軍の影
港の近くの新しい店を確かめに行った。リタと二人、倉庫街の裏手を抜けて港沿いの通りに出た。
店はすぐにわかった。小さな間口。看板は新しいが、文字が擦れている。わざと古びた印象をつけたのだろう。手慣れた偽装だ。
だが、店に近づく前に——足が止まった。
「ノル殿。少しお時間をいただきたい」
右斜め後ろから声がした。振り返ると、灰色の外套を着た男が立っていた。三十代半ば。背筋がまっすぐで、目線の配り方が普通じゃない。周囲の動線を把握しながら、おれとリタだけを見ている。冒険者でも遺物商でもない。
ゴルツが言っていた「うろつく連中」。こいつか。
「……誰だ」
「場所を変えましょう。ここでは目立ちます」
名乗らなかった。リタがおれの袖を引いた。小声で「ノルさん、この人——」と言いかけたが、おれは首を振った。
危険な匂いはしない。だが油断していい相手でもない。
港から二本入った路地の茶屋に案内された。窓がなく、奥まった席。通りからは見えない。潮の匂いがここまでは届かず、代わりに茶葉の渋い香りが漂っている。男が茶を二つ頼み、リタの分も加えて三つにした。気が利くのか、監視対象を逃がさないためか。
リタは隣に座って背筋を伸ばしている。冒険者の癖だろう、退路を確認するように一度だけ入口を振り返った。
「わたしの名前は重要ではありません。——軍情報部の者です」
茶が運ばれてくる前に、男はそう言った。声に抑揚がない。訓練された話し方だ。
「偽造鑑定書の件で動いておられますね。我々も同じ案件を追っています」
「追っているなら、さっさと捕まえろ」
「実行犯の確保は容易です。しかし——末端を摘んでも構造は残る」
男が卓の上に薄い紙を一枚置いた。走り書きの図。デルガを中心に、複数の矢印が放射状に伸びている。矢印の先には都市名らしき記号。
「偽造鑑定書の背後に、国外の遺物収集組織が関与しています。反宗教国家の外に拠点を持つ連中です」
「……外?」
「ノル殿が摘発に関わった密売組織——あの上に、さらに組織がある。ヴィクト殿が扱っていた流通ルートは、末端の一つに過ぎません」
ヴィクトの組織が末端。あの規模の密売を、末端の一つとして運用できる組織。頭の中で構図が広がっていく。バルドが言っていた「空白の椅子」は、おれが思っていたより遥かに大きな椅子だ。
隣でリタの喉が鳴った。
「それで、おれに何を求めている」
「非公式の鑑定協力です。国外勢力が集めている遺物の危険性を評価していただきたい。——あなたの鑑定の腕は、軍も認めています」
おれは茶碗を置いた。
「おれを利用する気か」
「協力です」
「協力も利用も、おれの名前を使うことに変わりない」
声が低くなっていた。自分でわかった。
「おれの名前は今、偽造されている最中だ。それを放置しているのも、お前たちか?」
男が一瞬黙った。茶碗を持つ指先が止まった。それだけで十分だ。こいつらは偽造鑑定書の存在を知っていて、泳がせていた。構造を把握するために、おれの名前が汚されるのを黙って見ていた。
「……我々の判断の是非については、申し開きしません」
「正直だな。嘘をつかれるよりましだ」
だが、腹の底に沈んだ怒りは消えなかった。こいつらにとって、おれの名前は使い捨ての印章だ。おれにとっては——おれそのものだ。
茶を一口飲んだ。渋い。
男が懐から布に包んだ品を取り出した。
「一つだけ、鑑定をお願いできますか。この品の出土元を知りたい」
布を開いた。小さな円盤状の部品。直径は親指の爪ほど。表面に微細な回路の痕跡が走っている。
手に取った。指先に触れた瞬間、違和感が走った。
まず重さ。見た目に反して軽い。合金の密度が低い——錫の含有率が通常より少ない。デルガ周辺の精錬技術とは配合が違う。指で表面を滑らせた。ざらつきの質が違う。デルガの合金は潮風で表面が微細に腐食するから、指先に塩気を含んだ粒状の感触が残る。この品にはそれがない。乾いた、粉を吹いたような質感。
表面の酸化被膜を確かめた。灰色がかった青。デルガの海風に晒された遺物なら、緑がかった酸化が出る。この青味は、湿度が低く気温差が大きい環境——内陸の乾燥地帯。
ルーペを目に当てた。回路の痕跡を追った。線の太さが均一で、分岐の角度が鋭い。デルガの遺跡や中層で見る回路とは設計思想が違う。線が太く、分岐が緩やかなデルガ型に対して、これは細く鋭い。効率を優先した設計。無駄な迂回がない。別の文化圏の技術者が作った品だ。
加工痕を確かめた。削り刃の入った角度は18度。デルガ標準の12〜14度より大きい。硬い素材を削るための角度だ。北方の鉱石は硬質のものが多い。円盤の縁を爪で弾いた。硬く澄んだ音。やはり硬質合金だ。
「これは反宗教国家の遺跡からじゃない」
男の目が動いた。
「……北方か。内陸の乾燥地帯。硬質合金の精錬技術と、効率重視の回路設計。デルガとは文化圏が違う」
円盤を卓に置いた。
「北方の遺跡から出た品が、なぜデルガに流れてくる」
「それを調べています。——ノル殿の鑑定は、我々の推測を裏付けました」
男が円盤を布に包み直した。動作に迷いがない。こいつはおれの答えを予想していた。確認のために鑑定させたのだ。
「協力していただけますか」
リタがこちらを見ていた。何か言いかけて、口を閉じた。おれの目を見て、小さく頷いた。
おれは卓の上の茶碗を見た。茶屋の薄暗い空気。茶葉の渋い香りだけが漂っている。
ヴィクトが捕まって終わったと思っていた話が、まだ続いていた。いや、始まってすらいなかった。
「……考える」
男は頷いた。それ以上は求めなかった。立ち上がる前に、卓の上の走り書きの図を回収し、懐に戻した。証拠を残さない。手慣れている。
茶屋を出ると、午後の日差しが眩しかった。潮の匂いが戻ってくる。リタが横を歩いている。何か言いたそうな顔だが、おれが黙っているので黙っている。一年前なら、もう三回は話しかけていた。
坂道の途中で、リタが口を開いた。
「ノルさん。さっきの鑑定——北方ってすぐわかったんですか」
「酸化被膜の色と削り角度を見れば、産地は絞れる。面倒なのは、なぜ北方の品がここにあるかだ」
「……面倒、ですね」
「ああ。面倒だ」
港が見えた。サクヴァラの商船。その向こうに、水平線。水平線の先に、おれが知らない遺跡がある。おれの名前を道具にしている連中が、そこにいる。
面倒だ。だが——おれの鑑定の腕が、この街の外にまで届いているなら。
ルーペを懐に戻した。指先に、さっきの円盤の乾いた感触がまだ残っていた。




