第四依頼者 元気、接近、現金、献金
今月二度目の入院も主治医に追い出されるようにその翌日に退院し、頬にまだ湿布を貼ったままの姿で真葛はそのままいつもの場所へと直行することにした。表向きは〈頼まれ屋〉の仕事を最近、入院したりして空けてばかりいたという理由だが、実際はどこに行くあてもないのが現実であるが、それは考えないでおく。
とは言っても……
「まぁ、暇だね」
街頭に立ったからといえども早々、依頼者が来るわけではない。残念ながら真葛の仕事はイギリスのさる探偵のように多くの人々に周知されておらず、この町周辺に知られているだけなのである。したがって日中のほとんどを座って過ごす日も多々ある。そんなときでも真葛は誰かに声をかけられるまで雨の日でも風の日でも雪の日でも渋谷駅前の犬のようにただただそこに座り続けている。
ほとんど趣味かな、もうこれは。
ボーっと目の前を行き過ぎる人波を眺めながら何がなし思いつくことを考えてみる。こういうとき、必ず人というモノは自分の人生について考えてしまうものである。これまでの自分、今の自分、これからの自分。空いている時間は自ら己について評価する時間へと変わる。
これでも一応、日々、食えてるっちゃ食えてるからな。
時折、入ってくる大仕事、裏の人たちから頼まれる仕事は難易度が高めだが、それと同時に依頼料も高めで貰えるので今のところ真葛は生活に困らずにいることができていた。とは言っても別に真葛は犯罪まがいの仕事をしているわけではない。おそらく。いや、少しぐらい足を踏み外してしまっているかもしれないが。そんな考えに至ってしまい真葛は頭を左右に振る。
まっ、まぁ!? これもお客様あってのことだからなぁ。感謝、感謝です
よ、お客様。
両手を合わせ、この街のどこかにいるはずのお客様全員に感謝の念を送る。怪我ばかりしていると少し信心深くなるのかもしれない。
「オーケイ!」
念を送る最後の締めとしてパンと勢いよく手を叩く。その音に人波が一瞬だけこちらに視線を送ってきたので真葛は謝るように少しだけ首を動かした。しかし、既に人波の関心はそれぞれの思惑へと戻ってしまい、誰も見ていなかった。
ふぅ……これで大丈夫かな。
真葛は満足げに何度も頷いた。
「アハハハッ、何してるの?」
バンバンと膝を叩くような音。
「えっ!?」
急に後方から笑い声が聞こえてきたので、真葛は慌てて後ろを振り向いた。
「ハハハハッ」
誰だ、こいつ?
真葛のちょうど後ろ、植込みの石でできた柵に腹を抱えながら笑う人が座っていた。
うぅん……女の子か?
ショートカットの頭の上にはハンチング帽、その下に見える顔は少し鋭く見える瞳に挟まれて鼻筋が通り、その先に薄い唇が落ち着いていた。簡単に言えば中性的な秀麗な顔立ちで性別がはっきりとはわからなかった。そして、さらに分かりにくくしているのが、その下、服装はTシャツの上にオーバーオールという格好である。そのうえ、男女の区別として一番わかりやすい点であるはずの胸も残念ながら薄いので、男か女か判断がつかなかった。しかし、声が男にしては高いので真葛はどうにか女の子だろうと推測した。だが、声変わりしてないのかもしれないということもあるので推測の域を出ない。
ていうかそれ以前にこの子は俺に向かって笑ってるのか?
そこが問題であった。
そこには真葛以外にも多くの人が行きかっている。したがってその笑いが真葛ではなく、違う人に向けられている可能性も無きにしも非ずであった。もし、ここで真葛が何か反応しても、本当は違う人へ向けられたものであったならば完全に恥をかくことになってしまう。必ずその当事者はもちろんのこと、周囲の人も薄ら笑いを浮かべるに違いない。
それは絶対ヤダ!
そうなるのは真葛としては避けなければならないことなので、一番手っ取り早いことをすることにした。
うん、無視だね、これは。
向けた顔を前方に向け直し、後方にいる女の子のことは忘れることにする。
ていうか俺に声かけてくる女なんて早々いるはずないからただの自意識過剰だよね。
と、自己反省。再び道行く人々の波へと視線を移す。
「あれ? 無視されちゃった。聞こえなかったのかな?」
俺じゃない、俺じゃない。
必死にそう自分に言い聞かせる。
トトト、と足音。
俺じゃない、俺じゃない。
自己暗示するかのように心中で呟き続ける。
足音が止まる。
「なーにしてるの?」
少し近くから聞こえてきた。
待ち人が俺のそんな近くにいたんだ。そう! ただそれだけ!!
そんなことを思いながらちらりと視線だけを後方に向けたが、目標は真後ろにいるため真葛の視野の稼働領域外だったので確認できなかった。
いや、関係ない。関係ない!
再び視線を人波へと向けた。
「まだダメなの……」
トトト、と再び足音。
結構、近くまで近付いてくる。
耳の遠い人なのかな、その人。うん、そうなんだね、大変だ。
何となく気になってしまうが、下手に首を動かせば先程の女の子やその相手に不審に思われてしまうということにしてやめておく。
トトト……
あれ、結構来るね。
先程、女の子が座っていた場所は真葛のいるところから距離があったのだが、このままの調子で来られると真葛のところに辿り着いてしまう可能性が出てきた。
いやいや、だから絶対、ないって!
彼女いない歴=生きた歳という特別天然記念物の真葛なので、ちょっと女性が気のあるような行動を取ると、過大妄想してしまう。放置すると、凄いことになってしまうが、そこをいつも理性の真葛が今のように突っ込んでくれるので大事には至らないようにしてあるので今のところ大丈夫なのである。
そう今日も大丈夫なはずだ……
「あーあ……暇だね」
欠伸をしながら変な考えをしないように仕事のことを考える。心中で念じるよりも言葉にした方が効果が大きいというのは真葛の経験則である。
「誰か依頼者でも来ないかな」
すると先程から聞こえていた足音が真葛の耳に聞こえなくなった。
おっ!? 効果てきめんだな。
自然と顔が綻んでしまう。こんな小さなことでも嬉しくなってしまう真葛であった。
「いきなり黒服に身を包んだ人が薬か何かの取引をしていてそれを俺は見て
しまい、もっと調査しようと後をついて行ったら他に仲間がいて俺は鉄パイプで殴られてしまう」
さらに気を紛らわすために妄想を始めた。小声でこんなことを呟いている男など傍目から見ると、気持ち悪いかもしれないが、真葛としてはいたって真剣である。
「そして、気絶させられてしまった俺はその黒服の男たちが持っていた薬を飲まされ、目を覚ましたときには身体が……」
「ねぇ、何してるの?」
「うわっ!?」
妄想に集中し過ぎたせいか、急に近くから声が聞こえたので、真葛は思わず声を上げてしまった。
「やっと気付いてくれた。よかったぁ」
振り向いてみると、頬にショートカットの髪が触れるぐらいまで女の子の顔が真葛の眼前に迫っていた。どうやら足音は聞こえなくなったのではなく、既に真葛の後ろまで来ていたので聞こえるはずがなかったようである。
「わわわわわっ!?」
目の前に端整な顔立ちがあったということでまた声を上げてしまった。
「何でそんなに驚いて……」
と、眼前の女の子は首を傾げたが、すぐにニヤッと顔を歪ませた。
「あれ、まさか恥ずかしがってるの?」
「いやいや、まさか、ハハハハハッ、そんな、ねぇ、馬鹿な」
テンパってしまった。しかし、すぐに反論できたことは評価できることだと思った。いつもならば何も声が出せないだろうから。
「そう?」
グイッと顔を近付かせてくる。
「おわわわわっ!?」
ガッと真葛は頭を後ろへやる。
「ほら、やっぱり」
とさらに近づかせてくる。
「おいおいおいおいおいおいおいおい……」
さらに頭を後方へ。
「おわっ!?」
と思ったら階段から落ちそうになった。
ヤバい!?
頭から落ちる格好であったので最悪、コンクリートにぶつけて病院に逆戻りかと思った。
「危ない!」
女の子はそう言うと中空で目に見えない何かを掴もうとしていた真葛の腕を掴み、真葛を一気に前方へと戻してくれた。どうやら最悪の結果は回避されたようである。と、安心しきったのも束の間、
「おえ?」
と、真葛は奇妙な声を上げた。
この……・
ゆっくりと引き戻される真葛。それと共に彼女も後方に倒れていく。
流れって……
バタンと先にコンクリートの地面に倒れる女の子。そのとき、真葛は中間地点を通り過ぎたところであった。
ヤバくないか!?
遅れて真葛も倒れ、そして重なり合う身体と身体。その瞬間、彼女の口元から「きゃっ!?」と可愛らしい声が漏れ、聴覚を刺激し、それと共に目の前で赤らむ頬が見え、視覚を刺激。そして、ふわっと鼻先には何とも言えぬいい香りが漂ってきて臭覚を刺激したが、それよりも身体が密着しているという事実に触覚が過剰に反応し、思考のほとんどをそちらに持って行かれた。
や……柔らか……
「って、オイ!?」
まだまだ触覚を活性化させたかった真葛だが、やっとのことで理性が起き出してきたので、むにゅっと微かな感触を味わいながら真葛は慌てて身体を起こした。
何してる、自分!
と、内心でツッコミを入れながらまずイの一番にやらなければいけないことをする。
「ごめんなさい、すいません、申し訳ございませんでした、もう二度としません、こんな所業を許してください、通報しないでください、まだ生きたいです、よろしくお願いします、どうしてこんなことをしてしまったのか自分でもわからず、これは第二の自分がやったことで、本当に知らないんです、こんなことって、この罪は一生償いますから!」
考えうる全ての言葉を一気に捲し立てるように言う。途中、おかしい表現があった気がするが気にしている場合ではなかった。そして、すぐに土下座をする。コンクリートがひんやりと真葛のおでこを冷やす。
ダメか……
警察を呼ばれ、連行されていく自分の姿を想像して、真葛は頬を一筋の涙
が流れたのを感じた。
ははは……泣いてら……
最悪の結果を想像してしまったせいで流れてしまったようである、。
まぁ、しょうがないか……
そう覚悟したときであった。
「そんな謝んなくていいですよ」
一連の動きが早過ぎたのか、今まで驚いていた彼女が土下座する真葛の肩に手をかけ、申し訳なさそうにそう言ってきた。
「そうですよね……わかりました、どこへでも行きましょう……えっ!?」
立ち上がりかけていた真葛は中腰のまま視線だけを彼女に向けて動きを止めた。
どういうことだ?
警察官とのお話し合いを覚悟していた真葛にはその言葉が理解できなかった。
「大丈夫ですよ」
ニコリと彼女は笑う。
そんな馬鹿な!?
最悪の結果どころか、最善の結果となってしまった。
「いやいや、でもあなたの、あの、その、この、どの……」
中腰のまま真葛は身振り手振りを加えて説明しようとしたが、
言えねぇ~!
先の言葉を言うのが躊躇われ、言葉に詰まってしまった。すると、彼女は再びニコリと笑って、
「いいですよ。減るモノじゃないですし」
と何の臆面もなしに言ってきた。
減るモンじゃない!? ということは他のいろんな人にご提供済み!?
と、過大妄想。耳まで真っ赤にしていると、その耳に「ハハハッ」と軽や
かな笑い声が聞こえてきた。
「本当に面白い人だよね。うん、お腹痛いよ」
バシバシと真葛の肩を叩いてくる。
痛い。痛いですから、ホントに。
案外力が強く、左肩ばかり叩くので徐々に身体がそちらに傾いてくるほど
であった。
「ちょっ、ちょっと……」
ガクン。
手加減なしに何度も叩いてくるので、結局、真葛は地面に突っ伏してしま
った。
「あっ! ホントごめんなさい」
と再び腕を掴んでくると、彼女は思いっきり力を入れ、真葛を立たせてくれた。
「あ、ありがとう」
服に付いた土を払いながら礼を言った。細身の体に似合わず、先程から力の強さが半端ない。
この子もまさか例の姉妹系か?
最近、知り合った暴力妄想姉妹のことを思い出すが、その記憶を貯蔵庫から払い落とす。
いや、そんなこと、あるはずない。ていうかそんな姉妹会ってないもんね。誰ですか、その人たち、アハハハハッ……
そうして記憶の偽造を己でおこなう。
「二度もごめんなさい」
彼女はそう言うと、勢いよく頭を下げた。
「いえいえ、そんな俺こそ申し訳ないです」
と、真葛も頭を下げる。
「何かいつもこうなんですよね。友達からも夕陰、あっ、これ私の名前です、元気あり過ぎだって言われるんですよね」
えへへへへっ、と夕陰は恥ずかしそうに笑う。真葛はふと率直にその表情を見て、可愛いと思った。
その友達、正解!
「で、何の用ですか、その……夕陰さん?」
そう呼んでいいのか、わからなかったのでビクビクとしながら恐る恐る呼んでみた。
「あっ、はい! 用っていうのは、ってそれよりも自己紹介からですよね。すいません、ホント先走り過ぎちゃってごめんなさい」
と再び夕陰は頭を下げる。
「いやいや、もうそんなぐらい元気のあった方がよいお子さんが生まれますよ!?」
慌て過ぎてサラッとセクハラ発言をしてしまったが、夕陰は特に怒りもせずに「何言ってるんですか、ホントに面白い」と笑ってくれたので、真葛はホッと胸を撫で下ろした。
焦り過ぎだわ。
妄想に走る脳を覚ませるためにトントンと軽く自分の頭を小突く。
「私、陽中夕陰って言います! 歳は十七歳で、現在、花の女子高生二年目です!」
両手の人差し指を頬に突きながら、えへっ、とまた笑う。何だかやり過ぎ
感があるように真葛は思ったが、おそらく素なのであろうと信じる。
それで終わりかと思い、真葛は「用は何かな?」と口に出そうとしたら
「好きな物は鮭の切り身の尻尾の部分に少しだけある脂の乗ったところで……」と続けてきたので、言葉を引っ込める。
あぁ、まぁ、そこは他の部分と比べて何だかうまいよね。
と同意するように頷いた。すると、夕陰が「同じですか!? やっぱりあそこの部分はおいしいですよね!」と真葛の手をギュッと握り、嬉しそうに上下に振ってきた。
「う、うん」
さらに頬を赤らめながら真葛は答える。
これは本当にどっちなんだ?
この行動が計算づくであるのか、あるいは本当に天然なのか、真葛には判断ができかねなかった。
「で、用って……」
「それでですね。嫌いな物は家鳴りです! 理由は何だかそこに誰かがいる
気がしてです!」
「あ、うん……で、用……」
「あとですね……」
まだ続くんかい!?
そして、その後、ベストスポットや今一番行きたいところ、欲しいものから果てはスリーサイズまで暴露し始めたので、これは完全に天然だなと真葛はその場でそう判断した。
「もう、その用って何かなって……」
スリーサイズをしっかりと聞いたところで真葛は申し訳なさそうに夕陰に本題に入るよう先を促す。
「あっ、ごめんなさい真葛さん。喋り出すと止まらないってこの前も友達に言われたばかりなのにダメだな、私……じゃあ、最後に……」
まだ何か言い足りないことがあるらしい。ここで夕陰が真葛の名を知っていたのは長々と喋る中、どうにか自らの名を名乗るのを捻じ込んだためである。ついでに言うと携帯の番号も奪われてしまった。その代わりに夕陰のアドレスも教えてもらった。女子高生がそう簡単に人にアドレス教えてはダメでしょ、と一応ツッコんでみたが、少しでも話をしたら皆友達なのだそうだ。何とも、まぁ、あけっぴろげというか、無防備というか、そんな女の子だった。
もう十分でしょ……
この数分で夕陰という人物の大体の姿が肉体的(?)にも精神的にも理解できたと思う。もうこれ以上はどんな情報を言われてもちょっとした補足事項でしかないだろう。
「今、彼氏募集中です!」
腰に手を当ててこれでもか、という風に夕陰は宣言した。
オイ!?
ガクッと昭和のコメディばりにズッコケてしまった。
「で、本題の方は?」
先程の緊張や赤面した顔など本当にあったのか、と疑いたくなるほど今の真葛は冷静になっていた。
もう疲れたな……
聞き疲れというのであろうか。互いに話し合っていると、時間の経つのも早いと思うが、ただ聞くだけだと思いの外、時間の流れが遅い気がする。そのうえ、下手に聞き流せないので一言一句、懸命に聞いていると疲労感がその一言一言に比例するように増加していく。
聞き上手って何時間ぐらい聞いてられれば貰える称号なのかな?
遠く視線を送りながらふとそう思った。
「はい、今から言いますからそんな疲れたような顔しないで下さいよ、真葛さん」
と、夕陰は真葛の顔を覗きこんでくるが、先程までの高揚感はなく、ほとんど棒読みに「ハイハイワカリマシタ」と返すだけしかできなかった。
「もう慣れちゃったんだ、つまんないの真葛さん」
真葛のそんな反応を見て、夕陰は不貞腐れたようにそう呟く。唇を突き出すようにするその姿に真葛は少しだけ心音が強まった気がした。
イカン、イカン……それに名前呼び過ぎだよ!?
さん付けではあるが、上ではなく下で呼ばれると何ともむず痒いものであ
った。
「すいませんね。で、お話は?」
このままでは再び動悸が激しくなってしまうので早く話を始めさせようと再度促しながら真葛は腰を下ろした。
「あっ、ホントに駄目だな、私。反省できてないな……」
トントン、と握り拳で夕陰は自らの頭を叩く。
くっ……か、可愛いじゃねぇかぁ!
欲望爆発寸前。
落ち着け、真葛。ここじゃ人の目があるから危険だ!
理性が発動。少し暗い部分が見え隠れするが、一応その励ましで現実に戻る真葛。
「ま、まぁ、いいから」
「そうだね、このままじゃ先に進まないもんね」
そう思うなら最初から本題に入ってくれよ。どんだけ話してたと思うんだ!
と強気に言いたかったが、内心に留めておくことにする。言ってもしょうがないということをしっかりと真葛は理解していた。
「まぁ、何ていうか、その……」
真葛の隣に座ると、急に考え込むような表情になる夕陰。時折「何だってけなぁ」と呟くが、聞かなかったことにする。
ていうか近過ぎだよ!
肩が触れるか触れないかの近距離に少し息が荒くなる真葛。しかし、そんなことに気付かない夕陰は視線を上に向けると、ポン、と手を叩いた。やっと思いついた、ではなく思い出したようである。
「最近、無言電話とか酷くて困ってるの。あと好きです、あなたは私の物ですとかいう手紙も来たし、あと誕生日だとか初めて出会った記念日だとか初デートの日だとか言ってひっきりなしにいろんなプレゼントが届いたりするし、あと……」
その後もあなた、夕陰のことだが、と共に食べたとかいうアイスのカップや友達の男子と一緒に歩いていただけなのに裏切りだと言って猫の死体を玄関前に置かれていたなどそれら行き過ぎた所業ほとんど全てを余すことなく説明してくれた。
言わなくとも分かると思うが、その男と遊んだこともなければ、当然のように彼氏でもなく、全てが妄想・幻想・想像の類であった。妄想過多の真葛としてもひいてしまうほどであった。
「これって俗に言うストーカーかな?」
と最後に締め括るように問い掛けてきた。
いや、疑問形にする意味がわからないから。
「それ完全にストーカーでしょ!」
思わず夕陰の肩にパチンとツッコミを入れてしまった。それを見て、夕陰は「あははっ」と楽しそうに笑う。一瞬、やってしまったと思ったが、その笑顔を見て、安心する。どうにも何かするたびに身構えてしまう。
いや、ホントに笑い事じゃないでしょ、それ。
普通の女性ならばおそらくすぐ警察に電話するであろう。ただそれに対し、国家の守人が動いてくれるかどうかわからないが。
「笑い事じゃないでしょうに! 警察に行こう。今すぐ行こう。このまま行こう。何なら電話しよう!」
と過剰に勧めてみるが、夕陰はただただ「それ面白いね」と言いながら笑うだけで、事態の深刻さを全然理解していないようであった。
軽い……軽過ぎるこの少女!
今時の女子高生という者に嘆き悲しむ真葛であった。
「で、それでどうするの?」
真葛は呆れたように尋ねる。
「どうする? どうするってどうする?」
逆に聞き返されてしまった。
「どうするって言われてもさ……」
わかんないから。
ボリボリと頭を掻いていると、夕陰はパチンと手を叩いた、
「じゃあどっか行こうよ! ねっ?」
と言うと、強引にどこかへ連れ出そうと夕陰は真葛の腕を引っ張り始めた。
「ちょっ、ちょっと……」
うん、うんうん、わかった、わかった。
考えてみれば今日は平日である。それも時間帯は昼近く。そんな時間帯に街中をうろつく女子高生。そして、この流れ。
わかった、わかった。これって完全にあれだね。
「サボりはいけないよ」
ポンと夕陰の肩に手をやる。
ストーカーとかまた真実味のあることを言うので信じそうになったが、こ
れはもう完全にそうでしょ。
「どんな辛いことがあっても、どんなに面倒臭いことがあっても、どんなにやっていられないほどの授業だとしても学校にはそれ以外にもいろんなモノが詰まっているんだから行かない手はないよ」
と変な説得をしてみる。
うううぅ、と何も言えずに唸っているところから正解なのだろう。
「で、でもさっきの話は本当だからね、真葛さん」
夕陰はうんうんホントだから、と真葛に同意してもらうためか、何度も頷く。そして、ボソッと「それに学校に行かない訳じゃなくて行けないんだけ
どね……」と夕陰は言ったが、真葛には聞こえなかった。
「午前中の授業は駄目でも今から行けば午後には間に合うでしょ。今から行った方がいいんじゃないかな?」
提案してみる。
「今日は午前だけ……ていうのは無理みたいね」
真葛は都合のよい理由は聞かず、ジッと夕陰を見た。その勢いに言い訳は無理と思ったのか、夕陰は紛らわすように笑う。
「そんなことより、じゃあお話ししよっ! 真葛さん」
もう名前を連呼してくることについては何も考えないことにした。
そんなことって……うん?
溜め息をつきつつ肩を落とす真葛だが、後半の言葉を聞いて首を傾げる。
お話ししよって、何? さっきもちらりと一緒にどっか行こうみたいなノリだったけど……
そんなことがあり得るはずがないと真葛は受け流していたのだが、どうやら本気のようである。
「えっ、と、お話ししようっていうのはどういうこと?」
「そのまんまだよ。ちょっと時間があるからお話ししよって」
なら学校行けよ、と思ってしまうが、それよりも真葛が気にかかることはなぜ自分となのかであった。
「えっ!? 何で俺なんかと」
別に真葛は自分のことを卑下しているわけではないが、残念ながら事実といったものがあるので、それはしっかりと認識しなければならないだけである。
「最近、ずっと見てたし、結構面白そうだったから真葛さんって」
なんて小悪魔なんだ……これでどうにか気弱な眼鏡男子を丸めこんで金かあるいはそれ以上のモノを巻き上げにかかるに違いない!
と、ずっと見ていたとか何か重要な言葉を聞いた気がしたが、それよりもへそ曲がり発言を脳内で繰り返し言い続ける。
「へっ、へぇ~、そうなんだ」
相手になめられてはいけないと表面上、冷静を装う。
「ほら、そこ!」
あはははっ、と変にピクピクと表情筋を動かす真葛を指差しながら夕陰は笑った。仮面は既に剥がれていたようである。
「で、話って何さ」
不貞腐れたように真葛は言う。
「まぁ、そう怒らないでよ、真葛さん」
名前を呼ばれることが次第に心地良くなってきてしまった。
イカン、イカン。戻ってこい真葛。
理性が真葛を現実へと呼び戻す。
「何でもいいよ。何か聞きたいことある?」
自分から話ししようって言っときながらそれは……それにもうあなたについては十分情報は得ましたから。
溜め息をつくと、幸せが逃げるというが、今日だけでどれほど出奔してしまったであろうか。そんな心配までしてしまうほど、また溜め息をついた。
「じゃあ、私から!」
何も答えない真葛に痺れを切らしたのか、夕陰自身が口を開いた。
「何歳ですか?」
「君よりちょい上」
「今は何をしてるんですか?」
「君の隣に座ってる」
「そういうことじゃないですよぉ!」
「じゃあどういうことなのかな……」
と時々、背中を叩かれながら終わりのない質問攻撃は昼食も取らずに二時近くまでかかった。
「も、もういいでしょ……」
空腹感を締め付けるように胃が訴えてくるので、それを我慢しながら絞り出すように真葛は夕陰に訴える。
「あっ、もうお昼過ぎちゃいましたね。お腹減っちゃいましよ」
全てあんたのせいでしょ!
と怒りたい衝動はあったが、それよりもこれでやっと解放されるという安堵の方が上回っていた。
「どこで食べます?」
解放されない!?
真葛は愕然とした。この流れだと今日一日ずっと付きまとわれるのではないかと想像した。
いや、でもこんな可愛いことなら……いやいや!
少し欲望に傾きかけた心を中庸へと引き戻す。
言葉のマシンガンをこれ以上受け続けるのは体力的に絶対無理だろ!?
「どこでもいいでしょ」
「じゃあ、あそこのファーストフードでいいですか?」
一応、否定の意味で言ったんだが……
真葛としては突き離した感じで、自分がどこで食おうがいいでしょ、といった感じで言ったはずなのだが、夕陰は別の意味で取ったらしい。
「あぁ、もういいです……」
夕陰のペースに乗せられていると、今更ながらに思ったが、結構遅すぎた。
「早く行きましょうよ」
グイグイと夕陰は真葛の腕を引っ張る。何だか恋人同士のような気分であった。少し顔がニヤケてしまうが、すぐに気を引き締める。
何を考えてるんだか、もう……
腰を上げたためか、夕陰が真葛の腕を離したので、その腕で自らの頭を戒めるように軽く叩いた。
「ふふふっ、真葛さんってホントに……」
急に途切れる夕陰の声。おそらく面白いと続いたのであろうと思う。しかし、確認のしようはなかった。
えっ……
少し前まで目の前には夕陰が立っていた。
しかし、今は誰もいない。
えっ……
その間、数十秒。
全てがいきなり過ぎた。頭の中で何が起こったのか理解ができなかった。
まず、最初に起こったことは急に人波からふらついた男性が出てきたと思ったら夕陰に抱きつこうとした。瞬時に危ない、と思い、身体を動かそうと
した真葛であったが、動けなかった。いや、ちゃんと言えば動かずとも済ん
だといった方が正しいであろう。
なぜなら第二に起こった、これまた急に現れた自転車に乗ったフード付きパーカーを着た人が抱きつく人を轢いたのである。この状況を真葛はよくわからなかったが、これで助かったと思ったら今度はそのフードを被った人が夕陰に襲いかかろうとした。安心していた真葛は慌てて止めに入ろうとするが、空振りとなる。
第三に起こった、今度で三度、急に真っ赤なバイクが来たと思ったら乗っていた全身バイクとほぼ同系色の真っ赤なライダースーツに同色のフルフェイスのメットを被った人が夕陰に近付く自転車に乗る人をぶん殴ったのである。
何だこれは、と思っていたら最後に前者の二人と同じように夕陰に近づこうとしたバイクの人をまたまた急に現れたバンが轢くと、その中から鬼のお面を被った人が出てきて、呆然と立ち尽くしていた夕陰の身体を両手で掴み、そのまま車に引きずり込んでしまった。
えっ!?
そして、スライドドアをバタンと勢いよく閉めると、急発進していった。
短い間に子のようにいろんなことが起こり過ぎた。
「えぇぇぇぇっー!?」
意味がわからなかった。
何がどうしてこうなったのか、真葛には全然理解できなかった。
これってどういうことですか!?
ガシガシと後頭部を掻く。
先程まで目の前にいたのは、真葛に微笑みを向けていただいぶ元気が有り余っていた可愛らしい少女。
しかし、今現在、目の前にいるというか、転がっているのは三つの他人。それぞれ痛めた箇所を押さえながら呻いている。
何なんだ、これは……
相手は車なので追おうとしても足のない真葛にはどうしようもない。なので冷静に今の状況を整理することにした。
うん、冷静になろう。冷静に。
と自己暗示をした後に、真葛が最初にしたのは目の前で未だ呻いている奴らに話を聞くことであった。
「おーい、起きろぉ」
バシバシと容赦なくそれぞれの人の頬を叩く。
夕陰を襲おうとしたんだからこれぐらい大丈夫でしょ。
ということらしい。流れ作業で三人を起こし、話を聞く。名前など面倒なので、大まかに〈彼女のことを知っているのか〉〈なぜ、襲ってきたのか〉〈最後にやってきた奴らのことを知っているか〉だけを聞くことにした。野郎の名前など知りたくもない。
まず、一人目。徒歩で襲ってきた奴。だいぶ粋がっている。
「彼女のことなんて知らねぇよ。あぁ!? 襲ってねぇよ。ただ顔がよかったんで思わず抱きつこうとしただけだよ! 車できた奴ら!? 知らねぇって言ってんだろ! 俺はこいつのせいでのびてたんだからよ!」
と、最後に隣でおどおどしている長髪の男を指さす。
顔がよかったら抱きつくって意味わからないから。それに知らない人に抱きつこうとした時点で襲うっていう単語は適切だと思いますよ、お兄さん。
次に、二人目。自転車で襲ってきた奴。見た感じ挙動不審であった。
「か、彼女は、い、今、駆け出し中のア、アイドルの夕たんだよ! 誰それって、有名人じゃないか! SVEN×N24のリーダーだよ! これだから素人は。朝から夜まで私たちはみんなのアイドルだよ、ってことでSEVENとELEVENで、それを十字にしたときに重なるVと二つの頭文字と最後の文字、それに加えて24時間という意味をさらに重ねたことで……えっ!? 説明なんかしなくてもいいって!? そんな馬鹿なことを……! わ、わかったよ。だからこの人が襲おうとしてたから助けてあげて、その代わりに抱きつこうとしただけだよ! ぼ、僕もこのバイクがなんかしてきたから知らないよ!」
ちらりと怒気を含んだ視線を隣に立つ赤ずくめのバイク乗りに向けた。それよりもこの男は結構、重要なことを言ってきた気がした。どうやら夕陰はアイドルらしく、そして彼はその追っかけらしい。それも極度の。
へぇ、そうかい。それよりも、それよりも……助けた代わりに抱きつくって同じじゃないか!
夕陰が有名人だったという事実よりも狙いが一緒だったことに驚いてしまった真葛であった。
そして、最後に三人目。バイクで襲ってきた奴。全身、赤ずくめなので何も読み取ることができないので、何だか一番怪しい気がした。
「私は彼女のことを知っている。襲ってきたという言葉は不適切である。私は彼女を守ろうとしただけだ。最後に襲ってきた連中はおそらく誘拐犯であろう」
機械的な言い方。そして、フルフェイスのメットのせいで声がくぐもっているが、それでも声色が高い感じがした。
「えっと、守るってどういうこと? というかどちらさんで?」
前者の二人はいても意味がないようなのでさっさとご退散願い、今は赤バイクと対面している。
「どちらさんというのは私がどういった立場なのかを聞いているのか」
はい、と真葛が頷くと、赤バイクはおもむろにフルフェイスを取った。
「えっ!?」
真葛は無機質な赤いヘルメットの中から出てきた顔に思わず驚きの声を上げてしまった。
「私は彼女の護衛役のナターシャ・グジーだ」
と滑らかな日本語でそう言うと、手を差し出してきたので真葛は「どうも」と唖然とした表情をしながらその手を握った。
フルフェイスから出てきた顔は簡単に言うと、外人の綺麗なお姉さんだった。
碧眼の瞳に高い鼻、ほっそりとした顔立ちに二の腕まで伸びた金髪の髪の毛が張り付いていた。真っ赤な焔をイメージしたようなライダースーツのせいでわからなかったが、よくよく見てみると、胸の膨らみを確認できた。
外人さん、いらっしゃい。
真葛はナターシャの細くしなやかな手を感じながら呆然と彼女の瞳を見るしかできなかった。何だか吸い込まれそうであった。
すると、急にナターシャが女神のような顔を少し顰めたと思ったら無表情で「護衛役なのだから名を告げてはいけないではないか! この馬鹿、ナターシャ!」と言い、握手を解き、両手で自らの頭を叩き始めた。それも握り拳で。それもポカポカといったものではなく、ボカボカと結構な勢いで。
「バカ、バカ、バカ……」
えっと……これはどうしたらいいんだろうか?
未だ殴り続けるナターシャに真葛はどう声をかけたらいいのかわからなかった。
「あの、その、そんなに自分を責めなくても……」
申し訳程度にそう言ってみる。
「いや、ダメだ! 自ら素性を明かしてしまうナターシャは本当にバカです!」
さらに拳に力を入れる。
あぁ、何か面倒だな……
しょうがないので真葛は自分の頭を殴り続けるその両腕を押さえることにしたが、思いの外、力が強く、その勢いを止めるのに数分間を要してしまった。その間、ずっと周りの人から奇異の目で見られてしまった。
「大丈夫ですから! 落ち着いてください! それよりも夕陰の方が大事でしょうに!」
何度目かのその言葉でナターシャははたと気付いたのか、殴る手を止めた。やっとのことで羞恥心から逃れることができた。もう少しこのままであったならばおそらく不審者か何かで警察を呼ばれてしまっていたかもしれない。
「そうでした。こんなことをしている場合ではなかったです」
何事もなかったようにスッと華麗に立つその姿はモデルのようであった。
「で、夕陰はどういった人なんですかね?」
護衛役といったご大層な人がついているのだから夕陰は相当な人物なのであろう。
あるいは最近のアイドルには護衛役は普通なのかな?
と考えていると、ナターシャは渋い顔をしていた。
やっぱダメかな……
先程の反応を見ていると、おそらく護衛役がすんなりと護衛対象の情報なんてくれるはずがないだろう。
「んんっ……何と言えばいいだろうか……」
漏らす気満々!?
これで護衛役が務まっていたのか疑問に思っててしまう真葛であった。
「夕陰様は陽中グループの令嬢で、趣味でアイドルをやっていらっしゃる方だ」
陽中グループ。食品から保険まで何やらいろんなモノを一手にやっている総合企業だった気がする。
ていうかアイドルが趣味って!? 何とも言えんわ……
なぜか全国にいるアイドル志望の人に謝らなくてはいけない気がしたので真葛は天に向かって両手を合わせた。
「だから攫われちゃったってことかな?」
わかっていたのだが、一応、聞いてみる。
「そうだな」
ナターシャは真葛の言葉にカクンと首を縦に振る。
「ってことはヤバいってことかな?」
この質問で気付くだろうが、冷静になっているようで実際、真葛は急な出来事にテンパっていた。
「そうだな」
先程と同じようにナターシャは頷く。冷静なのか、感受性がないのか、よくわからないが、終始鉄面皮のままのその表情からは感情が読み取れない。
「じゃあ早く助けにいかないと……だよね?」
何だか危機感のない言葉であったが、内心では凄く焦っていた。
ヤバいな。どうすればいいんだ?
「そうだな」
やはり変わらない。
護衛役としてはホントどうであろうか?
そんな思いがよぎったが、聞かないことにした。どうせ意味がないだろうから。
はぁ……どうもいかんね……
ブーブーブー。
「んっ?」
ブーブーブー。
ポケットの中に入っている携帯電話が震え始めた。
こんなときに誰からだ?
少しイラついた気持ちで震える電話を取り出して画面を見る。
〈着信 陽中夕陰〉
!?
「もしもし!」
すぐに出た。その慌てようを見て、ナターシャがその鉄面皮を少し驚きに歪めながら近付いてきた。
(もしもし)
ご丁寧にそう返してきた声は妙にくぐもった低いものであった。
「誰だ?」
誰が聞いても男の声だとわかるものであった。ということは夕陰を攫った犯人が夕陰の携帯を使って電話をしてきたのであろう。
(誰だとはまた冷たい言いようだな)
声に嘲りが含まれていた。
「私に代われ」
隣から真葛の携帯を奪おうとしているナターシャをどうにか押さえる。
「夕陰はどうした?」
怒気を含んだ声で真葛は聞く。隣では未だに「私に代われ。私に代われ」と連呼している。真葛はナターシャがそう言うたびにその額をペチペチと叩く。それに対して、ナターシャは怪訝な顔をするが、特に何か言わないというか「私に代われ」としか言わないので、やめなかった。あと後よく考えてみると、少し馴れ馴れしかったかもしれなかったが、そのときには気付きもしなかった。
(まぁまぁ大丈夫だよ。それよりも要求があるんだが、大丈夫か?)
んっ?
「あぁ、大丈夫だ」
何かおかしい気がしたが、話を続ける。
(それなら言うぞ)
「あっ……あぁ」
(要求は……)
「お、おう……」
(一千万!)
「……」
何だか犯人につられて、真葛もどこか緊張した感じになってしまった。
(何だ、ちゃんと聞こえたのか? もう一度言うぞ)
「いや!? 聞こえました、聞こえました。しっ! かりと聞こえました!」
何度も聞かなくてもわかることである。
一千万って……
何とも微妙な金額である。いや、一千万と言っても実際、目のあたりにす
れば結構な金額である。しかし、夕陰は曲がりなりにも金を持っている家系のはずである。それを誘拐という犯罪まで犯しておいて一千万円はないだろうと思ってしまう。
というかその前に……
「あのぉ……一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
(何だ? 私の名前は名乗らないぞ)
そんなこと始めっから無理だってわかっていますから。
「そういう要求っていうものは普通、親にするものではないでしょうか?」
夕陰が危険な状況であるのは十分理解していた。しかし、真葛としてはこれだけは聞いておかないと気が済まなかった。
(親の連絡先がわからん)
「えっ!?」
(電話帳が満杯でそのうえその全員がニックネームで登録されててそいつら
に電話をかけても満足に相手してくれなくてな……それで調べているうちにお前の名前があって、しっかりとフルネームの奴なら相手をしてくれると思ってお前にかけた)
かけたという言葉にはおそらく電話をかけたという意味と真葛に何かしら期待をかけたという意味だろう。
というか他の奴ら冷た過ぎだろ。もっと温かい心を持とうよ。
とその知らない誰かさんに向かって願望を述べてみる。
「はぁ……」
(ちゃんと最初から話を聞いてくれたお前なら何かできるだろ? いや、やってくれるはずだろ?)
そう言われても……
「どうしようもないですよ」
しっかりと下調べしとけよ!
と、犯罪計画について難癖をつけるのは不謹慎であろうが、そう思わずにはいられなかった。
(どうにかしろよ!)
逆切れされてもしょうがないんですけど……
(有り金……有り金全部持ってこい! 銀行からおろしてこい! 親から金借りてこい!)
最後の方はもう懇願する感じであった。何だか可哀そうに思えてきたので一応、真葛は財布の中を確認してみた。残念ながら家出同然で実家を出たので親には頼れなく、また通帳には数年前から0の文字しか印字されていない。
「えっと……千円が一枚に五百円が二枚、百円が三枚に十円が……」
(もういい……)
電話越しでもわかるほどその声には同情の響きが含まれていた。
「私が出そう」
財布の中を見るために携帯電話を肩で支えていたため、ナターシャに奪われてしまった。
「お、おい!?」
と慌てて電話を取り返そうとしてももう無理であった。真葛が電話に手を伸ばしてもナターシャはそれをスウェーバックやダッキングで何なくかわすのであった。
「私はナターシャ。ナターシャ・グジー。夕陰様の護衛役だ」
おそらく犯人からお前は誰だ、とか何とか言われたのであろう。根が素直なのかあるいは単なる馬鹿なのかわからないが、先程と同じようにきっちりと名乗っていた。そして、やはり先程と同じく、名乗ってしまったことにはたと気付いたナターシャは再び「バカ、バカ、バカ……」と連呼しながら自らの頭を叩き始めた。
「いや! 今のはナシで!」
ナターシャが自らを責めている隙に電話を奪い返した真葛は電話口に出るなりそう言い放った。仲間内やゲームの中ならばそれで済むことであろうが、今の状況は現実である。そうそう簡単にキャンセルできるはずがない。
(そうか……そうなのか。じゃあそいつに頼めばこいつの親に連絡を繋げることができるのか)
どうやら一人言のようである。
丸聞こえだよ……
(おい! さっきの奴に代われ)
「あっと、でも……」
(いいから代われ!)
仕方なく真葛は未だ自らを殴り続けるナターシャをなだめながら電話にどうにか出すことに成功した。
「いや、知らない。私は夕陰様にだけに仕える身。依頼者とは何の連絡法も持ち合わせていない」
「えっ!?」
知らないのかい!?
意外な答えであった。真葛も横で聞いていて驚いてしまった。
一瞬の間の後、ナターシャは、
「代われと言われた」
と言うと、渋々と携帯電話を差し出てきたので、真葛はそれを受け取り電話に出ることにした。
「もしもし」
(ど、どうするか?)
おそらく相手もナターシャの答えに驚いているのであろう。ナターシャが答えた後の一瞬の間と今の言葉が何よりの証拠である。
「どうするって言われても……どうしようもないよね」
誘拐犯の質問に応える義理はないのだが、何となく電話越しでしかわからないのだが親近感を覚えてしまい、真剣に考えることにした。
(そんな……)
今にも泣きそうな声でそう言ってきた。どうやら感情の起伏が激しいようである。
「やっぱ素直に夕陰を返した方がいいんじゃないかな?」
(で、でも……)
「ほら、だってさ。攫う相手の親の連絡先は調べてないし、だからって携帯の電話帳に載ってる人に片っ端からかけて、それでうまくいかなかったからって名前のわかる人に運命をかけるなんてど素人過ぎるでしょ?」
誘拐犯に素人も玄人もないだろうが、計画の杜撰さに説教染みてしまった。
(はい……)
何か相手さん、落ち込んでる!?
「いや、ごめん、言い過ぎたよ」
(あ、あぁ……)
「だからさ。今日は誘拐失敗だってことで夕陰を返そうよ」
(しかし!?)
「もうゲームオーバーなのにまだ続ける気?」
真葛も少しノッてきてしまったようで、自分が何を言っているのか考えずに思いついた言葉を次々に吐き出していった。
(んんっ……)
「ゲームオーバーの後はまた最初からさ。最近のモノのように途中でセーブはできないゲームだからね」
(そう、そうだな)
「また今度、最初からリスタートすればいいさ」
(そうだな!)
「だから今回は夕陰を返そうよ」
(あぁ! わかった。すぐに行く!)
と言うと、相手は勢いよく電話を切った。
「どうなったのだ?」
怪訝な表情を浮かべたナターシャが聞いてきた。真葛に再度、電話を奪われたときからずっと蚊帳の外であり、傍から真葛の言葉だけを聞いているだけでは今の状況を理解できなかったのだろう。
「帰ってくるよ。どうにか説得できたかな」
満足げに真葛はそう言う。
「しかし、ゲームがどうとかまた今度とかよくわからない言葉が聞こえてきたのだが?」
怪訝な表情のままズイッと顔を近づけてきた。
「まぁ、大丈夫だから待っていなよ」
ナターシャの端整な顔が近付いてきたので緊張しながらも冷静を装ってそう答えた。ナターシャは真葛のその言葉を聞いてもなお、何か言いたそうにしていたのだが、これ以上聞いてもしょうがないとわかったのか、何も言わずに直立不動の体勢を取ったので素直に従うことにしたようだ。
そして、数分後。
かなりのスピードで先程、夕陰を最後に攫ったバンが近くで勢い良く止まった。
「あっ! ナタどうしたの?」
にこやかにバンから出てきた夕陰はナターシャを見るとそう言った。
「お怪我は!?」
急に取り乱し始めたナターシャは夕陰の傍に駆け寄ると、身体の隅々までチャックし始めた。
「大丈夫だよ、ナタ。結構、タマちゃんとナグやんと話してて楽しかったし」
何とも暢気なものである。どうやら何もされなかったらしく、ナターシャはホッと胸をなで下ろしていた。
「「どうも」」
夕陰の後に続いて二人の男が現れた。
「えっと……先程の電話の方で?」
最初に出てきた長髪の細い男が真葛にそう問いかけてきた。すると、急に
夕陰が、
「タマちゃんだよ」
と横から割って入ってきた。
「玉井です」
とタマちゃんこと玉井が頭を下げる。
「で、こっちがナグやん」
「南雲です」
運転席の方から出てきた小太りの青年がナグやんこと南雲と言うらしい。真葛としてはどうでもよい事項であった。
「ホントすいませんでした。先程の電話の件は」
玉井はそう言うと、再度頭を下げてきた。
「いや、大丈夫だよ」
というか謝るところ違うだろ!?
という叫びは心の中にしまっておくことにした。
「まぁ、大変だったな」
何が大変なのか真葛自身よくわからないが、一通り終わってしまったような気がして気まずい雰囲気になったので話を繋ぐためにもそんなことを口走ってしまっていた。
「はい」
普通に応えてきた。何だこいつは、と思った矢先、意を決したかのように玉井たち二人は頭を下げると「これで失礼します」と言ってバンに戻ろうとした。
「お、おい!?」
と、何か言おうとしたところ、それと同時に、
「言い忘れてました」
と、玉井が振り向いてきたので、言う機会を失くしてしまった。
「今度は相手の住所や電話番号などしっかりと下調べをしてから犯行に及びます。次はちゃんとうまくエンディングまで行きたいと思います」
と言うと、そうそうにバンに乗り込み、走り去ってしまった。
何だか嵐のようだった。
走り去ったバンの後ろ姿を眺めながら思った最初の感想はそんなものであった。
ていうかリスタートの意味、履き違えてる!
これが最後に言われた言葉についてよく考えてみた結果の次の感想。
ていうか暢気!?
そして、隣で無表情で立ち尽くすナターシャと共にはしゃぐ夕陰の姿を見
ての感想。
そして、最後はいつものように一言。
はぁ……疲れた。