第21話 テオの松葉杖
テオが松葉杖を置いて、カウンターに立った。
正確には、カウンターの前に立った。客として。でも今日の用事は、素材の持ち込みではなかった。
朝の光が支部の窓から差し込んで、テオの大きな体に影を作っていた。前より痩せた。肩幅は変わらないが、腕の肉が少し落ちている。樹海を歩かなくなった体だ。
「ナタリア嬢。俺に何かやれることはないか」
テオの足は、完全には治っていなかった。長い距離を歩くと痛む。走るのは無理だ。樹海に入るのは当分先になる、と医者に言われたらしい。松葉杖は卒業したが、右足をかばうように立っている。体重を左足に預けている立ち方。でもテオの目は、じっとしていられない人間の目をしていた。壁を見つめることに飽きた目。何かを探している目。
「座ってできる仕事なら何でもいい。数も数えられるし、荷も運べる。まあ、重いのは無理だが」
リーネが横から心配そうにテオを見ている。テオのことは聞いていた。帳簿の記録から行動範囲の変化に気づいた話。怪我をして戻ってきた話。この子はテオの名前を、帳簿の行の中で知っている。
私は少し考えた。
「倉庫の在庫棚卸し、手伝ってくれる?」
「棚卸し?」
「在庫管理表と実物の照合。帳簿の数字と、棚の上の実物が合っているか、一つずつ確認する作業。腰を下ろしてできるし、数えるのが得意なら助かる」
テオが頷いた。こういうとき、この人は余計なことを言わない。やるかやらないか、はいかいいえか。テオの返事はいつも短い。
倉庫の鍵を開けた。鍵穴に鍵を差し込む感触。三年間、何百回とやってきた動作だ。
灰枝支部の倉庫は、支部の裏手にある小さな石造りの部屋だ。棚が三段、壁に沿って並んでいる。蒼苔の乾燥品、棘鱗の端材、蔓草の束、その他の素材が種類別に保管されている。在庫は買取後にここに保管し、定期的に本部の集荷便で送り出す。
倉庫の空気は乾いていて、素材の匂いがする。蒼苔の苦い香り、棘鱗の鉱物的な匂い、蔓草の青い匂い。全部混ざった、倉庫特有の匂いだ。リーネは最初に入ったとき「独特な匂いですね」と言った。私はもう慣れている。
「テオさん、上の段から順番に数えて。私が帳簿の数字を読み上げるから」
「わかった」
テオが棚の前に椅子を置いて座った。椅子が軋む。大きな体だ。冒険者の体。その体が棚の前に座って、素材を数える。不思議な光景だったが、テオの手つきには迷いがなかった。大きな手で素材の束を一つずつ取り出し、丁寧に数えていく。手先は器用だ。猟師だった人間の手は、細かい作業ができる。
「蒼苔の乾燥品。束が——一、二、三……十七束」
「帳簿上は十七束。合ってる」
「棘鱗の端材。箱が……一、二、三。三箱」
「帳簿上は三箱。合ってる」
「蔓草の束。一、二、三、四……八束」
「帳簿上は——」
私は帳簿の数字を見た。
「十一束」
テオが振り向いた。
「八だぞ」
「帳簿は十一」
「数え間違いか?」
「もう一度数えて」
テオが蔓草の束を一つずつ棚から下ろし、床に並べた。丁寧に、一つずつ。
「……八束だ。間違いない」
三束足りない。
帳簿の数字は十一。実物は八。差は三。
三という数字が、頭の中で響いた。三束。蔓草の乾燥品三束。銅貨にして五十四枚。金額としては大きくない。でも——帳簿の数字と現実が合わないということは、金額の問題ではない。信頼の問題だ。
「ナタリア嬢の帳簿が間違ってるのか?」
「私の帳簿は間違えない」
言い切った。言い切れる自信がある。蔓草の入荷と出荷は、全件記録している。買取日、重量、品質、保管場所。集荷便で送り出した分も、全件記録。在庫が十一束であることは、直近の集荷便の後の記録と一致する。計算を間違える余地はない。
「じゃあ——」
「棚から消えている。帳簿には載らないかたちで」
テオの目が細くなった。この人は猟師だ。森の中で痕跡を読む人間だ。棚の上で何かが消えたことの意味を、すぐに理解した。
テオの顔が変わった。猟師の顔になった。獲物を追うときの目。
「盗まれたのか」
「わからない。でも可能性はある。倉庫の鍵は——」
私は鍵を見た。ギルドの標準的な鍵で、複雑な構造ではない。私とリーネが持っている。それ以外にはないはずだ。
鍵穴を確認した。傷はない。——いや、ある。鍵穴の縁に、ごくわずかな擦り傷。正規の鍵を使っていれば、この位置に傷はつかない。別の鍵——つまり、複製された鍵が使われた痕跡だ。
「鍵を複製された可能性がある」
「誰がだ」
「わからない。でも——」
闇市のことを思い出していた。ギルドを通さない取引が増えている。非正規の素材流通が拡大している。そしてギルドの正規在庫が、帳簿に載らないかたちで消えている。
「闇市に流されている可能性がある」
テオが黙った。それから、太い腕を組んだ。
「ナタリア嬢。帳簿だけじゃ見つけられなかったな、これ」
「……うん」
それは認めざるを得なかった。帳簿の数字は正しかった。在庫十一束。正確に記録されていた。でも、棚の実物は八束だった。帳簿と現実の間に隙間ができていた。
帳簿は正しかった。でも、帳簿だけでは守れなかった。
「現場の目が要る」
テオが言った。
「帳簿を読む目と、棚を見る目。両方要るってことだ」
テオの言葉は短かったが、芯があった。この人はいつもそうだ。言葉は少ないが、的を射る。猟師の目で世界を見ている人間の言葉だ。
私は帳簿の人間だ。数字を見る。紙の上の世界を見る。でもテオは棚を見る。現物を見る。紙の上にない世界を見る。
二つの目が合わさって、初めて全体が見える。
「うん。……うん」
私は即座に動いた。
帳簿に記録できることから始める。在庫管理表に不一致の記録を入れた。日付、品目、帳簿上の数量、実数量、差異。数字は正確に書ける。これは私の仕事だ。
次に、倉庫の鍵を交換する手配をした。マルコの鍛冶場に頼めば、翌日には新しい鍵ができる。錠前の構造を変えてほしいと伝えた。前と同じ型では、また複製される。
本部への報告書を書いた。「灰枝支部倉庫在庫不一致:蔓草の乾燥品三束分の不一致を確認。鍵穴に不正使用の痕跡あり。闇市への流出の可能性を含め調査中」。事実だけを書いた。「闇市への流出」は「可能性」と明記した。確証はまだない。確証がないことは、帳簿にも報告書にも、そう書く。灰枝の自警団にも連絡した。
リーネが報告書の控えを取りながら、顔を強張らせていた。
「ナタリアさん、怖いです」
リーネの声は小さかったが、正直だった。この子は嘘をつかない。怖いときは怖いと言う。わからないときはわからないと言う。それは——帳簿と同じだ。正直であることの価値を、この子は知っている。
「怖くていい。怖いのは正しい反応だよ」
「でも——帳簿は正しかったのに、在庫が合わなかった。帳簿が正しくても、ダメなことがあるって——」
リーネの言葉が、私の胸に刺さった。帳簿が正しくても、ダメなことがある。三年間信じてきたことの、限界を突きつけられている。
「ある。帳簿は万能じゃない。記録された世界と、記録されていない世界がある。帳簿は記録された世界を正確に映す。でも記録されていない場所で何が起きているかは——」
「現場を見ないとわからない」
「そう。テオさんが今日、現場を見てくれた。帳簿だけでは見えなかったものを、テオさんの目が見つけてくれた」
テオが立ち上がった。松葉杖は使わず、自分の足で。少し引きずっているが、立てる。
「ナタリア嬢。俺にもできることがあった」
「テオさんが数えてくれなかったら、気づかなかった。次の集荷便まで在庫を確認する予定はなかったから」
「帳簿は嬢ちゃんが守れ。棚は——俺が見てやるよ」
テオが笑った。不器用な笑い方だったが、力強かった。
「……ありがとう」
テオが帰った後、私は倉庫の棚をもう一度見た。蔓草の束が八つ、整然と並んでいる。三つ分の隙間が、棚にある。
帳簿は正しかった。
でも帳簿が守れなかったものが、ここにある。
三束の蔓草。金額にすれば銅貨五十四。大きな損害ではない。でも——帳簿の数字と現実の間に隙間があること。その隙間から何かが漏れ出していること。それが、この半年で灰枝に起きている変化の一つの形だった。
倉庫の扉を閉めた。明日、新しい鍵が届く。鍵を変えれば、少なくとも同じ手口での横流しは止められる。でも根本的な問題——灰枝に流れ込んでいる「帳簿の外の世界」——は、鍵を変えるだけでは解決しない。
支部に戻った。カウンターの上に、リーネのペンとテオが使った椅子が並んでいる。椅子が三つ。半年前は一つだった。
三年間、私一人で守ってきた帳簿。帳簿が正確であれば、すべてが守れると思っていた。数字が正しければ、灰枝は正しく回ると。
でも今日、テオの目が帳簿の届かない場所を照らした。帳簿の数字は正しかった。在庫十一束と記録していた。記録は正しかった。でも棚の実物は八束だった。帳簿が正しくても、棚の上の実物が合わなければ、正しさには穴がある。
リーネの計算が私の記録を支えた。テオの手が棚の実物を数えた。
帳簿だけでは、足りない。
人の目が要る。人の手が要る。
そして——こういうことこそ、備考欄に書くべきなのかもしれない。「倉庫の在庫管理に現場巡回の体制が必要」と。でもまだ、ペンは動かなかった。
カウンターを拭いた。端から端まで。テオが座っていた場所も、リーネが帳簿を広げていた場所も、全部拭いた。窓の外に、夕暮れの灰枝が広がっている。通りの向こうに灯りが点き始めている。
風鈴が鳴った。その音が、半年前よりほんの少しだけ——心強く聞こえた。




