徳川氏からの援助がなくなったら、どうするかねぇ。どこかのアパートでも借りることにするよ。でも保証人が必要だな」
「その際は私が」
「便利屋で審査が通るかな」
「五分五分、かもです」
くつくつと先生が笑い、ようやく俺も笑えた。
プルル。俺のスマホの着信音が響く。
「『平面世界』にも電波が届くのだね」
「立体の現実世界を平面にしただけだからかもですね」
俺はスマホの画面を見る。
非通知だった。この状況で電話をかけてくる相手は。
俺は電話に出た。
「素晴らしい、平さん」
ハツラツした大声。徳川賢三だった。
俺はスピーカーをオンにした。
「『平面會』など、ただの奇異奇抜な集団と思っていたが、見直したよ」
「なんの用だ」
賢三の上機嫌で興奮気味な口調に、無性に腹が立つ。
「小早川さんに伝えてくれるかい。面白いものを見せてくれたお礼に家のことは心配しなくて良いとね」
「徳川さん、悪いが援助はお断りするよ」
先生がゆっくり、はっきりと伝える。
「小早川さん、あなたは私との『契約』を履行済みだ。あとは私が『契約』に従う必要がある。まあ、本当に不要ならば受け取ったあとに寄付でもすればよろしい」
賢三が冷静な声色で言い切る。
俺はスマホを先生から離した。
「さて、平さん」
先ほどとは打って変わって明るい口調で賢三が切り出す。
「単刀直入に言おう。私の元で働きなさい。承諾するなら、キミからの要望を伝えてもらっても構わないよ」
百々子のことだろう。俺は感情が漏れないよう、一呼吸置いた。
「断る」
「賢明な判断ではないな。源のことより、千代が優先かい」
「俺は欲張りなんでね。どっちが優先とかじゃない。どっちも優先なんだ」
「その考えは失敗する典型だよ」
「あいにく失敗には慣れてる」
賢三の返事が止まる。
微かにため息がスマホから流れた。
「残念だ。しかし私もビジネスマンとして、公平にいこう。平さんはとても興味深い魔術を見せてくれたわけだしね。あと、数十秒だ」
「何の話だ」
「犬神をそちらに送った」
俺はスマホを切り、ポケットにしまう。
と、同時に漆黒の空間から黒い粒子のような靄が流れ込んできた。電波が届くのだから当然入ってこれるか、いやそもそも超常現象に理屈ではないのか。
いずれにせよ、犬神が『平面世界』に侵入してきている。
『平面化』を解除すべきか。しかし万が一近くに千代がいたら。揚羽が確実に守ってくれる保証はない。いや、ここには小早川先生がいる。巻き込んでしまう。
黒い靄が集まり、徐々に狼の形を成す。
俺は防御の呪文を詠唱する。手持ちの最大硬度の魔術。
だが、犬神を防いだところでどうやって勝つんだ。俺も先生も『平面化』で魔力は尽きかけているのに。
狼の目が開かれる。赤い瞳。理性ではなく本能がむき出しの、敵意に満ちた瞳が、俺をハッキリと捉えた。
『壁』を俺と先生を囲うように発動する。
犬神が矢のように爪と牙をむき出して突進し、『壁』に衝突する。
犬神の爪が『壁』を貫通するも、辛うじて押し留められた。
メキメキ。
『壁』にクモの巣状のヒビが入り、爪がゆっくりと俺の身体に迫る。フーフーと荒い唸り声をあげて、牙をむき出し、犬神が『壁』に顔ごと打ちつける。
何か。何か、方法は。
空回りそうな思考をなんとかフル回転させる。
「うふふ」
それは、何の前触れもなかった。
切迫した状況にも関わらず、のんびりと楽しそうな声が、俺の肩越しから耳に届く。
ふわりと肩に柔らかな手が乗せられる。絹ようなほんのかすかな重みしかない。
「やはり、貴方、興味深いですわ」
俺の背中につーと汗が滑り落ちるのがなんともいえずぞっとする。
時間が止まっている。
「いいえ、動いておりますわ。ゆーっくりですが」
揚羽が俺の背後から、ひょこっと横に歩み出てきた。そのまま、散歩するような軽い足取りで、『壁』を突き破らんとする犬神の横に立ち、くるりと俺に向きなおる。
「取引をいたしませんこと」
「なん、だと」
「『平面化』をワタクシに教えてくださいな。そうすれば今この場を収めて差し上げます」
メキッ。『壁』に新たなヒビが走る。
「簡単に習得できるもんじゃない」
意味のない言葉だと分かっていながら、言わずにはいられなかった。
「心配御無用ですわ。貴方はただ『教える』とだけおっしゃればよろしくてよ」
メキメキッ。
「さぁ」
爪が『壁』を突き破る。爪がゆっくりと、だが確実に俺に迫る。
「どうなさいますか」
選択の余地は、ない。
「『教える』」
揚羽の黄色と黒の斑色の瞳がきらりと光り、整った顔に満面の笑みがいっぱいに広がる。
揚羽が、その細くしなやかな腕を横に伸ばし、犬神の額にそっと触れた。
「いってらっしゃいませ」
犬神が、脅威を感じたのか揚羽に向き直ろうと身をよじった瞬間、その姿がぱっとかき消えた。
揚羽の瞳がきらきらと輝き、新作の玩具を手にした子どものような無垢な笑顔で、両手を犬神がいた空間にかざしている。
平面を、更に平面にしている。
そう直感した瞬間、耐え難い頭痛に思わず目を細めた。
何年もかけてようやく習得した『平面化』の魔術。
それを少し凝った玩具を使うかの如く容易に行使し、あまつさえ『平面世界』を更に『平面化』している。それも1回、2回どころではない、尋常ならざる回数を重ねがけしている。
「うふっ」
揚羽が堪えきれないとばかりに恍惚の声をもらす。
俺は吐き気と頭痛に苛まれ、思わずその場に膝をついた。
庭の四方を覆うように囲っていた漆黒の空間が、水面の虚像のように揺らぐ。俺の『平面世界』はもう限界だった。
目もくらむような日光が暴力的に降り注ぐ。
俺は元の場所戻ってきた。
「平さん、アゲハ姐さん」
二日酔いに徹夜を重ねたあとよりもボロボロで、このまま倒れそうになるが、千代の泣きそうな声に現実に踏みとどまる。これ以上子どもを不安にさせてどうする。
俺は膝立ちで身体を起こした。
千代が俺の芝生に手をつき、頭突きせんばかりの勢いで顔をのぞき込んできた。
「大丈夫っすか」
「なんとか」
小早川先生はどうなった。
俺の横にさっと視線を移すと、揚羽がかがみ込み、横になっている小早川先生の肩に手を置いていた。『猫の手』で千代に行っていたときと同様に、手が淡い燐光を放っている。
小早川先生の胸が小さく上下しているのをみて、ひとまずホッとする。
揚羽がくるりと俺を振り返る。
俺は思わず身構えてしまった
『平面世界』のときの破滅的で悪魔的な笑みとは打って変わって、柔らかく穏やかな聖女の微笑を浮かべていた。
「貴方には特別にこちらをどうぞ」
手渡されたアクエリのペットボトルは手の皮膚が張り付きそうなほどキンキンに冷えていた。
「俺にはその『ぽわーん』はなしかよ」
「特別料金ちょうだいしますわよ」
俺はペットボトルの蓋を開け、一気に飲み干す。運動しててもしてなくても、アクエリはうまい。
揚羽は小早川先生をひょいとお姫様抱っこの要領で抱き上げた。
千代が目を丸くし「すげー」と呟く。
「勝手ながら、お家の中で休ませていただきましょう。貴方、もう動けますこと」
俺が黙ったまま頷くのを見て、揚羽は小早川先生を抱えて縁側にあがった。
千代がこそっと俺に囁く。
「アゲハ姐さんって、メイウェザーみたいっすね」
「合ってんのかその例え」
俺は千代に先に部屋に入るよう促し、しばらく庭の芝生の上でじっとする。庭の芝生の上で、日光に照らされいると、まぶたが重くなってくる。
このまま大の字で倒れてしまいたい。きっと気持ちいいだろう。
しかし俺は立ち上がった。やることはまだあるのだから。




