05話 残された旦那のあせり
マナ・パンポット……浮気性でマフィアの旦那に愛想を尽かし、家を出る。ナイフさばきが上手い。旧姓マーメルを使うことにした。
メリメオン……仮名。パンポット家の物置小屋に監禁されていた、謎の少年。橙色の髪に、透き通るような白い肌。
ジェイミー・ジュースカジュー……マナの昔の男。出所したてのマフィアで、銃の達人。メリメオンに足を刺され負傷。
ピラドス・パンポット……表向きは建設会社の社長。裏の顔はマフィアのボス。
バンズばあや……パンポット家の有能な使用人。
その日の昼頃……。
パンポット邸では、マナとの喧嘩の後、寝直したピラドスがようやく目を覚まし、居間へ下りてきた。
昨夜はよほど遅くまで〝働いた〟ようだ。
「朝飯!」
偉そうに命じるピラドス。
バンズばあやは間髪入れずにトーストやスープ、コーヒーなどを食卓に並べ、
「どうぞ。昼食でございますが」
バンズばあやの頭の中には、ピラドスが起きる時刻や、起きてすぐに食事をほしがる生活習慣は入っていた。
そして出されたものを目の前にして、ある不満を述べるという予想もついていた。
「おい。ばあさん。マーマレードはどうした?」
「ちょうど切らしておりまして」
「何だと……」
ピラドスはルーティーンに厳しい男で、特にその日最初に食べる物は毎日同じでなければ、一日中機嫌が悪くなる。
中でもジャムに関するこだわりは強い。
イチゴジャムでも駄目だし、ブルーベリージャムでも駄目。
チョコやバターなんて、もってのほかだった。
長年この家で働いているバンズばあやだけあって、それくらいのことは承知している。
「これでよろしければ……」
ばあやは、マーマレードの入った瓶を差し出した。
「なんだ、あるじゃねえか」
鼻唄をうたいながらジャムを塗ったピラドス。
彼の機嫌がよかったのは、ここまでだった。
トーストをひとかじりした途端、
「何だ、これは!」
ピラドスはトーストを投げ捨てた。
決して不味かったわけではない。
不味くはないが、口に合わなかったのだ。
要するに、
(いつもと味が違う!)
口の中に残る味をコーヒーで消してから、ピラドスはバンズを詰める。
「いつものマーマレードは?」
「ちょうど切らしておりまして」
「今すぐ買いに行け!」
「おやまあ。お忘れですか? あれは奥様がみずからこしらえたものでございますよ。ちなみに、今日の分はわたくしが作りました」
マナは旦那の好みにもとづいて、定期的にマーマレード作りをしていた。
砂糖は少なめにして甘すぎず、意識しなければわからない程度にほろ苦さを持たせ、皮の食感はあえて残す。
その味は、優秀な使用人たちでさえ再現不可能。
マナには料理の才能があった。
「じゃあ、さっさとマナに作らせろ」
「おやまあ。お忘れですか? あなたが追い出したではございませんか」
「う……」
寝ぼけた頭が一気に覚醒する。
ばあやの言う通り。
彼は妻を、
「出ていけ」
のたった一言で追放してしまったのだ。
(しまった……俺はなんてことを……)
ピラドスは心から後悔した。
ただし、そこに愛情などひとかけらもない。
(マーマレードの予備がある時に追い出せばよかった……)
どこまでも自分勝手な男だった。
(まあいい。今回の仕事を終えれば、どさっと報酬が手に入るんだ。その金で好きな物を何でも買ってやると言えば、あいつも機嫌を直して、いつものように帰ってくるだろう)
その仕事はすでに大半を終えている。
残すは依頼品を先方へ引き渡すだけ。
(そうだ)
ふと思いついて、ピラドスは物置小屋へ向かった。
今朝、帰宅するや、小屋の中へ〝品物〟を保管しておいたのだが、その際、見張りはつけておかなかった。
いや、つけておこうかとも考えたが、屋敷に入った途端、夫婦喧嘩が発生。
苛立ちのあまり、そんなことすっかり忘れて、ふて寝してしまった。
(一応確認しておこう)
そして、何か問題があれば仲間を呼び寄せ、見張りに立てようと考えたわけだ。
そう計画しているピラドスには、すでに大事なそれが消失しているという発想などまるでなかった。
だから、彼が物置小屋を開けた時、そこに置いたはずのものがなくなっているのを発見して、
「……っ……!」
絶句したのは当然のことだった。
しばらくの間、ピラドスはがらんとした檻の前で立ち尽くしていたが、
(こうはしちゃいられねえぞ!)
すぐに動き出した。
(もしかしたら使用人の誰かが移動したのかも……)
という淡い期待を持って聞き取りをおこなったわけだが、
「物置小屋……? 今朝は使っておりませんね。何かお探しですか?」
「い、いや……別に……」
「はあ……」
誰も何も知らない。
ピラドスは頭を抱えた。
決して、金や信用をうしなうことに対する落胆ではない。
(あれをなくしたら、俺は……い、命がねえぞ……)
* *
(潮の香りだ……)
ピラドスが嘆いているのと同時刻。
海原を進む蒸気船の甲板に、マナとメリメオンの姿が見受けられる。
あの後……。
マナは港で馬車をおり、御者にたっぷりと謝礼を支払った。
幸い、数分後に出る船があった。
出向直前のため乗船券が値下がりしていたとは言え、バンズばあやが鞄の中へお金を入れてくれていなければ、手が出せなかった。
(ばあや。ありがとうね)
しみじみ感謝した。
旦那。
マフィア組織。
昔の恋人。
過去の様々なしがらみを、たった一日で――より正確に表現すると、たった数時間で――断ち切ることに成功した。
ようやくマナがほっとできたのは船の上だった。
(船に乗るのはいつぶりだっけ……)
どこまでも気持ちよく晴れた青空の下。
湿り気を帯びた海風がマナにぶつかる。
身も凍るような寒さだが、これがなぜか心地いい。
都会に吹くただ冷たいだけの風とは違う、厳しいけれど、どこか優しい風。
「……っ!」
船が揺れ、小さな少年、メリメオンがよろける。
マナはそれを支えてやりながら、
「ごらんよ、メリメオン」
「……?」
「カモメがいるだろ。ずっと船についてきてる。あいつら、人間が餌を投げてくれるのを期待してるんだよ。ほら。これを投げておやり」
メリメオンに渡したのは、港で購入した茶菓子。
人が食べてもいいし、カモメの餌にしてもいい。
いずれの用途にせよ、船旅のお供に最適だということで人気の商品だった。
メリメオンは茶菓子からカモメへと視線を動かす。
おそらく、この子にとって、
(初めて見る景色がいっぱいなんだろうな)
あたたかく見守るマナの前で、メリメオンは茶菓子を投げた。
非力な子供なので飛距離こそ大したことはないが、カモメは意地汚く食いついた。
メリメオンは目を大きく開く。
「あはは。どうだい? おもしろいだろう? どんどん投げてみなよ」
マナの提案に、こくりとうなずき、メリメオンは餌やりを繰り返した。
その間も、彼は一言だってしゃべらなかった。
(ゆっくりでいい)
マナはあせらない。
(きっと、大変な目にあったんだろう。ゆっくり自分の心を取り戻せばいいんだ。そういう意味じゃ、私と似てるね、この子は)
そうこうするうち、前方に島の遠景が見えてきた。
白い家がたくさん建ち並び、太陽の光を照り返してきらきらと美しい。
緑の山には、点々と橙色が混ざっている。
「みかん畑だよ」
マナはメリメオンに説明する。
「多分もう収穫は始まってるんじゃないかな。ここでとれたみかんはそのまま食べてもおいしいし、マーマレードにしても最高だよ。あんたにもたらふく食べさせてあげるからね」
「……」
「大丈夫。この島は安全だよ。いい人たちがいっぱいいる。私の生まれ故郷なんだ」
マナは期待に胸をふくらませる。
(ここで私たちは生まれ変わるんだ)
メリメオンの小さな手を握りしめながら。




