第17話 帳簿に載らない店
数字が、合わない。
合わない、というのは正確ではない。帳簿の数字自体は正しい。秤は毎朝校正している。記入も確認している。リーネのつける数字も、もう信頼できる。帳簿の中に嘘はない。
合わないのは、帳簿の外だ。
その違和感は、ここ数日で急に芽生えたものではなかった。最初に気づいたのは、肉屋のおかみさんとの立ち話だったと思う。先週の昼休み、パンを届けてくれたときに言っていた。「最近、仕入れを二割増やしたんだけど、それでも夕方には売り切れちゃうのよ」。二割。帳簿を扱う人間にとって、二割は小さな数字ではない。
それから、マルコの鍛冶場。朝の七時から夜の八時まで、槌の音が途切れなくなった。以前は昼下がりに休憩を入れていたのに、最近はそれもない。道具屋の在庫の回転も速い。棚の品が入れ替わる間隔が短くなっている。
どれも帳簿には載らない情報だ。でも——全部、同じことを言っている。灰枝に人が増えている。
「ナタリアさん、先月の取引件数まとめました」
リーネがまとめた月次の集計表を受け取った。取引件数、買取総額、素材別の内訳、登録者の増減。数字は整然と並んでいる。リーネの字は相変わらず丁寧で、数字の大きさが行ごとに揃うようになった。一ヶ月前までは緊張すると字が小さくなっていたが、今はもう安定している。
数字を追う。先月の素材買取件数は百四十七件。半年前の月は九十二件。一年前は七十八件。増えている。確実に。
だが——
「リーネさん」
「はい」
「先月、灰枝に出入りした冒険者の人数を覚えてる?」
「えっと……登録者が月末時点で八十三人。先月の新規が五人で、移動が二人。実働は六十人前後だと思います」
「六十人で百四十七件。一人あたり月に二・四件。これは普通だね」
「はい」
「でも——」
私は窓の外を見た。通りに人が歩いている。知らない顔が混じっている。ギルドに来ない人々。登録もしていない人々。
「灰枝の人口は、この半年でどれくらい増えたと思う?」
「人口、ですか。それは帳簿には——」
「ない。ギルドの帳簿には冒険者の登録者数しか載っていない。でも、通りを歩いている人の数は、明らかに増えている。肉屋のおかみさんが『仕入れを増やした』と言ってた。マルコの鍛冶場は朝から晩まで槌を叩いてる。道具屋の在庫の回転が速くなった。全部、帳簿には載っていないけど——」
「人が増えている」
「うん。でもギルドの取引件数の伸び方は、登録者の増加と合っている。一人あたりの取引頻度は変わっていない。ということは——」
リーネの目が動いた。考えている。
「増えた人たちが、ギルドを使っていない……?」
「そう。灰枝に来ている人の中で、ギルドを経由している人の比率が下がっている。以前は灰枝に来る人のほとんどが冒険者で、ギルドを通して取引していた。今は、ギルドを通さない人が増えている」
帳簿の数字は増えている。でも、帳簿に載らない取引は、それ以上に増えている。帳簿が灰枝のすべてを映していた時代は、終わりつつある。
三年前に灰枝に来たとき、通りを歩く人の顔はほとんど覚えられた。冒険者も住人も、顔と名前が一致する町だった。今は——知らない顔が増えた。ギルドに登録していない人たち。帳簿の上には存在しない人たち。
「裏通り」
リーネが小さく言った。
「ナタリアさん、裏通りのこと、知ってますか」
「知ってる」
「私、昨日の帰りに見ました。裏通りの突き当たりに、露店みたいなのが出てて。棘鱗の端材とか、蔓草の束とか、ギルドの倉庫にあるのと同じような素材が並んでました」
「闇市」
「闇市……」
リーネの声が少し震えた。「闇市」という言葉の響きが、この子には重かったのだろう。
「大げさに聞こえるかもしれないけど、やっていることは単純よ。ギルドを通さずに素材を売買しているだけ。ギルドの手数料が要らないから、売る側は高く、買う側は安く取引できる」
「でも、それって——帳簿に載らないですよね」
「載らない」
「載らないと、どうなるんですか」
リーネの問いに、私はカウンターに肘をついて考えた。この子に正確に伝えなければいけない。闇市が「悪い」から問題なのではない。帳簿に「載らない」から問題なのだ。
「産地の情報が残らない。品質の確認もされない。危険な素材が混ざっていても、誰もチェックしない。取引のトラブルがあっても、ギルドが仲裁できない」
指を折りながら挙げていく。
「それに——品質のわからない素材で薬を調合したり、武器を鍛えたりする人が出てくる。素材の品質管理は冒険者の命に関わるの。秤がずれてはいけないのと同じ理由で、品質の確認を飛ばしてはいけない」
私はペンを取った。
「それと——帳簿に載らない取引は、数字に穴を開ける。私たちが灰枝の経済を把握できなくなる。依頼の価格設定、在庫の管理、冒険者への情報提供——全部、帳簿の数字がベースになっている。その数字が灰枝の一部しか映していないとなったら、判断の精度が落ちる」
リーネが黙って聞いていた。
「でも、ナタリアさん。闇市を止めることは——」
「できない。ギルドの管轄外。私たちには取り締まる権限がない」
「じゃあ——」
「記録する」
リーネが私を見た。
「帳簿に載っている数字から、載っていない数字の輪郭を推定する。引き算で見える世界がある」
私は白紙を一枚取り出した。
まず、灰枝に出入りする物流の総量を推定する。肉屋の仕入れ増加、道具屋の在庫回転率、鍛冶場の稼働時間——これらはギルドの帳簿にはないが、灰枝の住人として日常的に観察できる情報だ。そこから灰枝全体の経済規模の変化を推定する。
次に、ギルドの帳簿に記録されている取引総額を引く。
差分が、帳簿に載っていない経済圏の規模になる。
「推定ですけど——闇市の規模は、正規取引の二割から三割くらいあるかもしれない」
リーネが息を呑んだ。
「そんなに……」
「推定だよ。でも、数字の傾向はそう言っている」
私はそのレポートを清書した。「灰枝支部管轄外経済活動の推定規模」。タイトルは硬いが、中身は帳簿の数字と観察に基づいた推定だ。
書きながら、何度も手を止めた。数字で言えることと、推定で言えることの境界を慎重に分けなければいけない。肉屋の仕入れ増は事実だ。道具屋の在庫回転が速くなったのも事実だ。だが、それらを合算して「闇市の推定規模」を出す計算には、いくつかの仮定が含まれている。仮定は仮定として明記する。事実と推定を混ぜない。
「闇市が悪い」とは書かない。「取り締まるべきだ」とも書かない。それは私の仕事ではない。私の仕事は、事実と推定を区別した上で、数字を必要な人に届けること。
「本部に出すんですか」
「本部と、灰枝の町長に。判断は上に委ねる。でも——判断するための数字がないと、誰も判断できないでしょう」
リーネが何か言いかけて、止まった。それから、真っ直ぐに私を見た。
「ナタリアさんは——もどかしくないですか」
「もどかしい?」
「記録するだけで、自分では動けないこと。闇市が灰枝に良くないことはわかってるのに、止められない。帳簿をつけて、レポートを書いて、上に出すだけで——」
リーネの声に、初めて苛立ちに似たものが混じっていた。
「私だったら、レポートだけじゃなくて、もっとはっきり書きます。『闇市を放置すれば灰枝の安全は守れない』って。数字だけ並べて判断を委ねるんじゃなくて——意見を書きます」
私は少し驚いた。リーネが私のやり方に異を唱えたのは、これが初めてだった。
そして——リーネの言葉は、間違っていなかった。意見を書くべきだと、どこかで私も思っている。でも——。
「リーネさんの気持ちはわかる。でも、意見を書くなら、その意見に責任を持たなければいけない。私にはまだ——それを書く覚悟ができていない」
リーネが黙った。納得したのか、それとも納得していないのか、顔からは読み取れなかった。この子は素直だが、素直なだけではない。自分の考えを持っている。それが今日わかった。
「もどかしいよ」
正直に答えた。
「もどかしい。帳簿をつけているだけで何かが変わるとは限らない。レポートを出しても、本部が動くとは限らない。町長が読むとは限らない。でも——」
ペンを置いた。テオのことを思い出していた。帳簿の数字がテオの行動の変化を記録していたのに、私はそれを読み取れなかった。あのとき、もっと早く声を上げていたら。
でも声を上げるのと、記録を届けるのは違う。声を上げるのは感情だ。記録を届けるのは行動だ。感情だけでは動かない。数字を揃えて、根拠を添えて、判断を委ねるべき相手に届ける。それが——。
「記録を必要な人に届けるところまでが、受付嬢の仕事だと——最近は、思うようになった」
リーネが少し目を見開いた。
「最近は?」
「前は、記録するだけが仕事だと思ってた。帳簿の数字を正確につけて、それで終わり。でも、正確な帳簿が棚に並んでいるだけでは、何も変わらない。読まれなければ、ただの紙だから」
テオのことを思い出していた。帳簿の数字はテオの行動範囲の変化を記録していた。でも私がそれを読み取らなかったら、テオは——。
「帳簿は、読まれるためにある。そして必要な人に届けるためにある。つけるだけじゃなくて、届けるところまでが仕事。そう思えるようになったのは、たぶんこの一年くらいのこと」
リーネが静かに頷いた。言葉を飲み込んでから頷く間合いが、最初の頃とは違っている。
夕方、レポートを封筒に入れた。本部宛と町長宛、二通。明日の便で出す。
カウンターを拭いた。紫蘇草の小袋がカウンターの隅に置いてあって、支部の中にかすかな草の匂いが漂っている。リーネが初日に「いい匂いですね」と言ったとおりだ。
秤に布をかけ、ランプを消し、鍵を閉めた。
通りに出ると、いつもの夕暮れだった。だが足を止めた。
裏通りの方角から、人の声がした。複数の声。取引の声。値段を言い合う声。帳簿には載らない声。
しばらく聞いていた。それから、歩き出した。
帳簿の窓からは見えない世界が、すぐそこにある。でも——見えないことを知っている、ということは、何も知らないこととは違う。
少なくとも、帳簿の余白の形はわかるようになった。余白の形がわかれば、何が載っていないかがわかる。
それもまた、記録することの一つだと思うことにした。




