第16話 土壌の記憶
朝露が、薬草の葉先に光っていた。
休日だった。灰枝の支部は月に二日だけ閉まる。リーネが来てから初めての休日で、リーネには「ゆっくり休んで」と言って帰した。彼女はたぶん、帳簿の書式を復習しているだろう。あの子はそういう子だ。
私はフィオナの薬草畑にいた。
「ここ、踏まないで。根が浅いから」
フィオナが振り向かずに言った。しゃがんだまま、指先で雑草を一本ずつ抜いている。手つきに迷いがない。どれが雑草でどれが薬草か、触れる前から見分けている。
私は言われた通りに足を止めた。畑と呼ぶには小さい。フィオナの住まいの裏手、日当たりのいい斜面に作られた小さな区画だ。木杭と縄で区切られた中に、十数種類の薬草が植えられている。
「手伝おうか」
「いい。ナタリアが触ると折れる」
「折らないよ」
「この前折った」
前回、干し草を束ねようとして茎を折ったことを覚えていた。あれは乾燥しすぎていたせいだと思うが、言い訳はしないでおく。
フィオナの隣にしゃがんだ。朝の空気が冷たくて、息が少し白い。土の匂いがした。湿った土と、薬草の青い匂い。ギルドの支部にいるときとは全然違う匂いだ。支部はインクと紙と、ときどき魔獣素材の匂いがする。ここは——生きているものの匂いがする。
フィオナが雑草を抜き終えて、次の列に移った。私はその後ろをついていく。
「この列は何を植えてるの」
「紫蘇草。傷薬の基材になる。乾燥させて粉にして、蜜蝋と混ぜると軟膏になる」
「知ってる。学塾で習った」
言ってから、少し後悔した。学塾の話は普段しない。フィオナがこちらを見た。
「学塾?」
「……昔の話。故郷の学塾で、少しだけ薬草学をかじったことがある」
「へえ」
フィオナはそれ以上聞かなかった。この人はそういう人だ。聞かない。待つ。相手が話すなら聞くし、話さないなら聞かない。カウンター越しに初めて会ったときからそうだった。
紫蘇草の葉を一枚、指先で触った。やわらかくて、少しだけ粘り気がある。鮮やかな緑。裏側は白みがかっていて、細かい毛が生えている。これは若い葉だ。収穫にはまだ早い。あと二週間ほど待てば、粘り気がもっと増して、薬効成分が葉の表面に集まる。
——こういうことを、どうして覚えているんだろう。学塾を辞めてから七年以上経つのに。
「ナタリア」
「ん」
「その触り方、慣れてる人の手だよ」
フィオナが私の手を見ていた。紫蘇草の葉を裏返して、毛の密度を確かめている私の指先を。
「少しだけ、ね。少しだけ」
「薬草のこと、詳しいんだね」
「詳しくない。知ってるだけ。詳しい人は、フィオナみたいに育てられる人のことを言うの」
フィオナが少し首を傾げた。何か言いかけて、やめた。代わりに別の列を指さした。
「あっちに変なのがある。見てみて」
私は立ち上がって、フィオナが指した列に近づいた。
その一角だけ、他と様子が違った。背の低い、肉厚の葉をつけた植物が三株。深い緑で、葉脈が赤みを帯びている。見たことがない——いや、見たことはある。本で。学塾の教本に描かれていた図版の中に。
「これ——赤脈草?」
「知ってるの」
「聖騎士団の薬園で栽培されてる高地性の薬草。解毒薬の主成分。でも灰枝の標高では育たないはずだよ。高地の冷涼な気候と、特定の魔素濃度が必要で——」
言いながら、気づいた。
育っている。灰枝で。
「フィオナ、これ、いつから?」
「半年前に植えた。最初は育たないと思ったけど、根がついた。最近は新しい葉も出てる」
「半年前には育たなかったはずのものが、今は育っている——」
「うん。私もそう思ってた」
フィオナが赤脈草の葉に触れた。慎重な手つきだった。
「赤脈草は魔素濃度に敏感なの。聖騎士団の薬園では、魔素が一定以上の区画でしか栽培できなかった。ここで育つということは——」
「灰枝の魔素濃度が、上がっている」
フィオナが頷いた。静かな動作だった。
私たちはしばらく、赤脈草の前にしゃがんだまま黙っていた。フィオナは目の前の植物を見ている。私は、帳簿の数字を思い出していた。
素材の品質データ。蒼苔の粒度、棘鱗の硬度、蔓草の粘り気。どれも微妙に——本当に微妙に——数値が変動していた。品質が上がっているのだと思っていた。採取場所が少し奥にずれたせいだろうと思っていた。でも、もし灰枝全体の魔素濃度が上がっているのだとしたら——縁で採れる素材の品質が自然に上がることの説明がつく。
「帰ったら、帳簿を確認する」
「ん?」
「素材の品質データを、半年前と比較してみる。魔素濃度が上がっているなら、数字に出ているはず」
フィオナが少しだけ笑った。
「休日なのに」
「休日だから、時間がある」
「ナタリアらしいね」
その後、フィオナが淹れてくれた茶を飲みながら、畑の端のベンチに座っていた。木のベンチで、フィオナが自分で組んだものだと前に聞いた。座面が少し傾いているが、座り心地は悪くない。
朝の冷気が少しずつ緩んで、陽が斜面を温め始めている。畑の向こうに灰枝の屋根が見えた。装甲片の壁と骨材の柱。小さな町だ。でもこの角度から見ると、前より屋根の数が増えている気がした。
茶を一口飲んだ。蒼実入り。酸味がやさしくて、温かくて、喉の奥に微かな甘さが残る。支部で飲む茶とは違う。支部の茶は、作業の合間に喉を潤すためのもの。フィオナの茶は、座って飲むためのもの。その違いが、今はわかる。
茶を一口飲んで、フィオナが言った。
「聖騎士団の薬園から持ち出したの、あの赤脈草。最後の一株だった」
「……聞いていいこと?」
「聞いてもいいよ。薬園を出るとき、一つだけ持っていこうと思った。あの場所で過ごした時間がなくなるわけじゃないけど、手元に何か残したかった」
フィオナの声は平坦だった。感情を込めない話し方。でも「残したかった」という言葉には、薬園にいた時間への愛着が滲んでいた。
私は聖騎士団のことを聞かなかった。フィオナに何かの過去があることは、帳簿の行間と、以前聖騎士が巡回に来たときの顔色の変化で、十分にわかっている。でも、それをフィオナの口から聞く必要はない。フィオナが話したいときに、話してくれればいい。
「灰枝の土に合ってよかった」
「うん」
「枯れたらどうしようって、最初は毎日見てた」
「今は?」
「三日に一回くらい」
フィオナが茶を飲んだ。私も飲んだ。同じ蒼実入りの茶だが、薬草の匂いの中で飲むと、支部で飲むのとも前に訪れたときとも、少し違う味がした。畑の空気が混ざっているせいかもしれない。
薬草の匂いの中に座りながら、私は思っていた。
学塾で薬草を学んでいたとき、私はいつも隣の席の子の手つきを見ていた。エリカの手。私よりもずっと確かな手つきで葉に触れる。剪定のタイミング、水のやり方、乾燥の見極め——全部、私より一歩先にいた。
あの頃の私は、それが才能の差だと思っていた。今もそう思っている部分はある。でも——今日、フィオナの畑で紫蘇草の葉を触ったとき、指先が覚えていた。葉の裏側の毛の密度。収穫のタイミング。赤脈草の名前と特性。学塾で学んだことは、消えていなかった。
薬草を育てる人にはなれなかった。でも、薬草を見分ける目は、帳簿の中で生きている。素材の品質を五感で判断する能力は、学塾の教室で培われたものだ。蒼苔の湿り具合を指先で感じ取ること。棘鱗の断面の色で産地を見抜くこと。紅角獣の角の脈紋で個体の齢を推定すること。全部——あの教室で、薬草の葉に触れることから始まっていた。
エリカの隣に座って、エリカの手つきを見て、追いつこうとして追いつけなかった時間。あの時間は、無駄ではなかった。
私の薬草学は、帳簿に活きている。
そう思えたのは——たぶん、初めてだった。フィオナの畑で、フィオナの茶を飲みながら、灰枝の屋根を見下ろして。こんな場所で気づくとは思わなかった。
「フィオナ」
「ん」
「ありがとう。畑に呼んでくれて」
「いつでも来なよ。休日、暇でしょ」
「暇じゃない。帳簿の確認がある」
「休日なのに」
「休日だから——」
「時間がある、でしょ。さっきも聞いた」
フィオナが笑った。私も少し笑った。
帰り道、フィオナが乾燥させた紫蘇草を小さな袋に入れて持たせてくれた。「支部に飾って」と言った。薬草の匂いがカウンターに漂えば、少しだけ空気が変わるだろう。
宿に戻ってから、帳簿の写しを引っ張り出した。休日だが、確認しなければいけないことがある。半年分の素材品質データを並べる。蒼苔の粒度。棘鱗の硬度指数。蔓草の乾燥後粘度。
数字をグラフ代わりに並べていくと——やはり、微妙に上昇傾向がある。個々の変動は誤差の範囲だが、半年分を通しで見ると、全品目で品質が上振れしている。採取場所の変化だけでは説明がつかない。灰枝周辺の魔素濃度そのものが、少しずつ上がっている。
赤脈草が育ったのは、偶然ではない。灰枝の環境が変わっている。
控え帳に書き留めた。「素材品質の上昇傾向——魔素濃度変化の可能性。赤脈草の生育確認(フィオナ畑)」。
これはまだ帳簿に書ける段階ではない。品質の上昇は数字で示せるが、原因が魔素濃度の変化であるという因果関係は、私には証明できない。でも——フィオナの赤脈草は、仮説を支持している。
帳簿に書けることは、少しずつ増えていく。確かなことだけを、一つずつ。
紫蘇草の袋を机の上に置いた。匂いを嗅いだ。青い草の香り。
明日、支部のカウンターに飾ろう。リーネが「いい匂いですね」と言うだろう。
それだけで、少しだけ明日が楽しみになった。




