第26回 闞沢、曹操の死を聞く
如何なる天才、偉人であっても、凡人同様逃れられないものがある。それは「死」である。
当代随一の英雄といいであろう、曹操が亡くなった。享年六六歳であった。
跡目は長男が亡くなっている関係で、次男の「曹丕」が継ぐことになった。そして、曹丕は父が亡くなったばかりにも関わらず、漢の献帝に「禅譲」を迫り、献帝から皇位を譲り受けた体裁にし、魏王朝が成立した。これを受けて、漢は滅亡したことになる。魏の「文帝」の誕生である。
孫権は引き続き、魏に「臣従」する形を選ぶが、劉備は漢の滅亡を認めることが出来ず、自ら「蜀漢」を興し、帝位に就いたのである。
これを受けて、曹丕は孫権を「呉王」に任命した。
孫権はこの任命を受けいれて呉王となったのである。
そして、とうとう誰もが避けるべきであると考えていた戦いが勃発してしまう。帝位に就いた劉備が、関羽の復讐のために呉に大軍で侵攻する「夷陵の戦い」である。
孫権はこの戦いにまだ若い「陸遜」を抜擢し、「大都督」に任命した。
この戦いが勃発したときに、誰が孫呉の総大将に適切なのか、闞沢は万一、諮問があれば答えられる準備をしていたが、迷わず「陸遜」の一択であったので、孫権が如何に家臣をよく見ているかということを、改めて実感した。
この戦いは、長期間に及び、終結まで約一年間を要することになるが、孫呉の大勝利に終わったのである。この敗戦を受けて劉備は、あまりの失意に病床につき、約一年後に亡くなった。
その間に、孫権はとうとう魏から独立し、改めて独立国家となったのである。世の中の流れで行けば、孫権は当然帝位に昇ると思われたが、いくら家臣に言われても、頑なに断り、呉王であることを続けた。
闞沢は、孫権が帝位に昇らなかったのは、現在の国力、とりわけ人材の不足も懸念しているのではないか、と考えた。もし、そうであれば、人事を取り仕切る西曹掾として仕事が出来ていないことになってしまう。
闞沢はこの胸の内を、尚書令として、中央の政務を統括している顧雍に打ち明けた。顧雍が言う。
「徳潤殿。あなたの仕事が出来ていないなど、誰一人思っていない。これは、あくまで孫権様が、まだその時期ではない、というお考えなのだと思う。」
「何故、その様にお考えなのでしょうか?」
「我々の様に、長く孫権様にお仕えしても、実際の所、何をお考えなのかなど、わかるはずもありません。ただ、その日はいずれやってきますので、その準備をすることは、決して無駄な努力にはならないでしょう。」
「わかりました。この徳潤、自分のできることから準備を進めます。」
顧雍は頷き、闞沢は拝礼した。
こうして、闞沢は西曹掾として、来るべき日に備えて、人材評価の見直しや、官吏の登用を積極的に行ったのである。




