第25回 闞沢、西曹掾として活躍する
この頃、曹操は既に「魏王」を名乗っていた。
そして、その後を追うかのように、劉備も「漢中王」を名乗った。
その流れを考えれば、孫権もいずれ王号を名乗るときが来るのであろう。それも、それほど遠くない将来の事であると考えれば、まず、優秀な人材がその能力を遺憾なく発揮できる地位と場所に配置しなければならない。
喫緊の課題は、苦労して手に入れた荊州を如何に持続的に孫呉の領土として経営していくか、ということであり、荊州方面に優秀な人材を優先的に配置するべき、と闞沢は考えた。
その時、まず、闞沢の頭に浮かんだ人材がいた。呉景の甥の「朱然」である。
関羽討伐戦で大功を挙げ、その実力は周知された。物静かでそれほど大きな体躯の持ち主ではないが、その醸し出す雰囲気は名将そのものであった。孫権からの信頼も絶大であり、朱然には、荊州の最重要拠点である「江陵」に入ってもらうのが一番いいと闞沢は思った。
続いて、「歩隲」である。
若い時は闞沢同様、苦学を強いられる環境で育った。
縁あって、孫権に抜擢されその側近くで仕えた後、交州刺史として大功を挙げた。まさに文武両道と言える人物であり、歩隲には関羽の敵討ちに燃える劉備の動きを押さえるべく、益州に隣接する地域の統括を任せるべきであると感じた。
そして、「潘濬」である。
潘濬はもともと劉表に見いだされた人物で、その後、劉備に仕えた。関羽討伐戦で劉備軍が敗戦した後、何度も出頭を求められたが、それを拒否した。しかし、孫権自らが説得したことにより、その人格に心服し、仕えることとなった。
劉表、劉備に仕え、荊州に関して詳しいことから、荊州の軍政を任せるべき人材であると闞沢は考えた。
孫権も最重要課題は荊州、と考えており、この闞沢の推薦は全て孫権の理解を得て、そのまま採用された。
こうして、闞沢は常に国の利益を最大化するために、どこにどのような人材を配置すべきかを考え続け、西曹掾として成果を挙げたのである。




