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02話 檻の中の少年

マナ・パンポット……浮気性でマフィアの旦那に愛想を尽かし、家を出る。ナイフさばきが上手い。


ピラドス・パンポット……表向きは建設会社の社長。裏の顔はマフィア組織のボス。


バンズばあや……パンポット家の使用人。

 言いたいことは山ほどあった。

 恨みつらみを数え始めたら、きりがない。

 そもそも馴れ初めからして、


(騙し討ちだった)


 ピラドスがマナだと知っていたら、マナは決して結婚しなかっただろう。

 裏の顔を伏せ、あくまで、


「真面目に生きてる男」


 という体で、ピラドスはマナに接近した。

 出会いからして卑怯だったわけだ。

 だが、マナはもう抗議をしない。

 どこを直してほしいとか、自分がどうしてほしいとか、そうしたことを主張するつもりは全然なかった。


(無駄なことで体力を消耗したくないからね)


 この夫婦、喧嘩をするのは、これが初めてではない。

 浮気や犯罪といった大きな問題から、いびきがうるさいとか、そろそろ加齢臭がきついとか、自分本位で体を求めてくるなといった比較的小さなことに至るまで、衝突の種は尽きないのだ。

 もちろん、マナは嫌なことがあるたび、はっきりと伝えてきた。


「やめてちょうだい」


 と。

 だが、何も通じない。

 ピラドス・パンポットは性根から腐りきっていた。

 なんせ金のためなら、罪のない人を平気で殺すような男なのだから。

 そうした経緯があったため、マナは万感の想いをこめて、


「さよなら、クソ野郎」


 の一言を放ったわけだ。

 さて。

 玄関を飛び出したマナは、広々とした庭を速足で歩いていた。

 何かに当たり散らかしたくても、そこには色とりどりの花や蝶、小さな蜜蜂、甘い実のなる木といった、かわいいやつらしかいない。

 とても殴ったり踏みにじったりできない。

 普段であれば眺めているだけで癒しになる存在だが、今は目をそらさずにいられなかった。


(情けないや……)


 急に、マナはしょんぼりした。

 少し冷静になってみると、勢いだけで家を出てしまったため、何も荷物を持っていないし、今後のプランもまるでない。

 どうしようもなく心もとなくなったマナに、


「奥様。こちらをどうぞ」


 と後ろから声をかけてくれたのは、


「バンズばあや。いつの間に……」


 物思いに沈んでいたからだろうか。

 マナはバンズばあやが自分を追いかけてきたことに気がつかなかった。

 そして何よりの驚きは、ばあやの手にマナのバッグが握られていること。


「これを持っていけって?」

「お着替えをご用意しておきました。少ないですが、お金も入れてございます」


 マナが玄関を出てから、まだ1分も経っていない。

 あまりに迅速すぎる。


「ばあや。あなたいったい何者……って、ばあやからお金なんて受け取るわけにいかないよ」

「お気遣い無用でございます」

「そうは言っても……」

「旦那様のお財布から拝借したお金でございますから」

「ばあや!」


 バンズばあやは腰の曲がった白髪の老女。

 いつもにこにこと微笑んでおり、一見すると人畜無害。

 しかし、時に思いきった行動をしてのけ、マナや他の使用人たちを驚かせる。


(こんなに優しくて有能な人が、どうしてうちなんかで働いてるんだろ)


 しかしバンズばあやは過去を語りたがらない女だった。


「奥様。どうせ旦那様のあぶく銭でございます。ほしい物は何でもご購入なさいませ。宿泊は駅前の高級ホテルがよろしいでしょう。憂さ晴らしには贅沢が一番でございます」

「ちょっとやそっとの贅沢じゃ晴らせそうにないよ、この憂さは」

「足りない分はつけ払いなさいませ。翌日になったら旦那様が迎えにいらっしゃいます。その時に支払わせればよいのでございます」

「もう私のことなんて迎えに来ないんじゃない?」

「わたくしめが、それとなくそそのかしますよ」

「ばあや……ありがとうね……」


 妻の家出という家庭の緊急事態にあっても、バンズばあやの年の功は伊達ではない。

 万事、そつなく対処してしまう。

 こうしてマナの表情が少し明るくなった、その時――


「くしゅっ」


 現在、11月。

 季節は冬。

 街を凍てつかせるにはまだ早いが、人に風邪をひかせるには充分な寒さだった。

 バンズばあやは自分の頭を叩き、


「コートをお持ちすればよかった!」


 と自分の不手際を嘆いた。

 が、マナはそれを即座に否定。


「だって、今のは私のくしゃみじゃないよ」

「では、いったい誰の……?」


 ちょうどすぐ近くに小さな物置小屋があった。

 庭仕事の道具を保管しておくところだ。

 が、扉は閉まっているし、バンズばあや以外の使用人は邸内でパンポットの機嫌とりをしているはず。


(浮浪者でも忍びこんだのかな……?)


 おそるおそる覗いてみると……。


「こ……子供!?」


 そこにいたのは一人の少年。

 一目見ただけで、いたずらで侵入したのでも迷いこんだのでもないとわかる。

 なぜなら、その子は檻の中にいるのだから。

 橙色の髪は乱れ、透き通るように白い肌は泥で汚れている。

 暖房ひとつない小屋の中で、薄い服を身にまとっているだけでは、くしゃみも出るだろう。

 即座にマナは、


「あいつの仕業だね……!」


 夫ピラドスが誘拐したものと断定した。

 一方、バンズばあやは首をかしげる。


「はて。旦那様は宝石店へ強盗に入ったとおっしゃっていたはずでございますが」

「身代金目的で宝石店の子をさらって来たのかもしれない。あるいは……」

「あるいは?」

「人身売買さ」


 マナの心に怒りの炎が燃え上がる。

 今までに何度も夫婦喧嘩をして家出をしたが、その都度マナは夫の悪行を許し、家に戻った。

 それは夫が、


「人として越えてはいけない一線を越えない」


 と信じていたからだ。

 ところが、


(とうとう越えやがった)


 ピラドスは人身売買に手を出した。

 しかも、おそらくまだ5歳程度の子供を。

 マナはただちにドレスの袂からナイフを取り出した。

 細くて長い形状のものだ。

 これを鍵穴へ差しこみ、左右にがちゃがちゃと回転させると、鍵を破壊することができる。


「さあ。出ておいで」

「……」

「どうした?」


 優しく語りかけるマナ。

 だが、子供はすっかりおびえきった様子で、なかなか檻の外へ出ようとしない。

 マナは何とも言えない申しわけなさでいっぱいになった。

 バンズばあやが子供の頭を撫でながら、


「寒さで震えていますね。暖炉にあたらせましょう」

「ダメだ」

「どうしてでございます?」

「あのバカ男に何をされるかわかったもんじゃないだろ」

「では、どうなさいます?」

「ここには置いていけない。私が連れていく。できれば親のもとへ。そうでなくても安全なところまで、ね」

「今回はお帰りが遅くなりそうでございますね」

「ふん。人さらいの家へなんか戻るもんか」


 今度という今度は決してよりを戻さない覚悟だった。

 少年は眉を八の字にし、すがるような瞳でマナを見上げている。

 ひとつも言葉を発しない代わりに、歯がかちかちと音を立てている。

 マナは少年をそっと抱き寄せ、


「さあ、行こう。コートでも何でも買ってやるよ。うちには子供サイズの服はないからね……」


 見知らぬ少年を連れ、去り行こうとするマナ。

 その様子を黙って見ていたバンズばあやだったが、やがてたまりかねたように、


「奥様!」


 叫んで、マナの腕をとった。


「わたくしは娘を亡くしました」

「ばあや……?」

「もう随分と昔のことでございます。悲しみには慣れました。失礼を承知で申し上げますと、今のわたくしはあなたを実の娘のように思っております。そうでなければ、誰があんなけち臭い悪党の家で働きますか」

「ありがとう、ばあや。私もばあやのこと、愛してるよ。本当の親よりもね」

「まあ、まあ。もったいないお言葉です。それより、奥様。よいですか。親子の絆というものは、血では結ばれておりません。心です。心で結ばれているのが親子なのでございますよ。おわかりですか?」

「……ええ」


 マナはバンズばあやを抱き締め、そして、弾けるような笑顔で別れを告げた。


「さよなら、いつまでも元気で」


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