第27回 闞沢、尚書となる
曹魏では文帝の曹丕が亡くなり、三代目の「曹叡」が「明帝」となっていた。この時も、家臣の要請を拒み、孫権は帝位に昇らなかった。
しかし、来るべき日はとうとう訪れた。
曹魏の代替わりから、約三年後、とうとう孫権は帝位に昇ることにしたのである。
闞沢は、「尚書」に栄転した。
そして、これから孫呉を支える文武の柱はどうか。
まず、「文」は顧雍が数年前から「丞相」に任命されており、こちらに変わりはない。
そして、「武」は、陸遜が「上大将軍」に任命されたのである。
闞沢が考える文武共に、筆頭の実力を持っている者が、筆頭の地位に立つという、申し分ない人事であった。
顧雍と陸遜が、その実力を発揮できるように孫権がすることが出来れば、孫呉の黄金期と言っても、言い過ぎではないであろう。この時、一つの出会いがあった。
出会いと言っても、直接会ったわけではない。
孫呉には「虞翻」という名士として名高い者がいた。
ただ、孫権から見れば、あまりにも無礼な直言や失態が多いため、高い官位に登用されることはなく、現在は最果ての地と言っていいであろう、「交州」に流罪となっていた。
しかし、これでも名士中の名士であり、虞翻に人物評価をされることは非常に名誉なことであり、評価されることで名士として認められるのである。
闞沢に一番近い名士は顧雍であったが、顧雍はそれほど、人物鑑定を積極的に行う様なことは無く、控えめであった。
一方、虞翻は人物鑑定を好んだ。そして、闞沢の尚書としての仕事ぶりや、文献の解釈論などを見聞したことで、闞沢の事を学問が優秀であり、徳のある行いも素晴らしいと讃えて、前漢時代の大儒「董仲舒の様である」と激賞したことが世間に広まり、ここに闞沢は名士として更にその名を上げたのである。
しかし、闞沢はその様なことを鼻にかけて態度が変わることは無く、常に誰に対しても謙虚な姿勢を貫いたことで、更にその名声は確固たるものとなった。
そして、闞沢はいくら自分の身分が高くなろうと、若かりし頃に約束した、山越王との一年に一回の対面を欠かすことなく継続しているのも、驚きに値する。このことにより、山越による喧騒がなくなったことで、孫呉の国力は向上したと言える。
孫権は尚書に抜擢した闞沢に、山越に関しては、もう他の者に任せてもいいのではないか、ということを言ったが、闞沢は、この約定は、私の生がある限り守る所存です、と頑なと言っていいほどに自己の責任ある仕事であると主張したので、孫権も許すことにした。
名士の名が付いても全くおごることのない闞沢は、この後も順調にその地位を高いものとしていくのである。




