第19話 届いた私信
手紙は、朝の郵便に紛れていた。
いつもの朝だった。リーネが秤の校正を終え、私が帳簿を棚から下ろし、二人でカウンターを拭いて、開店の準備を整える。一ヶ月前までは全部一人でやっていた手順が、今は二人の流れ作業になっている。速い。そしてもう、一人でやっていた頃の感覚を思い出せなくなりつつある。
郵便箱を開けた。本部からの業務連絡が三通、デルガ支部からの照会書が一通、そして——見慣れた筆跡の私信が一通。封筒の角がほんの少し折れていて、長い旅をしてきたことがわかる。差出人は母だった。
母からの手紙は、三ヶ月に一度くらいの頻度で届く。私からの返事はそれより少し遅い。忙しいからではない。何を書いていいか、いつも少し迷うからだ。灰枝の暮らしは穏やかだが、母に説明するには細かすぎることが多い。帳簿の話をしても伝わらないし、冒険者の話をすると心配される。
「ナタリアさん、お手紙ですか」
「うん。実家から」
リーネが業務連絡を仕分けている横で、私は封を切った。母の字。丸くて大きくて、行間が広い。読みやすい字だが、少し気が散っている字でもある。母は手紙を書きながら別のことを考えている人だ。台所の鍋を気にしたり、窓の外の天気を確かめたり。字の揺れで、母の生活が見える。
内容は近況報告だった。父の腰が良くなったこと。近所の犬が子犬を産んだこと。屋根の修理に思ったよりお金がかかったこと。そして——
「あなたの学塾時代の友人、エリカちゃんが王都の薬学院で教壇に立つことになったそうよ。すごいわね。あなたたち、よく一緒に野原で薬草を摘んでいたものね」
手紙を持つ指が、少しだけ強くなった。
エリカ。
七年以上前の記憶。学塾の教室で、隣の席に座っていた少女。明るい茶色の髪を短く切って、いつも袖をまくっていた。薬草学の実習で、誰よりも先に葉の裏を見る子だった。
エリカは試験に受かった。私は落ちた。
その後のことは、あまり思い出さないようにしている。エリカは王都の薬学院に進学し、私はギルドの事務職員試験を受けた。帳簿の扱い方を覚え、灰枝への配属を希望し、辺境の小さな支部で三年間、一人で帳簿をつけてきた。
手紙を畳んで、引き出しにしまった。
「ナタリアさん、大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっと——昔の知り合いの話が書いてあっただけ」
リーネが少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。この子もフィオナと同じで、聞かないことができる子だ。
午前中の業務が始まった。
最初の客は蒼苔の持ち込み。常連の冒険者で、申告も正確、品質も標準。何の問題もない取引。帳簿に記入する。ペンが紙の上を走る。日付、品目、重量、産地、品質、買取価格。いつもと同じ手順。いつもと同じ速度。
二人目。棘鱗の端材。これも問題なし。秤に載せ、重量を確認し、記入する。リーネが横で冒険者に銅貨を渡す手つきを、横目で確認する。丁寧で正確だ。この子はもう、一人で受付を回せる段階に近い。
三人目。依頼完了の報告書。記入漏れが一箇所。指摘して書き直してもらう。冒険者は面倒くさそうな顔をしたが、書き直した。帳簿に漏れがあるのは、帳簿の側の問題ではなく、書く側の問題だ。でも書き直させるのは私の仕事だ。
三人目の報告書を処理した後、リーネが聞いた。
「ナタリアさん、お昼どうします? 肉屋のおかみさんがパンを持ってきてくれるかもしれません」
「うん。来てくれるといいね」
いつもなら、昼のことを考えている余裕がある。今日は——頭の中にエリカの名前が居座っていて、いつもの思考が滞っている。自分でも気づいている。気づいているのに、追い出せない。
四人目の取引で、手が止まった。
冒険者が持ち込んだのは、蔓草の乾燥品だった。縛り方は丁寧で、乾燥も十分。何の問題もない素材だ。秤に載せる。重量を読み取る。帳簿に書き込もうとして——ペンの先が紙に触れたまま、動かなかった。
重量の数字を見ている。百二十グレン。正しい。産地は樹海の縁。正しい。品質は——標準。正しい。
全部正しいのに、帳簿に書き込む手が動かない。
「ナタリアさん?」
リーネの声で我に返った。冒険者が不審そうにこちらを見ている。
「——失礼。百二十グレン、縁の標準品ですね。銅貨十八になります」
手が震えないように、慎重にペンを動かした。数字を書く。日付、品目、重量、産地、品質、買取価格。全部、正しい数字だ。
でも——頭の中にエリカの名前が残っていて、数字が目に入ってこなかった。
冒険者が帰った後、私は帳簿を見直した。
今書いたばかりの行。数字は合っている。間違いはない。でも——いつもなら一瞬で書ける行に、数秒かかった。それだけのことだが、私にとっては初めてのことだった。
帳簿の記入で手が止まる。三年間、一度もなかったことだ。
五人目の冒険者が持ち込んだ棘鱗を見たとき、普段なら気づくはずのことに一瞬遅れた。断面の色がやや薄い。縁産としては標準だが、乾燥の仕方に少し雑な部分がある。いつもの私なら秤に載せる前に気づいて、品質を「標準下」に下げる。今日は——秤に載せてから気づいた。
記入を修正した。標準から標準下に。買取価格を二枚下げた。冒険者は少し不満そうだったが、断面を見せると納得した。
数字は正しく修正できた。でも——気づくのが遅れた。手順が逆になった。秤の前に品質を見る。それが正しい順序だ。今日は品質の前に秤に載せてしまった。
集中力が落ちている。エリカの名前が、まだ頭の中にいる。
「ナタリアさん。今の取引、私が確認していいですか」
リーネが手を伸ばした。帳簿を受け取って、数字を一つずつ確認する。
「合ってます。問題ないです」
「……ありがとう」
リーネに確認してもらった。自分の帳簿を、後輩に確認してもらった。それが——少しだけ、救いだった。一人で全部を見ていた三年間なら、誰にも気づかれずに済んだだろう。でも今はリーネがいる。リーネがいることで、私の揺れが可視化された。
それが嫌なのか、ありがたいのか、まだわからない。
昼休み、肉屋のおかみさんがパンを持ってきてくれた。リーネが「ありがとうございます」と受け取り、私の分を取り分けてくれた。パンは温かくて、少し甘い匂いがした。
リーネと二人で、カウンターの裏手の段差に座って食べた。リーネがパンを小さくちぎって食べるのを見ながら、私はほとんど味がわからなかった。噛んでいるのに、頭の中が別のことで占められている。
「ナタリアさん、パン余ってます。食べないですか」
「食べてる。ゆっくり食べてるだけ」
嘘ではないが、本当でもなかった。リーネは少し心配そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
リーネが片付けに行った隙に、母の手紙をもう一度読んだ。
エリカの話は二行だけだ。母は何気なく書いたのだろう。近所の犬の話と同じ温度で書いている。でもその二行が、朝からずっと頭の中で回り続けている。
王都の薬学院で教壇に立つ。
エリカが、教える側になった。
薬草学を極めて、王都の最高学府で教える側に。
私は——灰枝のギルド支部で、帳簿をつけている。
比べても仕方がない。道が違ったのだ。薬草学を諦めたのは自分の選択で、ギルドの事務職員になったのも自分の選択だ。後悔はしていない。——後悔はしていない、と思っている。
でも、手紙を読んだ瞬間に手が止まったのは事実だ。帳簿を書く手が。三年間一度も止まらなかった手が。
どうして止まったのか。
才能の差を思い出したからか。追いつけなかった悔しさか。それとも——私が選ばなかった道を、エリカがまっすぐに歩いていることへの、名前のつけられない感情か。
羨ましい、ではない。たぶん。悔しい、でもない。たぶん。もっと漠然とした、胸の奥が重くなるような感覚。自分の選択が間違っていなかったと思いたいのに、エリカの名前を聞くと、選ばなかった道のことを考えてしまう。選ばなかった道がまぶしく見えてしまう。
手紙を畳んだ。
午後の業務に戻った。帳簿は正確に書けた。もう手は止まらなかった。でも、頭の隅にある名前は消えなかった。
午後の二人目の取引で、リーネが棘鱗の品質判定を自分でやってみせた。断面の色を見て、「中層産の標準品」と判断した。私が確認すると、正しかった。
「よくわかったね」
「ナタリアさんが前に教えてくれたじゃないですか。断面の色が薄いと縁産、濃いと中層産って」
教えた。確かに教えた。そしてリーネはそれを覚えていて、実践した。
——私がエリカの隣で学んだように。リーネは私の隣で学んでいる。その事実が、今日は少しだけ染みた。
夕方、リーネが帰った後、私は帳簿を開いた。今日の記録を見直す。全行、正しい。誤りなし。
——ただし、四件目の取引の記入に数秒の遅れがあった。帳簿には表れない遅れだ。数字は正しい。でも、数字を書いた人間は、正しくなかった。
帳簿に嘘は書けない。
でも——自分に嘘はつけていたのかもしれない。
夜、宿に帰ってから、母への返事を書いた。
宿の部屋は狭い。机と寝台と、小さな棚。棚には帳簿の写しが数冊と、故郷から持ってきた本が二冊。薬草学の入門書と、ギルド事務員試験の参考書。どちらも、もう何年も開いていない。
ランプに火を入れて、便箋を広げた。
「お元気ですか。灰枝は少し賑やかになりました。仕事は忙しいですが、いい後輩ができました。秤の校正を毎朝やってくれる子です」
ここまではすらすら書けた。母に灰枝の様子を伝える手紙。いつもと同じだ。
エリカのことには触れなかった。何を書けばいいかわからなかった。「おめでとう」と書くのか。「すごいね」と書くのか。どちらも嘘ではないが、どちらも足りない。足りないまま書くことは——帳簿に不正確な数字を書くことと似ている。正確に書けないなら、書かないほうがいい。
でも書かないことが正しいのか、それもわからなかった。
ペンを置いた。封をした。明日の便で出す。
ランプを消す前に、もう一度だけ母の手紙を読んだ。
「あなたたち、よく一緒に野原で薬草を摘んでいたものね」
覚えている。エリカの手が、私より先に葉を見つける。「ここにあるよ」と笑う声。走って追いかける自分の足。あの野原の匂い。草と土と、少しだけ甘い花の匂い。
フィオナの薬草畑で嗅いだ匂いと、少しだけ似ていた。
ランプを消した。
暗い部屋の中で、天井を見ていた。宿の天井は低くて、木目が見える。三年間見てきた天井だ。
エリカへの手紙は、まだ書けない。何を書いていいかわからない。
「おめでとう」は嘘ではない。「すごいね」も嘘ではない。でもその言葉の裏に、名前のつけられない重さがある。その重さを隠したまま書く手紙は、正確な手紙ではない。帳簿と同じだ。正確でないものは、書けない。
でも——いつか書かなければいけない気がしていた。帳簿に書けないことを、帳簿以外の場所で言葉にすること。それが、今の自分に必要なことなのかもしれない。
目を閉じた。暗闇の中に、野原の匂いが残っていた。
まだ、書けないけれど。




