10
受話器の向こうが、戸惑ったように沈黙した。
私は強いて彼を落ちつかせようと、声をひそめて言った。
「事情はよく分かりませんが、大ごとにしたくないんですよね?」
その言葉が響いたのか、疑心暗鬼な雰囲気が少し和らいだ。
『実は……お恥ずかしい話、妻は三日前から行方をくらましておりまして』
私は息を呑んだ。
「お子さんは?颯太君も一緒なんでしょうか」
『いえ、息子は妻の実家に里帰りして、今日戻ってきました。二人で戻ってくるはずだったのが息子だけだったので、妻の両親に問いただしたところ、三日前にこちらに戻っているはずだと』
息子を置いて、実家には「先に家に戻る」と言って出た後、戻らずにどこかへ行った。
それで真っ先に疑ったのが、前回の滞在先であった、ここ松の湯というわけだ。
私は目顔でおばあちゃんに「長くなりそう」と告げた。
おばあちゃんは番台に入ってくれる。
「立ち入ったことをお聞きしますが、結実理さんがいなくなった原因に心当たりはおありですか?
例えば喧嘩したとか」
『いや……』
と言ったきり、桂さんは長い間黙っていた。
これは――確実に何かトラブルがあったらしい。
「結実理さんのご両親は、彼女の行先を知っているんじゃないでしょうか」
とりあえず矛先を変えてみると、ようやく返事が返ってきた。
『いえ、本当に知らないようです。私が妻は戻っていないと言うと、義父母は非常に驚いていました。すぐ警察に届けると言われたんですが、何とか止めまして』
――大ごとにしたくないからね。
話の輪郭がつかめてきて、私は深く頷いた。
結実理は夫の桂さんともめて『家出』した。
結実理の両親は原因を知らない、もしくは薄々知っているかもしれないけど確証はない。
だから桂さんは警察に届けたくない。
届ければ当時の状況をいろいろ聞かれ、結実理とのトラブルを話さざるを得なくなるからだ。
「桂さん。私は結実理さんの友人ですが、口の堅い第三者です。どちらの味方をすることもないので、何があったかお聞かせいただけませんか」
『夫婦のことを、赤の他人に話す筋合いはありません』
再び切り口上で桂さんは言った。
「ですが、結実理さんを探すには、情報が必要です。颯太君も不安でしょうし、結実理のご両親も、いずれは黙っていられなくなるはずです」
中学のころ、何度か結実理の実家で遊んだことがあるけれど、庭つきでグランドピアノがあるような豪邸だった。
結実理の両親は中学生の私から見ても過保護ぎみで、一人っ子の彼女を思う存分甘やかしていた。
『それは脅しですか?』
「脅しではありません。協力を申し出ているだけです」
ごくごく穏やかな口調で私は言った。
「私は結実理さんを心配しています。ですから、彼女の夫であるあなたを脅して金品などを要求する理由がありません」
『銭湯の経営なんて、楽ではないでしょう?』
桂さんは鼻で笑うように言った。
誠実な資産家の仮面がひび割れ、その下から隠しきれない傲慢の影が覗く。
「これは痛いところを突かれましたね。ただ、おかげさまで脅迫を企んでいる時間がないくらいには、お客様に恵まれております。土地と建物は所有しており、抵当にも入っておりません。よろしければ、ぜひお調べください」
てっきり私が食ってかかると思っていたのか、桂さんは拍子抜けしたように黙り込んだ。
『ええと……その……』
返す言葉がないらしい。
金で横っ面をはたき、徹底的に相手をたたきのめせないあたりに育ちのよさが表れている。




