第五十一話 喪失
陣地の外れ、静かな木陰でミアは魔導書を読んでいた。
遠くでは兵達の声や足音が聞こえるが、この場所だけは切り離されたように穏やかだった。
ドレイクからは、再編成が終わるまでは各自で訓練するよう指示されている。
「駄目、集中できない……」
ミアは小さく呟き、魔導書を静かに閉じた。
一人でいると、どうしても思い出してしまう。
ラグナヴェイルとの戦いで撤退した、あの日のことを。
ミアは髪飾りを外し、そっと手のひらに乗せる。
喜一から贈られた、小さな花の髪飾り。
あの時、ラグナヴェイルから逃げる際、喜一はまだ生きていた。
助けたかった。
必死に魔法を撃った。
けれど通用せず、遊撃隊は逃げることしか出来なかった。
胸が締め付けられる。
ミアは、喜一と遊撃隊で共に過ごした数ヶ月を思い返す。
七つ年下の少年は、初めて会うなり、「俺は世界最強になる男だ」と言い放った。
喜一はいつも自信に満ちていた。
それでいて他者を蔑むことはせず、誰に対しても敬意を持って接していた。
相手より優位に立とうとすることも、逆に自分を卑下することもない。
指先で、髪飾りの花弁をなぞる。
ミアはそんな喜一に、好意を寄せていた。
それが恋愛感情だったのかどうかは分からない。
これが恋だと断言できるほど、自分は恋愛経験が豊富ではなかった。
魔法学校の学生時代、付き合った男性が一人いる。
同じ人族の魔法使いで、彼の方からミアに告白してきた。
顔も好みで、なんとなく付き合い始めた。
最初は上手くいっていた。
魔法の話をし、一緒に勉強し、テストの結果を語り合う日々。
だが彼は次第に、優等生であるミアと自分を比べるようになった。
魔法の話をすることも、一緒に勉強することもなくなった。
ある日、テスト結果の話題を出した時には、「お前の自慢話には、もうウンザリだ」と言われた。
距離を置くと、彼はすぐに別の女と付き合い始めた。
楽しそうに話す二人の姿を見て、ミアは「……下らない」と小さく吐き捨てる。
しばらくして、その男はミアに「また付き合わないか」と声をかけてきた。
だが、何の感情も湧かず、その誘いを断った。
魔法学校を卒業し、解放連合に入隊すると、今度は歩兵隊の男から告白された。
ミアは過去の男の顔を思い浮かべ、「考えさせて」と返事を保留する。
そして、聞いてしまった。
歩兵隊の男が同じ隊の者と話しているところに、声をかけようと近づいた時だった。
「魔法使いは優遇されてていいよな」
「魔力切れになったら休めて楽だよな」
そんな言葉が耳に入る。
同じ隊の男がミアの存在に気付き、慌てて制止した。
歩兵隊の男は振り向き、言い訳を並べていたが、その言葉は、もうミアの耳には入ってこなかった。
ミアは告白を断り、その場を後にした。
その後も何度か他の男から言い寄られたが、すべて断った。
その点、喜一は違った。
ミアを羨むことも、蔑むこともない。
魔法の話をすれば真剣に耳を傾け、自分の魔法を当たり前のように頼ってくる。
喜一と過ごす時間は、ただ心地よかった。
だけど、女性用兵舎では、喜一とヴァルカが付き合っているという噂が広がっていた。
共に旅をしてきて入隊した二人。
ヴァルカはその噂を否定も肯定もしなかった。
それでも、二人が手合わせをしている姿はどこか楽しげで、他の者が踏み込めない絆のようなものを感じさせた。
ある日、ミアは喜一を城下町へ案内した。
喜一は礼だと言って、小さな花の髪飾りをプレゼントしてくれた。
これまでにも男性から贈り物を貰ったことはある。
だが、あの時のそれは違った。
下心のない、純粋な感謝。
その真っ直ぐさに、心が温かくなった。
その後、喜一の口からヴァルカとは付き合っていないと聞き、自分にも可能性があるのではないかと、そんなことを考えた。
年は少し離れているが、このぐらいの年齢差は珍しいことではない。
指の中で、髪飾りがわずかに揺れる。
だけど……。
「もう、いないんだよね」
風が木の枝を揺らし、葉擦れの音が静かに響いた。
ミアはゆっくりと髪飾りを身につけ、再び魔導書を開く。
そして、静かにページをめくり始めた。
───
ホークは木に向かって弓を引いていた。
放たれた矢は、吸い込まれるように狙った木へと突き刺さっていく。
最後の一本、わずかに逸れた。
乾いた音を立て、矢は木の幹をかすめて外れる。
「チッ……この俺が、この距離で外すとは」
舌打ちをし、ホークは矢の回収へと向かった。
最後の一本、ほんの僅かに、余計な雑念が入った。
(ゴルグ、あの馬鹿野郎。助けに入って、二人とも死んでたら世話ねえだろ)
木から矢を一本ずつ引き抜いていく。
(また、若い奴らが死んで。自分は逃げて、おめおめと生き残っちまった……)
脳裏に、十年前の記憶が蘇る。
ホークは中央大陸最北端、ノルテディア帝国の出身だ。
魔王軍が北大陸から中央大陸へと上陸し、最初に攻め落とされた地でもある。
小さな村で狩りをし、妻と五歳の息子の三人で暮らしていた。
あの日も、いつもと変わらず山へと入った。
息子は「自分も狩りがしたい」と言ってついて来ようとしたが、「大物を仕留めてくるから、母さんの手伝いをして待ってろ」そう言って頭を撫で、家を出た。
獲物の痕跡を追い、仕留めて戻る頃には、空は薄暗くなっていた。
村へ近づくにつれ、空が赤く染まっていることに気づく。
異変を感じたホークは、仕留めた獲物をその場に捨て、村へと走った。
高台から見下ろした光景に、言葉を失う。
村は燃えていた。
見たこともない、黒い装備の軍団が村を蹂躙している。
自分の家も、燃えていた。
道には、見知った村人達の亡骸が転がっている。
ホークの視界が、怒りで赤く染まる。
弓に矢をつがえ、黒い軍団へと放つ。
矢は一直線に飛び、兵の頭を撃ち抜いた。
次の瞬間、周囲の兵、数十名が一斉にホークへと手をかざす。
その手から、火球が放たれた。
ホークは姿勢を低くし、降り注ぐ火の雨を必死にやり過ごす。
(なんだ、あれは?……あれが、魔法ってやつか?)
ホークが魔法を目にしたのは、この時が初めてだった。
なぜこんな辺境の村に、こんな力を持つ軍団が現れたのか。
理解が追いつかない。
迫り来る敵の姿を、改めて見る。
紫の肌。額には角。
この世界のどの種族にも当てはまらない異形。
(まさか、こいつらが魔人か?)
思い出す。
最近、聖典統一教会の神父と名乗る男が村に来ていた。
魔界から侵略に来た魔人の軍団が現れ、北大陸で暴れていると。
北大陸に近いこの地も危険だと。
だが村人達は、ホークを含め誰一人として、その話を信じてはいなかった。
これからもいつも通りの日常が続く、そう信じて疑わなかった。
だが現実は違った。
村は焼かれ、命は奪われている。
あの惨状の中で、妻も息子も生きているとは思えなかった。
魔人達が再び手をかざす。
ホークは、逃げ出した。
声にならない叫びを上げながら走り出す。
火球が体をかすめる。
枝が顔を打つ、木に体をぶつける。
それでも止まらず、ただ必死に逃げ続けた。
やがて、木の根に足を取られ、額を木に打ち付け転倒する。
ホークの額から血が流れる。
振り返ると、追ってくる者はいなかった。
それからホークは、南へ、南へと逃げ続けた。
狩人としての知識で水と食料を確保しながら、ただ生き延びるために。
やがて辿り着いたバルディア王国で、エルグラント解放連合に入隊することを決意する。
それが復讐のためだったのか、それとも贖罪のためだったのか……今でも分からない。
ホークは手にした弓を見つめる。
(あいつ、剣の腕は大したもんだったが、弓はからっきしだったな)
脳裏に浮かぶのは、喜一の姿。
ある日、弓を教えてほしいと頼まれた。
最初は矢がまともに前に飛ばず、どう伝えればいいのか分からなかった。
今まで他人に弓を教えたことなどなかった。
感覚でやってきたことを言葉にする難しさを、その時初めて知った。
いや、頼まれたことはある。
自分の息子に。
だけどあの時は、「もう少し大きくなってからな」と約束しただけだった。
その約束を、果たすことはもう出来ない。
生きていれば、今頃は喜一と同じくらいの歳だったはずだ。
もしかすると、自分は喜一を息子と重ねていたのかもしれない。
いつか息子と一緒に酒を飲む、それが、ささやかな夢だった。
喜一の歓迎会の時、あいつは酒が飲めないと言って果実ジュースを飲んでいた。
それが妙に寂しくて、「これは酒じゃない」と嘘をついて飲ませた。
結果、喜一は倒れ、ドレイクに叱責され、翌日には怒った本人に平謝りする羽目になった。
小さくため息をつく。
だけど、あの戦いで、自分はその喜一を見捨てた。
まだ生きていた、それでも撤退をするようドレイクに進言した。
でもあれは仕方なかった、他の遊撃隊も撤退を始めていたし、あのまま戦っていれば、確実に全滅していた。
だから、あれは正しい判断だったはずだ。
……いや、本当はただ、自分が生き残りたかっただけなのかもしれない。
ホークは苦く笑う。
「俺って奴は、本当に逃げてばっかりだな」
回収した矢を手に、再び距離を取る。
弓を引き、放つ。
矢は真っ直ぐ飛び、木に突き刺さった。
一本、また一本と放っていく。
日が暮れるまで、ホークは矢を放ち続けた。




