第18話 査察官の眼鏡
査察官は、眼鏡を拭く人だった。
本部からの通知が来たのは三日前。「灰枝支部定期査察に併せ、業務量増加に伴う特別査察を実施する」。定期査察は年に一度、帳簿の正確さと業務手順の確認が主な目的だ。特別査察は——たぶん、私が出した闇市のレポートが引き金だろう。
通知を読んだとき、胸が少し冷たくなった。査察。帳簿を他人に見られる。三年間、一人で守ってきた帳簿を、本部の人間が一行ずつ確認する。間違いはないと自分では思っている。でも自分では思っている、と思っている時点で、どこかに不安がある。
「リーネさん、帳簿を全部出して。棚の上の段から順番に」
「はい」
朝から準備に追われた。帳簿を時系列順に並べ、月次報告書の控えを揃え、在庫管理表の最新版を確認する。秤の校正記録、依頼票の処理履歴、冒険者の登録台帳。三年分の記録がカウンターの上に並ぶと、壮観だった。リーネが「図書館みたい」と呟いた。
壮観ではあるが、見た目のことを言っているのではない。中身だ。三年分の帳簿の中に、一件でも齟齬があったら——それは私の三年間に傷がつくということだ。帳簿の正確さは私の信用そのものだ。
査察官は昼前に着いた。
中年の男性だった。背は高くなく、痩せている。濃い茶の上着に、厚い眼鏡。革の鞄を片手に、もう片方の手で眼鏡を押さえながら扉をくぐった。
「灰枝支部副支部長のナタリアさんですね。本部査察課のヴェルナーです」
「お待ちしていました。こちらへどうぞ」
ヴェルナー査察官は、カウンターに並べた帳簿を見て、わずかに眉を上げた。
「よく準備されていますね」
「帳簿を見ていただくのが仕事ですから」
査察官は鞄から自分の帳簿を取り出し——厚い革表紙の、使い込まれたものだった——カウンターの端に座った。それから眼鏡を外して、布で丁寧に拭き始めた。レンズの両面を、ゆっくりと、角度を変えながら拭く。
拭き終えると眼鏡をかけ直し、私の帳簿の一冊目を手に取った。
最初の一冊を確認するのに、四十分かかった。
ヴェルナー査察官は、ページを一枚ずつめくり、数字を指で追い、時折自分の帳簿にメモを取った。私は横で質問に答え、リーネは奥で茶を淹れていた。
査察官の確認は丁寧だった。数字の整合性、記入漏れの有無、署名の照合、備考欄の記載——すべてを一行ずつ見ている。この人は数字を読むのが好きなのだ。その目つきでわかる。帳簿の行間に何かを探している目。私と同じ種類の目だった。
「ナタリアさん」
「はい」
「この帳簿は——」
眼鏡を外した。また拭き始めた。今日三回目だ。
「非常に正確です。数字の齟齬がない。署名の照合も問題ない。記入漏れもゼロ。三年分の帳簿をこの品質で維持しているのは、私が見てきた支部の中でも最上位です」
「ありがとうございます」
「ただ——」
眼鏡をかけ直した。レンズ越しの目が、帳簿の一点を指さした。
「備考欄が、少なすぎる」
指先が示しているのは、帳簿の右端の列だった。備考欄。ほとんどの行で空白になっている。数字は完璧に埋まっているのに、備考欄だけが白い。
「数字は完璧です。日付、品目、重量、産地、品質、買取価格——すべて正確。でも、君はこの取引について何も言っていない。数字が語らないことを、君は帳簿に残していない」
「帳簿は事実を記録するものですから。備考欄に主観を書くのは——」
「主観?」
ヴェルナー査察官が眼鏡の奥で目を細めた。鋭い目だった。数字を追っているときの穏やかな目とは、違う光があった。
「主観ではありません。所見です」
査察官は帳簿を閉じて、自分のメモ帳を開いた。
「副支部長の帳簿には、所見を書く欄がある。取引の背景、冒険者の状態、市場の傾向、支部としての判断——それを記録するのが備考欄の役割です。受付事務官のときは数字を正確に書くことが仕事だった。副支部長になったら、数字の意味を書くことも仕事に含まれる。それは主観ではなく、職務上の所見です」
私は言葉に詰まった。
所見。そんな言葉を、帳簿に結びつけて考えたことがなかった。帳簿は数字を書く場所で、数字は事実を映すもので、事実に私の解釈を加えることは——汚すことだと思っていた。
「数字の意味を解釈するのも、君の仕事になったんです。受付事務官の帳簿は数字だけでいい。でも副支部長の帳簿には——」
査察官が帳簿を閉じた。
「——意見が要る」
意見。
帳簿に、意見を書く。
数字ではなく、私の解釈を。私の判断を。私の——。
「失礼ですが、ヴェルナーさん。意見を書くことで、帳簿の客観性が損なわれることはないんですか」
「いい質問です」
ヴェルナー査察官がまた眼鏡を外した。四回目。
「帳簿の数字は客観です。備考欄の所見は主観です。この二つは混ぜてはいけない。数字を恣意的に解釈してはいけないし、所見を数字のように見せかけてもいけない。でも——」
眼鏡を拭きながら、窓の外を見た。
「数字だけの帳簿は、正確だが無口です。何が起きたかは教えてくれるが、何を意味するかは教えてくれない。意味を読み取って記録するのは、帳簿をつけている人間にしかできないことです」
「……」
「君がこの前出したレポート。闇市の推定規模のやつ。あれは良い仕事だった。数字と推定を区別して、事実と所見を分けて書いていた。あれができるなら、帳簿の備考欄にも書ける。書くべきだ」
査察官は眼鏡をかけ直した。
「次の定期査察のとき、備考欄が埋まっていることを期待しています。数字の意味を、君の言葉で」
査察は午後いっぱい続いた。
在庫の実地確認。倉庫の棚を一段ずつ確認する。蒼苔の束数、棘鱗の箱数、蔓草の束数——ヴェルナー査察官が帳簿の数字を読み上げ、リーネが棚の実物を数える。一件ずつ、正確に。新しい鍵を見て査察官が「鍵を変えたんですね」と言った。「在庫の不一致があったので」と答えると、査察官は眼鏡を外して——今日五回目——拭きながら「報告書にあった件ですね。適切な対応です」と頷いた。
依頼処理のサンプルチェック。過去三ヶ月分の依頼票をランダムに十件抽出し、処理手順と帳簿の記録を照合する。すべて一致。冒険者登録台帳の照合。登録番号、牌の種別、活動記録——全件、齟齬なし。
総合評価は「優良」。ヴェルナー査察官は評価書に署名し、封をして、鞄に入れた。
「灰枝支部は、小さいが良い支部です。帳簿の質は保証する。あとは——」
扉の前で振り向いた。
「——中身を入れてください。帳簿に」
査察官が去った後、支部に静寂が戻った。
リーネが片付けを始めた。帳簿を棚に戻し、茶器を洗い、カウンターを拭く。手慣れてきた動作だ。
「ナタリアさん」
「うん」
「備考欄のこと、気にしてます?」
「……気にしてる」
「私、ナタリアさんの帳簿が好きなんです。数字だけが並んでいて、余計なことが書いていなくて。きれいだなって思ってました」
「きれい……」
「でも、査察官の人が言ってたこともわかります。数字だけだと、読んだ人にはわからないことがあるって」
リーネが帳簿の背表紙を撫でた。
「ナタリアさんが頭の中で考えていることが、帳簿に書いてあったら——私も、もっと早く灰枝のことがわかったのかなって思いました」
その言葉が、胸に残った。
リーネに教えるとき、言葉にできないことがたくさんあった。備考欄に何を書くか、帳簿に書けない判断をどうするか——全部、口で伝えるしかなかった。もし帳簿の備考欄に、私の所見が書いてあったら。リーネはそれを読んで、もっと早く灰枝の帳簿を理解できたかもしれない。
帳簿に書くのは事実だけだと信じてきた。自分の意見を帳簿に書くことは、帳簿の純粋さを汚すことだと思っていた。
でも——帳簿を読む人間がいる。リーネがいる。
リーネに教えるとき、口で言わなければ伝わらないことが、どれだけあったか。この取引は普通に見えるけれど注意が必要だ、とか。この冒険者の申告は正確だけれど目つきが心もとない、とか。全部、私の頭の中にだけあることだ。帳簿のどこにも書かれていない。
リーネだけではない。本部の査察官がいる。そして——未来の灰枝の事務員がいる。私がいなくなった後に、この棚の帳簿を手に取る誰か。その人が帳簿を開いて、数字を読んで、「この取引の背景は何だったんだろう」と思ったとき——備考欄が白ければ、何もわからない。数字は残るが、意味は消える。
私の頭の中にあることは、私がいなくなれば消える。でも帳簿に書けば、残る。
それは——帳簿を汚すことなのか。それとも、帳簿を活かすことなのか。
帳簿を開いた。
今日の取引の行。数字は全部埋まっている。備考欄が白い。
ペンを持った。
——書けなかった。
何を書けばいいのか、まだわからなかった。「灰枝の取引量が増加傾向にある」? それは数字が言っている。備考欄に書く必要がない。「闇市が拡大している」? それは別のレポートで報告した。「私は灰枝が心配だ」? それは——意見ですらない。感情だ。感情は帳簿に書けない。
ペンを置いた。帳簿を閉じた。
まだ、書けない。でも、書かなければいけないということは——今日、わかった。
カウンターを拭いた。端から端まで。ヴェルナー査察官が座っていた場所を、丁寧に拭いた。あの人の眼鏡の拭き方を思い出した。レンズの両面を、ゆっくりと、角度を変えながら。正確に見るための準備。帳簿を正確に読むための準備。
私の帳簿は正確だ。でも、正確なだけでは足りない。
ランプを消した。鍵を閉めた。
石畳を歩きながら、ペンの感触を指先に覚えていた。持ったのに、書けなかった。
明日も持つ。書けるようになるまで。




