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営業時間が終わり、誰もいなくなった女湯に入ると、かかり湯をしてプレーンな白湯に浸かる。
「あー気持ちいい……」
血の巡りが戻って、体の隅々までほどけていく気がする。
広々と手足を伸ばし、疲れた体を温かいお湯が包み込む感覚にうっとりする。
この瞬間のために生きてる──そんな気さえしてしまう。
一日の終わりは誰にでも訪れる。
いい入浴体験をすれば、いい気分で一日を締めくくることができる。
終わりよければ全てよしってこと。
結実理は裸が恥ずかしいのか、タオルを当てたままもじもじしている。
「大丈夫だって、私たちしかいないから。貸切風呂だからね、特別だよ?」
先ほどまで真っ青だった顔も、湯気の中で少しずつ色味を帯びている。
結実理はこくりと頷くと、シャワー台に座って頭を洗い始めた。
私はのんびり浸かった後、週替わりの薬湯に向かう。
今週は菖蒲湯だ。菖蒲の根を乾燥させた漢方に、葉と花も浮かべて彩りを加えている。
リラックス・血行促進・肩こり・腰痛予防・冷え性・筋肉痛・リウマチなど、嬉しい効果がいっぱいのお風呂だ。
しばらくすると、結実理がおずおずと薬湯に入ってきた。
「そこ、段差あるから気をつけて」
「うん」
足を伸ばして、ほっと息をつく。少し緊張が緩んできたみたいだ。
「不思議だね……。体があったまると、心もあったまる気がする」
結実理の声が、ぽーんと高い天井に響く。
誰もいないがらんとした女湯の、古びた天井。黄色やピンクのタイル張りの壁。ベタな富士山の絵。
「泳いでもいいよ」
私は子どもみたいに浴槽の中で手をついて足でお湯を蹴った。
「きゃっ!ちょっと~かかったじゃん」
結実理はころころ笑った。束の間、少女のような笑い声が湯気の中に響く。
けれど、ふと笑いが消えたその頬には、冷えピタの下に赤い痕。
少しだけ、表情が歪んだ。
「痛い?」
「ううん、大丈夫」
そう言うと、結実理はぐるぐる浴槽の中を好きなだけ泳いだ。
「……こんなはずじゃなかったんだけどな」
ぽつりと漏らしたのは、大分経ってからだった。
私は頭にタオルを巻いて、諦めた目をしている結実理を見た。
折れそうに細い鎖骨や首の線と、薄く浮き出た肋骨が痛ましい。
「今まで、手を上げられたことは一度もなかったの。だから我慢するしかないって思ってた。
でも今日はお金を使ってたのがばれて、殴られた。『俺の金を勝手に使うな!!』って。
お金のことが一番キレるって分かってたから、気をつけてたんだけどね」
結実理は力なく笑った。
「毎日毎日、やることなすこと全部否定されて、限界だったんだよね。ビールがぬるいとか、そういう小さなことで『死ね』とか罵倒されたり。『お前は馬鹿で阿呆でつまらない奴だ、妻どころか人間失格だ』って」
「ひどいね」
私は端的に相づちを打った。
「結実理は言い返さないの?」
「言い返しても余計ひどくなるだけだもん。二言目には、お前と結婚したのは間違いだったって言うの。いつでも離婚してやるって脅される」
お湯に浮かべた菖蒲の花を手に取って、結実理は目を閉じて香りを嗅いだ。
そして、ふうっと息をつく。
「それでも文句言われてる間は、まだよかった。今じゃ空気みたいに無視される。声をかけても返事しないし、いるのにいないみたいに扱われる。そしたら、だんだん自分でも自分が存在してるのかしてないのか分からなくなって……辛くて気が狂いそうだった」
「ご両親には相談したの……?」
「うん。でも、我慢しなさいって言われた。夫婦じゃよくあることだからって」
私は目を剥いた。
あの過保護な結実理の両親が?信じられなかった。
「うちの親は世間体が悪いことが大嫌いなの。離婚して出戻りした娘がいるなんて、恥ずかしくて外も歩けないんだって。田舎だから噂が広がるのも早いしね。それが怖くて、自分たちも仮面夫婦だけど離婚してないし」
「そうなんだ……」
私は間の抜けた相づちを打った。
結実理の両親は、裕福で仲のいい夫婦だとばかり思い込んでいた。
「それで分かったんだ。私、誰にも愛されてないんだなって。私のこと、本当に心配してくれる人はいない。
両親が大事に育ててくれたのは知ってる。でもそれは私への愛情じゃなく、不良の娘がいたら世間に恥ずかしいからだったんだって。
結婚してやっと手が離れたから、あとは知らないってそっぽ向かれちゃった」
結実理は吐き出すように言葉をこぼす。
「夫は父から紹介されて、お見合いで出会ったの。結婚するまでは本当に優しかった。私は二十三で、若くて何も知らない小娘だったから、あの人の本性が見抜けなかった。
結婚して態度が豹変して、でもすぐに颯太を妊娠したから、子どもができたら少しはよくなるかなって思ったの。でも、よくなるどころか逆だった。颯太のことも全然かわいがらないし、抱っこもしない、ずっと。私がつわりで苦しんでるときも、外に遊びに出かけて、女子大生とかキャバ嬢と不倫してるし、今も……。
指摘したら逆上して、家じゅうのものを壊しまくったから、それ以来何も言えなくなった」
予想以上に苛酷な夫婦生活で、私は唇を噛んだ。
「とにかく誰かに助けてほしくて、でも誰もいなかった。高校も大学も、表面上の付き合いはあったけど、友達らしい友達って誰もいなかったし。それって私が、何の魅力もないつまらない人間だからなんだよね。だって私の人生で、実力で勝ち得たものって、何もないもん。大学も……」
言いかけて、結実理は口元までお湯につかった。ぶくぶくと口から泡を出している。
「大学も、親に頼んでお金を積んで入れてもらったし、就職もコネだった。結婚も自分じゃ決められないから、結局親の選んだ人と結婚した。ただ流されるだけで、自分の力で得たものは何もない。何の価値もない人生。
だから、自分の人生を自分の手で切り開いてる、ささらちゃんがうらやましかった」
初めて会った日に、結実理は私を憧れだと言った。あれは本音だったのだ。
「セミナーで……ここで人生変わる、って言われたの。馬鹿だよね。
でも、信じたかった。誰かに分かってほしかった。
何十万も払って、その言葉にすがったけど――変わったのは通帳の残高だけだった」
「颯太君は?」
私が言うと、結実理の目にかすかに光が灯る。
「颯太君は、結実理を愛してるんじゃないの?何があっても結実理の味方なんじゃないの?」
少し離れただけで、ママ、ママと泣き叫んでいた子ども。
幼いながらにさまざまなことを感じとり、小さな手で必死に結実理を守ろうとしているのではないだろうか。
結実理はしばらく黙っていると、何かを思い出したように立ち上がった。
「……のぼせちゃったかも。先、上がるね」




