夜は冷徹!闇のリングに降り立つ代打ち
後編です。前編からの続きとなります。
レストランでの日常の裏で、刻一刻と迫る『三億二千万』の決戦の刻。
自分の身体すら賭けの対象にされた過酷な勝負へ向けて、響は静かに動き始めます。
待ち受ける元プロ・九鬼烈の卑劣な戦略。
そして、真夜中の闇レーンで天才勝負師が魅せる、本当の姿とは――?
【第4章:覚悟】
店が完全に閉まった午後9時15分。
スタッフが全員帰った後、響は店長の許可を得て1番レーンを借りていた。
照明をわずかに落とした静かな館内。
響は6つのボールをリターンに並べ、一つずつ丁寧に投げ分けを始めた。
1球目から6球目まで微妙な反応の違いを体に刻み込んだ。
指先から放たれる投球は、昼間のガターとは比べ物にならないほど正確で力強かった。
自分の武器の状態を肌で感じ、頭の中でボールの軌道イメージを固めていく。
ロッカールームに戻った響は、薄暗い照明の下、制服をゆっくりと脱ぎ始めた。
白いポロシャツのボタンを外し、ネイビーのタイトスカートを下ろすと、ロッカーから取り出したのは、仕事用の衣装だった。
黒のシックな半袖シャツと、腰から太ももにかけて長いスリットが入った黒のタイトスカート。
半袖シャツを着ると、細くしなやかな腕と美しいラインが強調された。
タイトスカートを穿き上げ、ファスナーを上げる仕草で体を軽く捻ると、スリットが広がり、白く長い脚が艶やかに覗く。
長い黒髪を後ろで一つにまとめ、鏡の前に立った。
昼間の柔らかい笑顔を浮かべるスタッフとは全く違う、妖艶で危険な雰囲気を纏った女性がそこにいた。
「……九鬼 烈」
小さく名前を呟くと、響はロッカーを閉めた。
黒のキャリーバッグを静かに転がしながら店の裏口を出る。
車に到着すると、ボールをトランクに積み込んで運転席に座った。
エンジンをかけ、ナビを設定して夜の街へと車を走らせる。
ハンドルを握る手は落ち着いていた。
フロントガラスを、街灯の光が断続的に照らしていく。
響は静かに過去を振り返っていた。
まだこの世界に足を踏み入れる前、響は純粋なボウラーだった。
才能を認められ、優勝候補とまで言われる期待を背負っていた。
しかし有力スポンサーの息子に八百長を強要され、それを拒否した代償は残酷なものだった。
薬物使用の濡れ衣を着せられ、メディアの前で「才能のないドラッグ使用者」とレッテルを貼られ、嘲笑の的となった。
あの屈辱と、底知れぬ怒りが、彼女を闇のリングへと導いた。
(……あの頃の私は、まだ甘かった。ふふ……青い夢を見て、随分と馬鹿だったわ)
響の指がハンドルを強く握りしめた。
【第5章:決戦(闇のリング)】
午後10時25分。 『キングピン・アリーナ』に到着した。
会場に入ると、すでに照明が落とされ、1レーンだけが明るく浮かび上がっていた。
その奥に、筋肉質の男が立っている。
「鉄の左手」九鬼 烈。四十代半ば、左利きで元プロ。
響を見た瞬間、男の口元が歪んだ。
「ようやく来たか、玉城響。噂通り、いい女だな」
響は無表情に歩み寄り、キャリーバッグを置いた。
「無駄話はいいわ。始めましょう」
23時30分、勝負が始まった。
響がレーンの状態を見て、初めてわずかに眉を寄せた。
——極端なショートオイル。
オイルの長さが明らかに短く、ピンのかなり手前で急激に曲がりが始まる過酷なコンディションだった。
スピードとパワーがある投げ手には有利だが、非力な女性には極めて厳しいセッティングだ。
さらに、レーンの右半分には全くオイルが乗っていない。
左利きの九鬼が左側から強力に攻め込むには理想的な、不均衡な状態になっていた。
九鬼が低く笑いながら言った。
「メンテナンスマシンが故障しててな、右側だけオイルが乗らなかったらしい。まあ、結果的に俺には好都合だが」
明らかに故意としか思えない状況を、九鬼は平然と「故障」のせいにした。
その口元には、勝ち誇ったような薄笑いが浮かんでいる。
「どうした? 顔が強張ってるぞ、玉城響。ついてなかったなぁ。俺もこんな不公平なのは望んでねぇが、くくっ……マシンの故障じゃ仕方ねぇわな。でもまぁ、これも勝負だ、悪く思うなよ?」
九鬼は太い腕を軽く回しながら、余裕たっぷりに響を見下ろした。
響は無言でキャリーバッグに手を伸ばし、静かにボールを取り出した。
彼女が最初に取り出したのは、左利き用にドリルされたボールだった。
九鬼の笑みが凍りついた。
「……お前、右利きのはずだろ?」
「ええ、右利きよ。でも私は裏社会の勝負師。どうして左利きの貴方に対して、右で投げるというリスクを負う必要があるの?」
さらに彼女は、次々とボールを取り出した。スペア用を除く5個すべてが、ショートオイル専用に設計されたウレタンボールだった。
「……ウレタンを5個も?」
「あなたはウレタンボールを2個しか用意していないようね。どちらが、よりこのレーンに合うボールを選べるかは一目瞭然ね。……勝負は、始まる前から決まっていることもあるのよ」
九鬼は低く嘲るような笑いを漏らした。
「ほう……しかし、練習ボールも無いこの1ゲームマッチ、お前のようなか細い女が、このレーンの長さの半分もオイルが入っていないコンディションで、本当に合わせられるのか、見せてもらおうか」
九鬼は余裕たっぷりに笑いながらアプローチに立った。
最初の投球。
力強い左利きのフォームから放たれたボールは、重い音を立ててレーンを疾走し、9本のピンを倒した。残った7番ピンも難なくスペアを取る。
響は無言でアプローチに立ち、ゆっくりとボールを持つと深く息を吸い込んだ。
一切無駄の無い動きで始まり、ハイバックスイングから生まれる重力と遠心力を最大限に利用した自然落下のリリース——
音もなく。
ボールは静かに、しかし驚異的なスピードでレーンを疾走した。
九鬼の投球を上回る球速に高い回転が加わり、鋭く曲がっていく。
響が放ったボールは9本のピンを倒し、残った6番ピンを落ち着いた投球で難なく仕留めた。
響は先ほど投げた基準球の軌道を思い浮かべながら、別のボールを選び出した。
2フレーム目。
マイルドな弧を描きながら、確かな回転を保ったボールがレーンの乾いた部分を鋭く捉える。
ガシャンッ!
10本すべてのピンが一瞬で吹き飛ぶ、綺麗なストライク。
そこから3、4、5、6フレームと、響は次々とストライクを決めた。
スコアボードに並ぶ「X」の文字が、静かに九鬼の余裕を削っていく。
九鬼の顔から、嘲るような笑みが完全に消えていた。
【第6章:五十五フィートの海】
8フレーム目。
突如——。
響がアプローチに立ったその瞬間、その横の通路から、ゴトゴトと重苦しい機械の駆動音とキャスターの音が近づいてきた。
スタッフの手によって、巨大なメンテナンスマシンがアプローチの横から運び込まれ、手際よくレーンへと設置される。
「ふぅ~……」
九鬼はわざとらしく息を吐くと、口元を歪めて低く笑った。
「ククッ……おっ、ちょうど良かったな。メンテナンスマシンが直ったみたいだぜ」
そう言って九鬼は、レーン上を動き始めた巨大な機械を愛おしそうに見つめた。
「これでようやく、まともなレーンで投げられるってわけだ。
急にコンディションが変わるみたいだが……まぁ、お互い様だろ?」
そう言い放つ九鬼の合図とともに、マシンが駆動して強制的なレーンメンテナンスが始まった。
オイルが大量に注入され、レーンは一気に55フィートの超ロングオイルへと変更された。
滑り続けやすい極端なセッティング。響の表情がわずかに変わった。
九鬼はロングオイル対応の高性能ボールを取り出し、完璧な弧を描いてストライクを決める。
「はははっ! どうだ、気持ちいいだろう?」
今度は響の番だった。
ロングオイルに適した回転が乗らず、ボールは思うようにフックせずに直進気味に突き進む。結果——3番、5番、6番、9番ピンが菱形に残るバケット。
初めて、彼女の指先がわずかに緊張した。
九鬼が大声で笑った。
彼は大げさに肩をすくめ、哀れむような芝居がかった声で続けた。
「はははっ!可哀想にな……この超ロングオイルはウレタンにはかなりキツイだろう?俺はロングオイル専用のこいつがあるから苦でもないが……形勢逆転ってところか?」
九鬼は太い腕を広げ、勝ち誇ったように響を見下ろした。
「その美貌とスタイル……今夜は俺がたっぷり味わってやるよ。 嬲り尽くしてお前の綺麗な顔を歪めて、泣き叫ぶところを想像しただけでたまんねえな」
「どうだ? もう怖くなって震えてきたか? 内心じゃビビってるんだろ? 安心しろよ……負けたら、たっぷり時間をかけて優しくわからせてやるからな」
その目は明らかに楽しんでおり、相手を心理的に追い詰め、動揺を引き出そうとする卑劣な喜びが溢れていた。
響は無言で残ったピンを見つめていた。 その横顔は相変わらず表情の揺らぎはほとんど見えない。
しかし、彼女の指先がスペア用のボールを握る力が、わずかに強くなった。
響はスペア用のボールに持ち替えると、正確に4本のピンを仕留めて難なくスペアを決めたが、続く9フレーム目、超ロングオイルの影響は大きく、5番と10番ピンを残す5-10スプリットとなった。
九鬼が低く笑った。
「これで俺の勝ちだ」
勝利を確信した九鬼は、余裕の笑みを浮かべながら自分の番に立った。 その脳裏には、すでに勝負後の情景が浮かんでいた。
(……ふん、生意気な女が。 今夜は徹底的に調教してやる。 そのプライドを、涙と喘ぎでぐちゃぐちゃに崩してやるよ…… ベッドの上で俺の名前をひぃひぃ叫びながら、乱れる姿が楽しみだ。 お前は今夜から、俺のオモチャだ)
九鬼は卑猥な想像に唇を歪め、興奮を抑えきれずに低く笑った。
その目はすでに響の身体を舐め回すように、彼女の胸元や長い脚を貪るように見つめていた。
彼は太い腕を軽く回し、ボールを持ち上げた。
興奮を乗せて力強く放たれたボールは、これ以上ない手応えだった。
しかし、ボールは僅かに先で曲がりを失い——
無情にも7番と9番ピンが並行に残る、7-9スプリットとなった。
「……何故だっ!?」
完璧な投球のはずだった。
九鬼は信じられないといった顔で残ったピンを見つめ、立ち尽くす。
響はゆっくりと振り返り、驚愕する九鬼を冷静に見据えた。
「私の前の一投——バケットになった投球は、貴方のフッキングポイントに、わずかにオイルを伸ばすためのものよ」
響は自分のウレタンボールに視線を落とした。
「このボールはね、一番フレアが出ないようにドリルしてあるの」
——フレア。ボールが回転する際の『軸のブレ』のこと。ブレが少ないボールは、レーン上の同じ接地面で何度も回転するため、手前のオイルを巻き込み、レーンの奥へとわずかだが、引き伸ばしてしまう特性がある——
響の意図を理解した九鬼の顔から、一気に血の気が引いていく。
「私のスプリットを見て勝利を意識したあなたに、些細な力みが生じた。そして、あなたは期待通りにそのラインへ寸分の狂いもなくボールを通してくれたのよ。……ありがとう」
「……ふざけるな! お前だってスプリットじゃないか! ミスすれば全部終わりだ!」
響はもう何も言わず、深く息を吸い、ゆっくりとスイングを取った。一瞬の静止の後、ボールをリリースする。
ボールはロングオイルの上を静かに滑走し、5番ピンを的確に掠めると、10番ピンへと滑り込んだ。
ガシャンッ!
5-10スプリットが綺麗に倒れた。
響は何事もなかったように、ゆっくりと背筋を伸ばした。瞳の奥には、静かで深い確信が宿っていた。
対する九鬼の手はわずかに震え、荒々しいフォームで放ったボールは無情にも9番ピンの横を掠めただけ。7-9スプリット、ミス。
九鬼の顔は青ざめ、目には明らかな狼狽が浮かんでいた。
【第7章:決着】
九鬼は顔を激しく歪めた。
「このロングオイルでウレタンしか持ってないお前に……何が起こるかわかったもんかよ! 勝負はまだ終わってねえ!」
響はゆっくりと九鬼の方を振り向いた。その瞳は氷のように一切の感情が読み取れない。
「私がなぜウレタンだけを選んだか、わかる?」
「あなた程度の相手には、ウレタンだけで十分だからよ」
「……なっ」
「卑劣な手を使い、相手の力を制限しようとする時点で、あなたはもう勝負師として終わっている」
九鬼の顔が屈辱で真っ赤に染まる。
響はもう九鬼を見ず、次のフレームに向かって歩き始めた。
静かに10フレーム目のアプローチに立つ。会場全体が息を呑み、ただ響の一呼吸だけが静寂に溶けていく。
彼女はゆっくりとボールを持ち上げ、高いバックスイングを取った。黒の半袖から伸びるしなやかな腕が、完璧な放物線を描いて振り切られる。
リリースの瞬間、ボールはほとんど音を立てず、滑らかにレーンへと送り出された。
先程までの鋭い球威とは違う、穏やかなスピード。
しかしオイルの上を唸りを上げるような高速回転を帯び、空転しながら滑っていく。
——55フィートの長いオイルが途切れた、その瞬間。
ドライゾーンに触れたボールは、ウレタンの常識を覆す凶暴な摩擦を生み、急激にグリップした。
鋭角な『バックエンド』を描いて、ピンの急所へと食い込んでいく。
ガシャンッ!
10本のピンが一瞬で吹き飛び、完璧なストライク。
響は表情一つ変えず、ゆっくりとスコアボードから目を逸らした。
続く2投目、3投目。響はまったく同じリズム、淀みのないモーションから完璧なストライクを重ねた。
3投連続ストライク——パンチアウト。
九鬼は呆然と立ち尽くし、唇を激しく震わせていた。その目は今や完全な敗北と屈辱、底知れぬ恐怖に塗りつぶされている。
響はゆっくりと九鬼の方へ歩み寄り、低く静かな声で引導を渡した。
「勝負は、終わったわ」
薄暗い会場に、彼女の冷たい声だけがいつまでも残響していた。
【第8章:エピローグ】
翌日の午後2時半。
『Strike Palace』はいつものように賑わっていた。
「いらっしゃいませー!……って、また君たちか。学校はちゃんと行ってるの?」
玉城 響は柔らかい笑顔を浮かべてフロントカウンターに立っていた。
「玉城ちゃーん! 昨日は結局どうだったの?」
「別に……普通に仕事してただけだよ。ほら、2番レーン空いてるから早く行きなさい」
「えー、今日もガター見せてよー!」
「もう! あんたたち本当に……」
響は耳まで少し赤くなりながら、慌てて手を振った。中学生たちは笑いながらレーンへ走っていく。
昨夜の出来事など、微塵も感じさせないスタッフの顔だった。
午後3時を回った頃、店内のテレビがニュースを流し始めた。
『——本日未明、元プロボウラーの九鬼 烈氏が、自宅マンションで死亡しているのが発見されました』
『警察の調べによると、九鬼氏は総額3億円を超える闇の賭博試合に関与していたとみられ、その巨額の賭け金のバックには、大手投資ファンド『グローバル・キャピタル』の幹部らが関わっていた模様です』
『警察は本日午前、同ファンドの本社へ不正資金流用の容疑で家宅捜索に入りました。これに伴い、同ファンドが進行中だった全ての融資案件や企業買収計画は、一時凍結される見通しです——』
響はカウンターでアイスティーを一口飲みながら、テレビを横目で見た。表情に変化はない。
ただ、唇の端がほんのわずかに、誰にも気づかれないほど静かに上がっただけだった。
その時、自動ドアが勢いよく開き、息を切らせたサラリーマンの佐藤さんが入ってきた。その表情は昨夜とは打って変わって、まるで奇跡を見たかのように明るい。
「響ちゃん! 響ちゃん、聞いてくれよ!」
「あら、佐藤さん、いらっしゃいませ。そんなに慌ててどうしたんですか?」
「助かったんだよ、うちの工場が! 今朝、あの融資を頼んでた悪名高い投資ファンドに警察のガサ入れが入ってさ! 不正がバレて買収計画が白紙になったんだ! 」
「そうしたら、うちの工場の技術に目を付けてた、別の真っ当な国内の大手メーカーが『うちが全額出資して救済する』って、さっき連絡をくれてさ!」
「ええっ! 本当ですか!? 凄いです、佐藤さん!」
響は中学生のように両手を叩いて、自分のことのように飛び上がって喜んだ。
「いやぁ、本当に響ちゃんが言った通り、神様は見ててくれたんだな。あのファンドが今朝急に自滅するなんて、狐につままれた気分だよ。これで来月からも、ここでビールが飲める!」
「ふふ、日頃の行いが良いからですよ。本当によかったですね」
響は満面の笑みで佐藤さんに冷たいおしぼりを手渡した。
「玉城ちゃーん! 今度こそストライク見せてよ!」
中学生の声が響く。
響はすぐにいつもの柔らかい笑顔に戻り、カウンターから身を乗り出した。
「仕方ないなぁ……ちょっとだけだよ」
彼女はエプロンを軽く直し、中学生たちの方へ歩き始めた。
ネイビーのタイトスカートが、しなやかに揺れる。
午後の陽光が、ボウリング場の窓から差し込んでいた。
響の長い黒髪が、柔らかく光を反射する。
表の顔で笑いながら、彼女はもう、次の「仕事」のことを考え始めていた。
(第1話・完)
第1話(前後編)、最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
九鬼の卑劣な罠を乗り越え、人知れず誰かを救った響。
彼女の冷徹なまでの強さと、表の顔で見せる少しの優しさが、少しでも皆様に伝わっていましたら幸いです。
もし「面白かった」「スカッとした!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク登録】や【評価】で応援していただけると非常に励みになります。
皆様からいただける応援の一つひとつが、第2話を執筆する何よりの原動力です。
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