第22話 資材リストの空欄
デルガの紋章が、封蝋に押されていた。
朝一番に届いた公文書。デルガのギルド支部からの正式な連絡だった。本部経由ではなく、灰枝支部宛の直送。珍しい。普通、支部間の連絡は本部を経由する。直送ということは、急いでいるか、本部を通したくないか、そのどちらかだ。
封蝋を割った。紫色の蝋。灰枝で使われている赤い蝋とは違う色だ。
「遺跡調査隊の補給ルートとして灰枝を経由したい。事前協議のため担当者を派遣する。到着は三日後」
私は文面を二度読んだ。遺跡調査隊。デルガの反宗教国家が力を入れている事業だ。帳簿を通じて間接的に知っている——デルガからの照会件数が増えていること、越境通行証の申請が増えていること、灰枝を通過してデルガ方面へ向かう冒険者が増えていること。半年分の帳簿が語ってきた「流れ」の、源流に近い何かが、灰枝にやってくる。
三日後。準備の時間は十分ある。だが——補給協定の交渉は、灰枝支部が単独で受けたことのない案件だ。前例がない。帳簿に前例がないということは、私の中にも前例がない。
「リーネさん、三日後の予定を空けて。デルガから人が来る」
「デルガ? 遺跡調査の関係ですか」
「そう。補給協定の交渉。私たちは——帳簿をきれいにしておいて」
三日後、その人はやってきた。
若い女性だった。二十代半ば。デルガのギルド制服ではなく、調査隊の実務服を着ている。濃紺の上着に革のベルト。腰に帳簿袋を下げていて、その膨らみ具合からして相当な量の書類を持ち歩いている。髪は短く切り揃えてあって、動きに無駄がない。几帳面な人だ、と一目でわかった。
ただし——目の下に薄い隈があった。急いでいる人、あるいは眠れていない人の顔だ。
「灰枝支部副支部長のナタリアさんですね。デルガ遺跡調査隊の補給管理を担当しているキルシェです。よろしくお願いします」
声は落ち着いていたが、少し早口だった。
「よろしくお願いします。こちらは事務員のリーネです」
リーネが頭を下げた。キルシェが軽く頷き返す。社交的な人ではなさそうだ。用件を済ませたい、という空気が全身から出ている。
「早速ですが、補給協定の概要を説明させてください」
キルシェが帳簿袋から書類の束を取り出した。補給計画書、資材リスト、輸送ルート図、人員配置表。整然としたレイアウトで、数字の並びも正確だ。この人は——帳簿の人間だ。私と同じ種類の。
「灰枝を経由する理由は、デルガへの直接ルートが——少し事情があって使いにくくなっているためです。灰枝経由なら街道が安定していて、ギルドの倉庫も利用できる」
「事情、というのは」
「申し訳ありませんが、詳細はお伝えできません。調査隊の運用に関わる情報なので」
キルシェの声が少し硬くなった。踏み込まれたくない場所がある。帳簿を扱っているとわかる——人が言葉を選んでいるとき、その選び方に規則性がある。この人は「事情」という単語を使った。「理由」ではなく「事情」。理由なら説明できるが、事情は説明できない。あるいは、説明したくない。
「わかりました。では、資材リストを確認させてください」
リストを受け取った。品目が並んでいる。食料、水、医療品、工具、照明用具、筆記具——学術調査としては標準的な品目だ。量が多いが、大規模な調査隊ならこの程度は必要だろう。
リーネが横から覗き込んでいた。私はリストの数字を順に追った。食料の量から逆算する。一人あたりの一日分の消費量は規格で決まっている。食料の総量を日数で割ると、人数が推定できる。申告では調査隊は二十名。でもこの食料の量は——三十名以上分ある。
誤差の範囲、とも言える。予備を多めに見積もっているだけかもしれない。でも、予備にしては多い。
ただ——。
「キルシェさん。このリストの十七番目と二十三番目」
「はい」
「十七番目、『密封容器・大型・三十個』。二十三番目、『遮蔽材・厚手・百枚』。用途の欄が空白になっています」
キルシェの表情が、ほんのわずかに変わった。口元がわずかに引き締まる。
「上の判断で、用途は非公開とさせていただいています」
「帳簿上、用途未記載の物資はギルドの倉庫に保管できません。保管規則で定められています」
「——それは」
「ギルド倉庫の在庫管理表には、全品目の品名・数量・用途の記載が必要です。用途が空白の物資を受け入れると、帳簿に穴が開きます。穴が開いた帳簿は、信頼できない帳簿になります」
キルシェが黙った。帳簿袋を持つ手に、少し力が入ったのが見えた。
「全品目の用途記載をお願いします。それが協定の条件です」
「……確認を取らせてください。上に」
「もちろん。お待ちします」
キルシェが奥の事務室で通信書簡を書いている間、私はリーネと二人でリストを精査した。
「ナタリアさん。密封容器三十個って、多くないですか」
「多い。学術調査で密封容器をこの数使うのは——試料の保存か、あるいは何かを封じ込めるため」
「遮蔽材も。百枚って、壁一面覆えるくらいの量ですよね」
「うん。何かを——外から見えないようにするか、中から漏れないようにするか」
リーネと目が合った。二人とも、同じことを考えていた。
一時間後、キルシェが戻ってきた。
「上の許可が出ました。全品目の用途を記載します」
キルシェが書き直したリストを差し出した。十七番目の密封容器の用途欄には「遺跡内採取試料の保存・輸送用」。二十三番目の遮蔽材には「調査区画の環境制御用」。
言葉自体は学術調査の範囲に収まっている。だが——「遺跡内採取試料」とは何を採取しているのか。「環境制御」とは何の環境を制御しているのか。用途は書かれたが、その奥にあるものは見えない。
密封容器が三十個。遮蔽材が百枚。これだけの量の封じ込め資材を必要とする「学術調査」。フィオナの畑で見た赤脈草のことを思い出した。灰枝の魔素濃度が上がっている。デルガの遺跡で何かが起きていて、その影響が灰枝にまで及んでいるのだとしたら——。
推測だ。帳簿には書けない。でも頭の中では、点と点がかすかに線で繋がり始めている。
でも、帳簿には載った。
「ありがとうございます。これで帳簿に記入できます。補給協定については、灰枝の倉庫の空き容量と集荷便のスケジュールを確認した上で、明日までに回答します」
「助かります」
キルシェが少しだけ肩の力を抜いた。交渉が済んだ安堵だろう。帳簿袋を膝の上に置き直した。あの袋の中に、デルガの数字が詰まっている。灰枝の帳簿からは見えない世界の数字。
リーネがお茶を持ってきた。蒼実入り。キルシェが一口飲んで、「おいしい」と小さく言った。疲れている人間の飲み方だった。お茶の味を楽しむというより、温かいものが体に入る安堵に似た飲み方。
お茶を飲みながら、少しだけ空気が柔らかくなった。交渉の緊張が解けると、キルシェの表情が少し若く見えた。二十代半ば。私と、そう変わらない年齢だ。
「キルシェさん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「デルガの調査隊には、調査官と護衛がいますよね。護衛は冒険者ですか」
「はい。ギルド経由で雇っています」
「灰枝から送り出した冒険者の中にも、デルガの調査隊で働いている人がいるかもしれません。もし——もし灰枝出身の冒険者がそちらにいたら、元気にしているかだけでも教えてもらえると嬉しいです」
キルシェが少し驚いた顔をした。
「……確認してみます」
「ありがとう」
キルシェが去った後、リーネが言った。
「あの人、何か隠してましたよね」
「うん」
「でも、帳簿に載った」
「そう。隠してたものも、載った。用途未記載だったものが記載された。帳簿の上では、透明になった。——たとえその透明さの奥に、まだ見えないものがあったとしても」
「それが大事なんですね」
「大事。帳簿に載っている限り、いつか誰かが読める。載っていなかったら、存在しなかったことになる」
リーネが頷いた。
夕方、キルシェのリストを清書して帳簿に転記した。密封容器三十個。遮蔽材百枚。用途は記載済み。数字は正確に並んでいる。
転記しながら、キルシェの手元を思い出していた。あの人の帳簿袋。使い込まれた革の袋。中には書類がぎっしり詰まっていた。あの量の書類を持ち歩いているということは、キルシェもまた数字と格闘している人間なのだ。灰枝で帳簿をつけている私と、デルガで補給管理をしているキルシェ。立場は違うが、数字を正確に記録して、それを必要な人に届けるという仕事は同じだ。
でもその数字の裏にあるもの——デルガの遺跡で何が行われているのか、何を封じ込めようとしているのか——は、灰枝の帳簿からは見えない。私の窓からは見えない。
灰枝が世界の動きの通過点になりつつある。半年前の棚卸しで感じた「何かが動いている」という直感は、今ではもう直感ではなくなっていた。数字がそう言っている。人と物が灰枝を通過して、向こう側へ流れていく。その足跡が帳簿に残る。
足跡を正確に記録すること。それが——今の私にできる、すべてだ。でも——すべて、で本当にいいのか。
カウンターを拭いた。鍵を閉めた。
通りに出ると、西の空がまだ赤かった。デルガの方角だ。あの赤い空の向こうに、遺跡があって、調査隊がいて、密封容器と遮蔽材が運ばれていく。
ユーリたちは、あの向こうにいるだろうか。元気でやっているだろうか。灰枝を出て行った冒険者たちの消息は、帳簿の上からは追えない。他の支部の帳簿に、彼らの名前が並んでいるはずだ。灰枝の帳簿には、もう載っていないけれど。
風鈴が鳴った。帳簿には書けない問いが、夕風に混じって消えていった。




