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「ご本人にお声がけしようか迷ったのですが、もし何か事情があってはいけないと思いまして。
お祖父様の三井さんにお話することも考えたんですが、三井君はお祖父様とは同居されていないようでしたので……どうしたものかと悩みまして。
それで、たまたま今日、大橋先生のところに伺う用事があったものですから、ついでに三井君のことも一応、担任の先生のお耳に入れておいたほうがいいかな?と。差し出がましいとは思ったのですが」
「そういうことでしたか……。わざわざありがとうございます」
完全にではないが、八割方警戒が解けたのか、北條先生の表情が和らいだ。
頭を下げられて、私は慌てて手を振る。
「いえいえ、とんでもないです。この件は三井君の個人的なことですので、大橋先生にもお話しておりません。できれば私がこうしてお話したことも、三井君には伏せておいていただけますと助かります」
「もちろんです。お約束いたします」
と言って、北條先生は確信のこもった瞳で頷いた。
「それで、今後なのですが……ないとは思うんですが、もし三井君が授業中の時間帯にうちの銭湯に来られたら、いかがさせていただきましょうか?学校にご連絡したほうがよいでしょうか」
北條先生は考え込むように目を伏せた。
なだらかな眉の下に、長い睫毛が黒目がちな瞳を縁どっている。清楚な美人だ。
「そうですね……。こちらのアドレスにメールをいただけますか。私のものになります」
差し出されたのは、北條月子と書かれた名刺だった。
「頂戴いたします」
教師も名刺を持っているのか――と、意外に思った。
「ご存知かもしれませんが、三井君のお母様は、今年の一月ごろに亡くなられています」
さすがにリアクションでは嘘をつけず、私は目を見開いた。
「そうでしたか……」
「はい。お母様はもともとお体が弱い方だったそうで……三井君も、お父様から話を聞いて、ある程度は覚悟していたようです。忌引きが明けてからの登校も、無理をしている感じではなく……淡々と日々を過ごしているという印象でした」
今度は私が目を伏せる番だった。
三井君のことがどうしても気になり、調べていた理由が見えてきた気がした。
人が『いなくなる』ことに、その前兆に、私は敏感だ。
なぜなら、大切な家族を二人、突然に喪っているからだ。
父が死んだとき、私は中学三年生だった。
三井君は私より一年早く、お母様を亡くした。
いくら体が弱くても、何度も心の中で覚悟を決めていたとしても、たった一人の母親をそんな若さで喪って、心に傷を負わないはずがない。
「四月に学年が上がってから、月に一、二回、連絡なしに学校を欠席されることがあったので、お父様と一度お話をしました。恐らくお母様のことで心の整理がしたいのだろうということで、しばらく様子を見るようにしています。
ですから、天見さん、もし三井君が銭湯に来られても、そっとしておいていただけますか。
私のほうにご連絡さえいただければ、私からお父様にご報告しますので」
「分かりました。そのようにさせていただきます」
私は頷いた。
生徒の個人的な事情なのに、よくここまで北條先生が話してくれたものだ。
嘘をまじえてしまったことに心は痛むけれど、この情報を得られたのは大きい。
やっぱり三井君を放っておけないと思った、私の直感は当たっていたようだ。
「ありがとうございます」
と言って、北條先生は話題を切り上げようとしたので、私は問いかけた。
「三井君は、クラスでは普通に過ごしておられるんでしょうか」
「……とおっしゃいますと?」
「クラスでの人間関係に、何か問題はありませんか?例えば」
「……それは、どういう意図でお尋ねですか」
突然、北條先生の目元が吊り上がり、切り口上になった。
おおっと、これは地雷踏んじゃったみたいね。
苦笑しつつ、私は単刀直入に尋ねることにした。
「クラスにいじめはなかったのでしょうか、とお尋ねしています」
「ありません」
北條先生は即答した。打ち返すような、硬い声だった。
先ほどまでの友好的な態度は消え、冷ややかな目で私を睨みつけている。
昨今の教師にとって、いじめ問題は急所中の急所だ。
教育委員会に訴えられたり、場合によっては裁判沙汰にもなる。
対応を間違えれば、職を失うことにもつながりかねない。
だから、たとえあったとしても、クラスにいじめがありますと認める教師はほぼいない。
しかも、私のような部外者に対しては尚更だ。
「そうですか、失礼しました。お時間ありがとうございました」
そう言って私は潔く頭を下げ、身を引いた。
北條先生の桜色の唇がわずかに動きかけた。けれど、言葉は空気の中にほどけて消えた。




