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「何だ、篠っちか」
「何だとは何だ。俺みたいな超お得意様を大事にしない店は潰れるぞ」
「はいはい。大人一人、四百二十円ね」
五百円玉を受け取り、八十円を数えていると、篠っちが言った。
「さっきの電話、麻生からだろ」
「また盗み聞き?」
「聞こえたんだよ。本当、口が減らねぇな」
ぶつぶつ文句を言っている篠っちに、私は「ありがとね」と言った。
「何が?」
「ゆみりーを止めてくれて」
篠っちはかすかに目を細める。
「その後、どんな感じ?」
「うん。まあ、元気になったみたいだよ」
多くは語らなかったけど、篠っちは雰囲気で察してくれたようだった。
「……よかったな」
ほっと息をつき、安心したように微笑む。
その横顔に、普段とは違う何かを感じて、私は問いかけた。
「何かあった?」
ぎくりとしたように、篠っちの指先が硬直する。
「お前さ~、メンタリストにでもなれば?マジで」
「ディスってるのか褒めてるのか、よく分かんないんだけど」
「褒めてるんだよ。大学も心理学専攻しようとしてただろ」
「よく覚えてるね。そんなの篠っちに言ったっけ?」
首をひねっていると、篠っちは番台に肘をついて身を乗り出した。
「天見は頭いいんだし、今からでも遅くないだろ。通信制の大学で資格取って、カウンセラーとかさ。向いてると思う」
珍しく真面目な表情だったので、私も冗談で返すのはやめて、少し考えた。
「そうだね。人の心を研究したり、診たりするのは興味ある。今からでも勉強するのは悪くないと思う。でも、カウンセラーにはならない」
「何で?」
「私は松の湯の女将だから。やっぱり、ここが好きなんだよね」
私はロビーを見渡して言った。
古びた灰色のソファーに、ブーンと音を立てているジュースやアイスの入ったクーラーボックス。
本棚に並んだ漫画に大きなテレビ、木の札の入った下駄箱。
何てことのない、どこにでもある田舎の銭湯だ。
でもそれが、私にとってかけがえのない居場所だった。
「ここでみんながくつろいで、ゆっくりお風呂に入って、冷たいものを飲んで、ちょっとお喋りして、そういう感じで過ごしてるのを見るのが好きなんだよね。
病院に行ったりカウンセラーに相談しなくても、ちょっと困ったことがあったら近所の人に話したり、待ち合わせて一緒にテレビ見たり、そういう小さなことで救われることってない?
私がしたいのって、多分それなんだよね。
一日の疲れをお湯で流して、ほっとして――まあ、明日も生きていくかって思える場所。
松の湯がそういう場所になったらいいなって思いながらやってきたし、これからもそうしたい」
篠っちが黙っているので、私は顔の前で手を振った。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるよ。何か……感動してた」
「え、嘘。まさか泣いてる?」
「いや泣かんわ。そこまでではないわ」
ぶったぎりながらも、篠っちの瞳には憧憬が映っているように思えた。
「天見って、誇りを持ってやってるんだな、女将を。めっちゃでかい愛を感じたわ、松の湯への」
「そうかな?普通だと思うけど」
篠っちは眩しそうに目を細めている。
「さてと、来週の薬湯は何にしよっかな。カモミール湯とかどう?美肌効果もあるし」
「何でもいいけど、お前のとこのばあさん、気配なく男湯に現れんのやめてって言ってくれる。幽霊かと思って毎回ビビるんだよ」
「本当に幽霊だったりしてね」
「やめろ。マジでやめろ」
青くなっている篠っちを指さして、私は笑う。
ふわりと風に暖簾がなびき、どこからか花橘の香りがした。
【結実理編・終わり】




