第二話 海の向こう
冷たいはずの海の感触が、いつの間にか消えていた。
代わりに感じたのは、固い砂の感触と、頬を撫でる生暖かい風。
「……おい、生きてるぞ!」
低い男の声がした。
重たいまぶたを持ち上げると、逆光の中に黒い影が見える。
無精髭を生やした男が、覗き込んでいた。
喜一は咳き込んだ。
口の奥から塩水が溢れ出す。
喉が焼けるように痛い。
「無理するな、坊主」
何を言っているのか、分からなかった。
聞き慣れぬ響き。
蒼嶺国の言葉ではない。
喜一は身を起こそうとして、再び倒れた。
腕の中には、刀があった。
男が目を細める。
「……大事なもんらしいな」
男は漁師だった。
浜辺近くの小さな家に運ばれ、喜一は数日寝込んだ。
目を覚ますたびに、見知らぬ天井と、見知らぬ言葉。
不安で一杯だった。
漁師の妻は、優しい声で何かを語りかける。
だが意味は分からない。
やがて、漁師の男が幼い兄妹を連れて近づいてきた。
「……?」
男が、ゆっくりと自分の胸を叩いた。
「ロム」
それが名だと、ようやく理解した。
喜一も胸を叩く。
「……喜一」
兄妹が笑った。
それが、中央大陸で最初に交わした会話だった。
それから喜一は、誰に言われた訳でもなく、自分からロムについて行き、漁を手伝った。
言葉は、少しずつ覚えた。
天気の良い日は小さな船に道具を積み込み、漁に出る。
魚のいるところに網を投げ入れ、網を引く。
捕れた魚を運び、捌き、保存用の魚は干す。
動きで示され、真似をする。
「水」
「飯」
「海」
「船」
「魚」
夜になると、漁師の男、ロムは焚き火の前で、ゆっくりと喜一に単語を教えた。
生きるため、強くなるためには、知らなければならない。
喜一は必死に覚えた。
兄妹はすぐに懐いた。
妹のヨルはよく後ろをついて歩き、兄のゼンは喜一の腕を触っては目を丸くした。
「ツヨイ」
そう言われるたび、喜一は胸の奥が少しだけ温かくなった。
蒼嶺国では悪童と呼ばれた腕。
ここでは、ただの強い兄ちゃんだった。
ある日、喜一は岸に流れ着いた流木を拾い、ロムから借りたナイフで木を削り始めた。
そして出来た木刀を、時間があれば振るう。
その姿をゼンとヨルは離れたところから興味深そうに眺めていた。
喜一は落ちていた棒をゼンとヨルに渡し、二人がかりでかかってこいと手で合図する。
ゼンとヨルはお互いの顔を見合わせ、頷くと喜一に向かって棒を振る。
喜一はそれを、木刀ですべて受け止めた。
喜一からは攻撃しない、やがてゼンとヨルが打ち疲れてその場に座り込む。
「ヤッパリ、ツヨイ」
ゼンがそう呟くと、喜一は笑って二人の頭を撫でた。
ゼンとヨルも笑っていた。
やがて一年が過ぎた。
さらに一年。
十四歳になった頃には、日常会話に困らなくなっていた。
ある日、港に停泊していた商船を見て、胸が騒いだ。
中央大陸の戦場へ、物資を運ぶ船だと聞いた。
戦は、今も続いている。
剣を握るために、世界最強になるために来たのだ、ここで終わるわけにはいかない。
夜、ロムに告げた。
「俺、行くよ」
短い言葉だが、意味は伝わった。
ロムはしばらく黙り、深く息を吐いた。
「ここに残ってもいい……子供たちも、お前が好きだ」
喜一は首を振る。
ロムは苦笑し、家の奥から布に包まれたものを持ってきた。
祖父の刀だった。
「お前を見つけた時、これを抱いていた」
刀は錆一つない、丁寧に手入れされていたことが分かる。
「……ありがとう」
喜一は深く頭を下げた。
ゼンが喜一に尋ねる。
「また、帰って来る?」
喜一は首を横に振る。
「いや、ここにはもう帰らない」
妹が泣き、兄が歯を食いしばる。
ロムは大きな手で、喜一の肩を叩いた。
「死ぬなよ」
その一言が、胸に刺さった。
出発の日、喜一はゼンに自分の作った木刀を贈った。
「妹を、家族を守ってやれ」
ゼンは喜一から木刀を受け取ると、目に涙を溜めながら頷く。
漁師一家に見送られ、喜一は旅に出た。
道は広く、知らぬ景色が続く。
分かれ道に立て札があった、文字が並んでいるが読めない。
漁師家族は読み書きができなかった、喜一も中央大陸の文字は知らない。
「こっちか?」
勘で道を選ぶ。
進むとまた分かれ道があった。
また勘で進む。
持参した干し魚が尽き、水筒が空になる。
次第に足取りが重くなるが、それでも歩く。
世界最強の剣士になるために。
だが、体は限界だった。
視界が揺れる、喉が裂けるように痛い。
祖父の刀を支えに、よろめく。
そして……倒れた。
道端に、黒髪の少年が横たわる。
(俺は……こんな所で終わるのか……)
空が白く霞む。
遠くで、馬のいななきが聞こえた。
車輪の音、人の声、影が近づく。
喜一の意識は、闇へと沈んだ。




