第24話 窓の外
返事は、一週間で届いた。
朝の郵便を開けるのはリーネの仕事になっていた。仕分けて、業務連絡と私信を分けて、私のデスクに置く。毎朝の手順。でも今朝、リーネの手が一通の封筒の前で止まった。
「ナタリアさん。これ——本部からです」
本部の封蝋がついた公文書。分厚い封筒ではなく、薄い一枚の書簡だった。表書きに「灰枝支部副支部長 ナタリア殿」とある。殿。報告書の返信に殿がつくのは珍しい。普通は「ナタリア宛」で済む。殿がつくのは、正式な回答だという意味だ。
リーネがこちらを見ていた。期待と緊張が混ざった目。この子も待っていたのだ。私が備考欄に書いたあの文章が、どこかに届いたのか、それとも届かなかったのか。
封を切った。
「灰枝支部の半期報告書を受理した。備考欄に記載された具申事項について、本部運営会議にて協議の上、対応を検討する。追って正式な通達を発出する」
短い文面だった。だが——「受理した」の三文字に、重さがあった。
受理された。
私の備考欄が、本部の議題に載った。三年間白いままだった欄に書いた言葉が、灰枝を出て、本部に届いて、「受理」された。
報告書を閉じて、棚に戻した。棚には三年分の帳簿が並んでいる。どの背表紙にも私の字で日付が書いてある。同じインク、同じ筆跡。でも一番新しい帳簿の中身だけが、少しだけ違う。備考欄に、私の声が入っている。
「ナタリアさん、何かいいことありました?」
リーネが聞いた。
「どうして?」
「顔が——なんというか、いつもよりちょっとだけ柔らかいです」
「……そう?」
「はい。帳簿を棚に戻すとき、少しだけ笑ってました」
笑っていたのか。自分では気づかなかった。
「本部から返事が来た。報告書の具申が受理された」
「本当ですか」
「うん。これからどうなるかはわからない。でも、少なくとも読まれた」
リーネが嬉しそうに頷いた。この子の頷きは、もう着任初日の頷きとは別物になっている。何に頷いているか、自分でわかっている頷きだ。
午前中は平穏だった。リーネと二人で秤を校正し、帳簿を開き、カウンターの準備を整えた。いつもの朝だ。でも、いつもの朝が少しだけ違って見える。
ヨルさんが蒼苔を持ち込んだ。申告重量と秤の数字が一致した。半年前にはなかったことだ。
「ちゃんと量ってきたぞ」
「ありがとうございます。帳簿が喜んでます」
「帳簿は喜ばないだろ」
「喜びますよ」
ヨルさんが首を傾げて出て行った。リーネが横で小さく笑っていた。
昼前、テオが来た。毎朝の倉庫巡回がテオの日課になっていた。鍵を変えてから在庫の不一致は一度も出ていない。
「今日も問題なしだ。棚の中身は帳簿と全部合ってる」
「ありがとう、テオさん。助かってます」
「礼はいい。——俺も、ここにいる理由ができたからな」
テオが少し照れくさそうに言った。足は完全には治っていないが、倉庫の見回りと在庫管理は立派にやっている。帳簿と現場の両方を見る目。テオがいてくれることで、帳簿の外側が少しだけ見えるようになった。
午後、フィオナが来た。
月に二度の定期納品日だった。いつものように、丁寧に包まれた乾燥薬草と軟膏。カウンターに置かれると、かすかに草の匂いが広がる。リーネが受付を担当した。秤に載せ、重量を確認し、帳簿に記入する。リーネの動作はもう滑らかで、迷いがない。
フィオナがリーネの帳簿記入を見て、小さく頷いた。認めるような仕草だった。
「ナタリアの弟子だね」
「弟子じゃないです。後輩です」
「同じでしょ」
「違います」
フィオナが少し笑った。取引が終わった後、フィオナがカウンターに肘をついた。
「ナタリア。何かあった?」
「何が?」
「顔が違う。——いい顔してる」
リーネにも同じことを言われた。そんなに顔に出ているのか。
「ちょっとだけ、帳簿に新しいことを書いた」
「ナタリアが帳簿に書くことは、全部大事なことでしょう」
フィオナの声は穏やかだった。薬草畑で朝露を見ていたときと同じ温度。この人はいつも、静かな声で大事なことを言う。
「……うん。大事なことだった」
「よかった」
フィオナはそれだけ言って、帰っていった。帰り際にリーネに「よろしくね」と声をかけた。リーネが頭を下げた。カウンターに、フィオナが置いていった薬草の匂いが残っていた。紫蘇草と、少しだけ甘い花の匂い。畑の匂い。生きているものの匂い。
夕方、リーネが帰る前に聞いた。
「ナタリアさん」
「うん」
「私もいつか、あんな備考欄が書けるようになりますか」
「書けるようになるよ」
「どうすれば」
「帳簿を読み続けること。数字の向こうにいる人を見ること。それを——言葉にする勇気を持つこと」
「勇気……」
「うん。数字は勇気がなくても書ける。でも備考欄は——自分の名前を賭けて書くものだから。少しだけ勇気がいる」
リーネが静かに頷いた。
「がんばります」
「がんばって」
リーネが帰った後、私は支部に一人で残った。
帳簿を開いた。今日の記録を見直す。全行、正しい。ヨルさんの蒼苔。テオの倉庫報告。フィオナの薬草。数字は全部正確で、嘘はない。
そして——今日の備考欄には、一行書いてある。「本部より半期報告具申受理の通知あり」。事実の記録だ。でも、この一行を書いた私の中には、事実以上のものがある。
三年前の私は、帳簿に嘘は書けない、と言った。今もそう思っている。
でも今の私は、もう一つ知っている。帳簿に書かないことも、一つの嘘になりうる、ということを。数字を正確に記録しながら、その意味を黙っていることは——嘘ではないが、沈黙だ。沈黙が人を傷つけることがある。テオの足が、そう教えてくれた。
帳簿を閉じた。
それから——引き出しから便箋を取り出した。ギルドの便箋ではなく、個人の便箋。少しだけ黄ばんだ紙。買ったのはいつだったか、覚えていない。灰枝に来たばかりの頃、「手紙を書くことがあるかもしれない」と思って買った紙だ。三年間、ほとんど使わなかった。母への返事はギルドの便箋で済ませていたから。
でも今日書く手紙は、ギルドの便箋では書けない。これは業務の手紙ではない。
ペンを取った。
「エリカへ」
書いた。七年以上、書けなかった名前だ。帳簿には何千行も書いてきたのに、この二文字が書けなかった。今日は——書けた。
「お元気ですか。王都の薬学院、おめでとう。教壇に立つと聞きました。
私は辺境のギルド支部で帳簿をつけています。灰枝という小さな町です。冒険者が素材を持ち込んで、私がそれを秤に載せて、数字を書く。そういう毎日です。
薬草のことは、まだ覚えています。学塾で隣に座っていたあなたの手を、今でも時々思い出します。あなたの方が、いつも先に葉を見つけた。私はいつも、一歩遅れて追いかけていた。
私は薬草を育てる人にはなれなかったけれど、薬草を見分ける目は、今の仕事に活きています。素材の品質を五感で判断する能力は、あの教室で培われたものです。
だから——ありがとう。
あなたの隣で学んだ時間は、帳簿の中で生きています」
ペンを置いた。
便箋を読み返した。嘘はない。帳簿に書くのと同じように、正直に書いた。
封をした。今度は——出す。
立ち上がった。カウンターを拭いた。端から端まで。リーネの椅子の位置を確認した。紫蘇草の小袋がまだ匂いを放っている。秤に布をかけた。ランプの芯を絞って、火を消した。
窓の外に、灰枝の夕暮れがあった。
前より少しだけ賑やかになった通り。見知らぬ顔も増えた。道具屋の軒先に、棘鱗の風鈴がいくつか追加されていた。前は一つだけだったのに。灰枝が大きくなっている証拠だ。
鍵を閉めた。
朝、この鍵を開けたとき、椅子は一つだった。三年間ずっと。今は二つ。テオが時々使う椅子を入れれば三つ。
一人で全部を見て、一人で全部を書く時代は終わった。
帳簿は続く。でも、帳簿に書けないことは——言葉にすればいい。備考欄に書けばいい。手紙に書けばいい。声に出せばいい。
石畳を歩いた。封をした手紙が、上着の内ポケットにある。胸の上に、紙の重さがある。便箋一枚と封筒。重さにしたらほとんど何もない。でも——七年分の重さがある。
明日の便で出す。エリカに届くまで、たぶん二週間。返事が来るかはわからない。でも——書いた。出す。それでいい。
帳簿に書けないことは、手紙に書いた。備考欄に書けないことは、エリカへの手紙に書いた。どちらも、自分の言葉で、正直に。
通りの角を曲がったとき、風鈴が鳴った。
一つではなかった。いくつかの風鈴が、それぞれの音で鳴っていた。重なって、少しだけ賑やかな音になった。灰枝が変わっている。風鈴の数が増えたことすら、変化の一つだ。
でも——変わることを、もう怖いとは思わなかった。
帳簿はここにある。ペンもここにある。リーネがいる。テオがいる。フィオナがいる。
そして——備考欄が、開いている。白い欄が、もう怖くない。書けないことはまだたくさんある。でも、書けることが一つ増えた。一つ増えれば、次も書ける。次の次も書ける。
エリカへの手紙を書けたように。
明日は誰が来るかな。
前と同じ問いだった。第一部の終わりにも、同じことを思った。あのときは一人で問いかけていた。今は——リーネが隣にいる。二人で受け取って、二人で確かめて、二人で帳簿に書く。テオが棚の実物を数えてくれる。フィオナが薬草の匂いを届けてくれる。
一人きりの窓だった場所が、少しだけ広くなっていた。窓の外に見える景色は同じ灰枝の通りだ。でも通りを歩く人の数が増えて、屋根の数が増えて、風鈴の数が増えた。帳簿の数字も増えた。そして——帳簿に書く私の言葉も、増えた。
——さて、明日。




