01話 さよなら、クソ野郎
「また朝帰りか……」
マナ・パンポットは、女一人では余裕がありすぎるベッドの上で目を覚ました。
となりには誰もいない。
うるさいいびきをかく男がいないのは快適ではある。
ではあるのだが、同時にどうしようもないほど、
(うんざりする……)
マナの夫は浮気常習犯。
一度や二度でも許されない裏切り行為を、彼はこの十年にもおよぶ結婚生活の中で、どれだけ繰り返してきただろう。
最初のうちこそ、
「仕事が長引いちまったんだ」
とか、
「仲間と酒を飲んでた」
など、もっともらしい言いわけを口にしていたが、女性ものの香水が体にまとわりついていたり、身体中にあざや歯形をつけられたことを忘れ、妻の前で服を脱いでしまったりと、馬鹿みたいな凡ミスを何度も犯してしまった。
当然、マナに浮気を見抜かれ、そのたびに大喧嘩。
そのうち夫は言いわけをしなくなったが、浮気をやめる気配はない。
「はあ……」
溜め息をつき、マナはベッドから出た。
今日も戦争のような喧嘩になるだろうと予感した結果、金色の髪の毛はバンスクリップでまとめ、アップスタイルに。
裾が短めの服を選び、ブーツの紐を締め上げると、
「よっしゃ」
マナは寝室を出て居間へと向かった。
「おはようございます、奥さま」
「おはよう、バンズばあや」
広々として快適なこの家には、住みこみの使用人が数人いる。
その中でも最も経歴が長く、かつ最も頼れる存在がバンズという名の老女だった。
毎朝マナがトーストとコーヒーの香ばしい匂いで目を覚ますことができるのは、バンズばあやのおかげだった。
こういう優秀な使用人を雇っていられるくらいには、パンポット家は裕福だった。
実際、この家は、
「貴族でも住んでいるのか……?」
と呆れられるほどの豪邸だ。
マナの旦那、ピラドス・パンポットは、たった一代で地元の大工から大企業〔パンポット建設〕の社長へと登り詰めた、やり手の経営者だ。
ピラドスは酒で酔うと必ず、
「何が税金だ。何が政治だ。貴族のやつら、自分の家も自分で建てられねえくせに偉そうにしてやがる。あいつらの屋敷も議事堂も、俺が作ったんだよ。俺がこの国を作ったって言っても過言じゃないね。俺が王様だ。ひまざずけ。わははは」
マナに自慢話を聞かせた。
もちろん旦那が、
「稼げる男」
なのは、マナにとって悪いことではない。
が、だからって貞操観念を緩くしていいわけではないのだ。
(今日も乱れた服装で帰ってくるのだろう)
眉間にしわを寄せるマナ。
しかし……
その予感は、バンズばあやが、
「どうぞ」
と渡してくれた新聞に目を通しているうちに形を変えた。
コーヒーのカップを口元まで持ち上げたまま、マナは動かない。
新聞には昨日起こった強盗事件の速報が載っていた。
オヴェン大通りの宝石店へ強盗が入る。
その日、店主は偶然、閉店後も店に留まり
作業にいそしんでいたところ、
扉を蹴破って現れた強盗に殺害された。
心臓をナイフでひと突きにした鮮やかな
手並みから、犯罪に慣れたマフィアの
仕業ではないかと警察は睨んでいる。
犯人は現在も逃亡中。
「おう。帰ったぞ」
どすのきいた、いかにもがらの悪い声が邸内に響いた。
途端に、バンズたち使用人は入り口へ駆けつけ、
「お帰りなさいませ、旦那様」
丁重に挨拶した。
男は雑にコートを脱ぎ、使用人へ投げつけた。
煙草の灰を床に落とし、どすどすと足音を立てて歩く。
オールバックの髪は白いが、太い眉毛は黒く、肌つやもいいため、全体的には若々しい印象がある。
これがこの豪邸の主にして〔パンポット建設〕の社長、ピラドス・パンポットだ。
マナは席から立ち上がらず、じっと夫を見つめる。
(髪にも服にも乱れがある……それどころかシャツには破れもあるし……これは間違いないね……)
妻の視線に気づいたピラドスは苦笑。
「浮気なんてしてねえからな?」
「確かに、あんたは浮気なんてしちゃいないだろうね」
言いつつ、マナは夫の手をぴしゃり。
彼女の朝食――マーマレードを塗ったトーストを勝手に食べようとしたからだ。
「どうしたの、それ?」
マナが指摘したのは、ピラドスの腕。
「ああ、これか。これはな……ちょっと枝に引っかけて破いちまったんだよ」
「枝に引っかかったくらいで、そんな怪我する?」
「う……」
シャツの破れ目から、白い包帯がのぞいている。
たかが擦り傷に対する処置としては大袈裟すぎる。
マナは勢いよく立ち上がり、
「確かに、昨日のあんたは浮気をしちゃいないだろうよ!」
今朝の新聞をピラドスに突きつけた。
「この強盗事件、あんたの仕業だね!?」
「な、何を言いやがる……」
「おおかた、ガラスケースを割った時にでも腕を切ったんだろ」
「……」
マナの追及を受けて、ピラドスの目が泳ぐ。
もごもごと口が動くのは言いわけを考えている証拠だろう。
とは言え……
普通に考えたら、朝帰りしただけで犯罪者扱いされるのは異常だ。
疑われた方も、
「俺じゃない」
と言えば済む話だ。
ところが、この男に限っては、そうした嫌疑をかけられるだけの充分な理由があった。
なぜなら……
「あんたマフィアなんだから!」
マナがピラドスにびしっと指を差す。
そう。
建設会社の社長というのは表の顔に過ぎない。
彼には、マフィアとして様々な悪事に手を染めるという裏の顔があった。
「証拠はあんのかよ!」
がなりたてるピラドス。
マナは言葉で返事する代わりに、ポケットからナイフを取り出し、これを目にもとまらぬ速さで夫の体に突き刺した――いや、突き刺そうとした。
だが、すんでのところで、ピラドスは助かった。
妻と同じく、ポケットから出したナイフで応戦したのだ。
「何しやがんだ、こいつ」
「隙あり!」
「おわっ。おい。やめろ。やめろって。殺す気か!?」
「これが証拠だよ!」
「おぉん!?」
まるでフェンシングでもするかのように、巧みにナイフをあやつり、戦う。
ピラドスは恰幅のいい体型のくせして、妙に動ける。
ただの民間人にこんなことができるはずもない。
マフィアだからだ。
命懸けの〝仕事〟で命を落っことさないよう、マフィアは何かしらの武芸を身につける。
「……チッ」
ピラドスはナイフを投げると、
「ああ。そうだよ。俺が強盗したんだ!」
今度は開き直ってしまった。
細長い目をさらに細くさせて、
「人も殺した! いつものように、部下たちと一緒にな。それの何が悪い?」
「犯罪だろうが!」
「よく考えろ。お前がこんないい暮らしをしてられるのも、俺が汗水垂らして犯罪にいそしんでるからじゃねえか」
「汗水垂らして働いた人たちの稼ぎをかすめ取って、何を偉そうに!」
「おい。いいのか? おれが堅気になっても。これからは隙間風がびゅうびゅう吹きすさぶボロ家で貧乏暮らし。使用人もいなけりゃ、一日三食もおぼつかねえ。服も靴も着の身着のまま。耐えられるか?」
「罪悪感にさいなまれるよりは、よっぽどましかもよ!」
「このクソ女!」
怒りに任せて、とうとうピラドスがマナをぶった。
一切の手加減なし。
本気の平手打ちだった。
「奥様……!」
使用人たちは、さすがにパンポット家の内情を把握している。
彼らのご主人様がマフィア組織のボスであることも知っていた。
そして、こうした夫婦喧嘩の場面にも、何度となく遭遇している。
だが、慣れない。
(いつか奥様は殺されてしまうのではないか……)
と気が気でないのは、マナが使用人たちに愛されているから。
さて、当のマナは微動だにせず立ち尽くしている。
痛みのあまり放心状態?
悲しすぎて心が死んでしまった?
いずれも違う。
「……てやる……」
小声で何かをつぶやいた。
ピラドスが新しい煙草に火をつけながら、妻を睨む。
「あぁ? 何か言ったか?」
「離婚してやる!」
「はっ。だったら、とっとと出ていけ!」
「上等よ!」
マナは荷物も持たず、玄関へ一直線。
家を出る直前……
彼女は、むなしい結婚生活の鬱憤すべてを晴らすかのように、ただ一言だけ叫んだ。
「さよなら、クソ野郎!」




