第21回 闞沢、会稽郡丞として赤壁の戦いを見る
闞沢が会稽郡丞に就任してから数年が経過した。
毎年の山越王とのやり取りも今のところ問題ない。
盗賊、山賊といったところも大きな被害は無く、会稽郡の治安は平穏に保たれていた。
闞沢は、孫権から全権を委任されている関係で、事実上の太守として仕事に当たっている。
孫権は以前、顧雍に会稽郡を任せており、孫権にとって、会稽が如何に重要な場所であるかはそれでもわかる。
そして、孫呉が内政に力を入れて国力を高めていたその頃、北から脅威が迫ってきた。袁紹軍残党の掃討戦を終え、河北一帯を支配下に置いて「曹操」が、その目を南に向けてきたのである。
まずは、劉表が治める荊州を狙った。その様な危急のときに、何と劉表は病気で亡くなってしまった。跡を継いだのは長男の「劉琦」でなく、次男の「劉琮」であった。
劉琮は、曹操が攻めてくると聞いただけで、戦わずに全面降伏を申し出た。
その時、曹操の仇敵ともいえる「劉備」は、劉表のもとで客将として荊州北部を守っていたが、劉琮が全面降伏したと聞いて慌てて逃亡を図った。
しかし、長坂で追いつかれ、危機的状況に陥ったが、一騎当千の勇将「張飛」の活躍により、何とか逃げ切ることに成功した。
そして、曹操が次に目指すは、当然に孫権となる。
曹操は、荊州の水軍を丸ごと無傷で手に入れている。
しかも、兵力格差も、曹操が三〇万にたいして、孫権は三万程の兵力、実に一〇倍のひらきがあったのである。
そこで「魯粛」が劉備に同盟を持ち掛けた。
孫呉では、主戦派と降伏派に分かれて、降伏派の方が圧倒的に優勢であったが、劉備が派遣した「諸葛亮」が孫権を説き伏せ、曹操と戦うことを選んだのである。
孫権はこの重要な戦を「周瑜」を大都督に任命して、全権を委ねたのである。周瑜の策略と、曹操軍に疫病が蔓延した結果、奇跡的に孫呉が勝利した。
対戦の勝利に沸き立つ孫呉であったが、このとき訃報が届いた。闞沢の恩人ともいえる呉景が、急な病で亡くなったというのだ。
呉景とは、時折、近況を確かめあったり、相談事をするのに書状をやり取りする関係が続いていたが、その書状の文字はいつも力強い筆跡で、病の気配などを感じさせるものではなかった。
しかし、人間何が起こるかは、全くわからない。
闞沢は会稽を離れるわけにもいかず、呉県の方に向かい、哭泣することで、その弔いをした。
そして、この呉景の死が闞沢の新たな転機となるのである。




