17
天見家の居間のちゃぶ台には、ガラスの器にりんごがむいてあった。
おばあちゃんの部屋はふすまが閉まっていて、電気も消えている。
私は自分の部屋に二人分の布団を敷いた。ちょっと狭いけど寝れなくはない。
枕元にりんごの器と麦茶を並べて、ごろんと横になった。
いつの間にか雨はやんだらしく、水のような月光が差している。
「ごめんね、泊まらせてもらって」
私が貸したTシャツとハーフパンツをはいた結実理は、申し訳なさそうに布団の上で正座して言った。
「いいよ。でも、明日になったら帰ってね」
きっぱりと言うと、結実理は傷ついた瞳をした。
「そう……だよね」
行き場のない子どもの、途方に暮れた表情。
雨に打たれて走っていたときと同じ顔だ。
「迷惑かけてごめんね」
もう一度、結実理は謝った。
「違うよ」
私はあおむけの体勢から横を向いて、結実理の目を見つめて言った。
「颯太君が待ってるからだよ」
結実理の表情が苦しく歪んだ。
うつむき、堪えられないように両手を顔で覆う。
「私は、母親失格だから……。今まで何も母親らしいことできなかったから。専業主婦なのに、子育てもまともにできなかったから……」
「それは、結実理の本音?」
私は問いかけた。
「誰かにそう言い聞かされて、思い込まされただけじゃない?」
「自信がないの。私みたいな人間が、一人で子どもをちゃんと育てられるわけないって」
「私みたいな人間って?」
「一人じゃ何もできない、まともじゃない……。夫は人格破綻者でも、お金はあるし、社会人経験もあるし。そういうの、私はないから。颯太は夫のところにいたほうが、常識とか礼儀とかわきまえた子に育つんじゃないかって」
「……ちょっと、何言ってんのよ」
ぐっと込み上げた感情を押さえながら、私は茶化すように笑った。
「大好きなお母さんをいじめるお父さんと、一緒に暮らしたいと思う子どもがどこにいるの?
お母さんと引き離されたら、今度は颯太君が、結実理がご両親に『我慢しなさい』って言われたときと同じ思いをすることになるんだよ?」
結実理ははっとした。
気づいて。目を覚まして。
私は心の中で呼びかけた。
目隠しをされて、両手足を縛られて、がんじがらめになっていても、本心からの言葉は必ず届くはずだ。
「中学のころからずっと、結実理は私の憧れだったよ。誰にでも優しくて、みんなに好かれてて、かわいいのに全然それを鼻にかけたところもなくて。いつもうらやましかった。
私がクラスでちょっと浮いてたときも、結実理が声をかけてくれたからいじめられずにすんだんだよ。
一人じゃ何もできないなんて、とんでもない。
結実理に会えるから学校に行こう、会社に行こうって思ってた人はきっといっぱいいるよ。
たくさんの人を癒したり、救ってきたんだよ」
結実理は半信半疑というより、三信七疑ぐらいの表情で他人行儀に微笑んだ。
「ありがとう」
今は信じてくれなくても仕方ない。届くまで話し続けようと思った。
「それと、自分の力で得たものは何もないって言ってたけど、それを言うなら私だって一緒だよ? 『松の湯』は私が自力で建てたんじゃないもん、ただ親から引き継いだだけ。
それを言ったら顔も体も全部、自分の力で得たものじゃないよね。
でも、もらったものはもらったものだからこそ、大事にしようって思うよ」
……あれ? ちょっと説教くさくなってない?
しまった、って思った瞬間、横からスースーと寝息が聞こえた。
「って、寝てるんかーい」
小声で言いつつ、私は結実理の胸が呼吸に合わせてゆっくり上下するのを見つめる。
「いっぱい走って疲れたし、いいお湯だったから、今日はよく眠れるよ」
おやすみ。私は目を閉じて呟いた。
華やかな地獄を懸命に生き抜いてきた彼女が、夢の中で少しでも安らげますように。




