第23話 備考欄
報告書の提出期限が、明日だった。
半期報告書。数字はすべて揃っている。リーネが集計した取引データ、私が照合した在庫管理表、本部への月次報告の集約。一枚の紙に、灰枝支部の半年分が凝縮されている。数字はすべて二重に確認した。リーネの集計と私の集計を突き合わせて、一件の齟齬もない。数字に関しては、完璧だ。
問題は——備考欄だった。
前回の棚卸しの夜、書けなかった。ペンを持って、白い欄を見て、置いた。何を書けばいいかわからなかった。何を書くべきなのか。何を書く資格があるのか。考えれば考えるほど、ペンが重くなった。
今夜、もう一度向き合っている。
リーネはもう帰した。「手伝います」と言ったが、断った。これは私の仕事だ。私の帳簿に、私の言葉を書く。それは誰かに手伝ってもらうことではない。
帰り際、リーネが振り返って言った。「ナタリアさんなら書けます」。根拠のない言葉だ。でも——その根拠のなさが、少しだけ温かかった。
ランプの灯りが、カウンターの上を照らしている。報告書が一枚、ペンが一本、インク壺が一つ。帳簿の棚が壁に沿って並んでいて、三年分の背表紙がランプの光に浮かんでいる。
この棚の中に、灰枝の時間がある。
報告書を広げた。
数字を、もう一度読む。
素材買取件数。前年同期比百七十二パーセント。
越境通行証発行件数。前年同期比四百パーセント。
新規登録者数。前年同期比二百五十パーセント。
デルガからの照会件数。前年同期比二百六十七パーセント。
素材品質の平均値。全品目で上昇傾向。
倉庫在庫の不一致。蔓草三束分(鍵の不正複製による横流しと推定、対処済み)。
闇市の推定規模。正規取引の三割五分。
全部の数字が、同じことを言っている。灰枝は変わっている。辺境の小さな交易拠点が、デルガと内地を結ぶ中継地に変わりつつある。そしてその変化は、正規のギルド機能だけでは制御できなくなりつつある。
数字がそう言っている。
でも数字は——それだけしか言わない。「どうするべきか」は、言わない。
ペンを持った。
備考欄。白い。
三年間、この欄を白いまま提出してきた。数字が正確であれば、それでいいと思っていた。帳簿は事実を記録するもの。解釈は読む人の仕事。書く人が意見を入れたら、帳簿が濁る。そう信じていた。
でも——ヴェルナー査察官は言った。「数字だけの帳簿は、正確だが無口だ」。
リーネは言った。「ナタリアさんが頭の中で考えていることが、帳簿に書いてあったら」。
テオは言った。「帳簿だけじゃ見つけられなかったな」。
フィオナの薬草畑で、赤脈草が育っていた。帳簿には載らない変化が、目の前で起きていた。
そして——テオの足。
帳簿の数字が変化を記録していたのに、私は読み取れなかった。もっと早く気づいていたら。もっと早く——数字の意味を、声に出していたら。
声に出す。
備考欄に書く。
数字の意味を、私の言葉で。
ペンをインクに浸した。
先端に黒い液体が溜まる。インクの匂い。三年間嗅いできた匂いだ。この匂いの中で、何千行もの数字を書いてきた。正確な数字。嘘のない数字。事実だけの数字。
ランプの灯りが揺れた。風が窓の隙間から入ってきたのだ。灯りの揺れに合わせて、帳簿の影が揺れる。棚の背表紙が明滅する。三年分の帳簿が、ランプの光の中で息をしているように見えた。
カウンターの隅に、フィオナがくれた紫蘇草の小袋がある。もう匂いは薄くなっているが、まだかすかに草の香りがする。生きているものの匂い。帳簿のインクの匂いとは、違う匂い。でも——どちらも、灰枝の匂いだ。
——今日、書くのは数字ではない。
ペンの先が紙に触れた。
「灰枝支部の取引量は過去三年で最大を記録した」
書いた。事実。ここまでは事実だ。
「数字の上では成長だが、正規取引比率は低下傾向にある」
これも事実。帳簿と闇市の推定規模のレポートが裏付けている。
「非正規流通の拡大に対し、現行の人員配置と権限では対応に限界がある」
——ここから先は、事実ではない。事実に基づいた、私の判断だ。
手が震えた。ペンの先が紙の上で、かすかに揺れている。
息を吸った。吐いた。
帳簿に自分の意見を書いている。三年間の信念を、この一行で手放そうとしている。帳簿の純粋さを——。
純粋さ。その言葉が頭の中で反響した。帳簿が純粋であることは、本当に大事なことだろうか。純粋な帳簿が棚に並んでいて、誰にも読まれず、誰にも伝わらず、灰枝が変わっていくのを黙って見ているだけの帳簿。それは——純粋なのか。それとも、ただの沈黙なのか。
テオの足が頭にあった。
テオの帳簿を見ていれば、もっと早く気づけた。行動範囲が徐々に奥に移っていること。依頼の難易度が能力に見合わなくなっていること。数字はそれを記録していた。気づいていれば、もっと早く声をかけられた。声をかけていれば——テオは怪我をしなかったかもしれない。
帳簿は正しかった。でも帳簿を読んで、意味を言葉にする人がいなかった。私がいたのに。数字を読んでいたのに。声に出さなかった。
あのときの後悔が、今、ペンを持つ手を動かしている。
もう、黙っていられない。
ペンを走らせた。
「灰枝が今後も冒険者の安全を担保できるギルド支部であり続けるために、以下を具申する。
一、灰枝支部の人員を現行二名から三名に増員すること。倉庫管理と現場巡回の専任が必要である。
二、非正規取引の実態調査を本部主導で実施すること。灰枝支部単独では調査権限に限界がある。
三、デルガ方面との補給協定に関し、本部の監督を強化すること。灰枝を経由する物資の量と種類が増加しており、一支部の判断では対応しきれない規模になりつつある」
書き終えた。
最後の一行を書いたとき、ペンの先が紙の上で少しだけ滑った。インクが微かに滲んだ。帳簿なら書き直すべき滲みだ。でも——これは帳簿の数字ではない。備考欄の所見だ。少しの滲みは、そのままにした。
ペンを置いた。
手が震えていた。右手の指先に、インクの染みがついていた。親指の腹に黒い点。三年間で初めて、ペンを強く握りすぎた証拠だ。
深く息を吐いた。吸った。カウンターの上に置いたペンが、ランプの光を受けて小さく光っている。三年間使ってきたペン。数千行の数字を書いてきたペン。今日、初めて——数字ではない言葉を書いた。
書いたものを読み返した。数字と所見が分かれている。事実の部分は数字で裏付けられていて、所見の部分は「具申する」と明記してある。ヴェルナー査察官が言った通り、数字と意見は混ぜていない。分けて書いてある。
でも——自分の意見が、帳簿の上にある。白い備考欄に、私の字で、私の判断が書かれている。
これで良かったのだろうか。
帳簿を汚したのではないか。三年間の正確さを、主観で穢したのではないか。
わからない。
でも——書いた。書いてしまった。もう消せない。消す気もない。
報告書を封筒に入れた。封をした。蝋を溶かして、封蝋を押した。灰枝支部の印。小さな紋章が、赤い蝋の上に浮かんでいる。
明日の便で本部に届く。三日かかる。三日後、本部の誰かがこの封蝋を割って、報告書を開いて、数字を見て、そして——備考欄を読む。私の声を聞く。
読んだ人が何を思うかはわからない。「正論だ」と思うかもしれない。「大げさだ」と思うかもしれない。「辺境の事務員が何を言っている」と思うかもしれない。
でも——読まれる。それだけは確かだ。白い備考欄は読まれない。でも書かれた備考欄は、読まれる。
三年間、帳簿は無口だった。数字だけが並んでいた。
今日、帳簿が初めて声を出した。私の声で。
窓の外が白み始めていた。夜通し書いていたわけではない。書いたのは数行だ。でも、その数行を書くまでに、何時間もかかった。ペンを持って、置いて、また持って。何度も読み返して、一語ずつ確かめて。
帳簿を棚に戻した。腕が少し重い。でも——胸の中の重さは、昨夜より軽くなっていた。
翌朝、リーネが来た。いつもより少し早い。
「おはようございます、ナタリアさん」
「おはよう」
「報告書、書けましたか」
私は封筒を便箱に入れるところだった。リーネに封筒を見せた。
「……見てもいいですか」
「控えがある。読んで」
リーネが控えを受け取った。数字の部分を流し読みして——備考欄で目が止まった。
目が見開かれた。ゆっくりと、一行ずつ読んでいる。唇が小さく動いている。音読しているのだ。一語ずつ、噛みしめるように。
「ナタリアさん……これ、すごい」
「すごくない。遅すぎたくらい」
「遅くないです。——書いたんですね。備考欄に」
「書いた」
「……良かった」
リーネの目が、少し潤んでいた。なぜこの子が泣きそうになっているのかわからなかったが、その顔を見て、少しだけ安心した。間違っていなかったのかもしれない。少なくとも、この子にとっては意味のあることだったのかもしれない。
封筒を便箱に入れた。蓋を閉めた。
昼過ぎに集荷便が来て、この封筒は灰枝を出る。本部まで三日。返事が来るのは——早くて一週間。遅ければ二週間。
それまでの間、灰枝は変わり続ける。帳簿の数字は増え続ける。闇市は広がり続ける。デルガからの物資は灰枝を通過し続ける。
でも——私の声は、もう発した。備考欄の中で。白い紙の上で。
帳簿は、もう無口ではない。
カウンターに座った。リーネが隣に座った。朝の支部。秤の校正。帳簿を開く。ペンを取る。
今日も灰枝に、誰かが来る。素材か、依頼書か、言い訳か。
私はそれを受け取って、確かめて、正直に帳簿に書く。そして——必要なら、備考欄にも書く。
ペンのインク染みが、まだ指先に残っていた。




