第3話 喉を鳴らす者
――夜は静かに更け、そして再び朝となった。
そこは、三つ並んだテントのうちの一つ。
油迂とゴードン、二人が寝ている場所でもある。
油迂は、意識も視界も霞んだまま、重い瞼を持ち上げ、眉間にシワを寄せていた。
思いのほか早く目が覚めた。何のことはない。目が覚めたところで、そこは相変わらず異世界だった。
横たわったまま、大きく伸びをすると、奇妙な感覚に襲われた。
湿り気を帯びたすえた臭いが、顔の横から漂い、油迂の鼻腔を突き刺した。
――ゴードンの足である。
「――ぶっ、ゴホォッ!!! ちくしょう、臭過ぎるッ!!」
油迂は、一瞬で覚醒した。口と鼻を押さえ、テントから這い出るように逃げ出した。
走り始めた足は、一歩、二歩と進み、やがて止まった。
「はぁ……」
ため息しか出ない。この所ため息ばかりついている。
振り返れば現実に帰れる……訳はないのだが、なんとなく後ろを振り返ることにした。
テントからは、黄色いガスが絶え間なく流れ出ているようにも見える。
もちろんそんな事はなかった。
再び口から息を漏らそうとしたとき、油迂の頭に電気が走った。
「いっそ寝る前に、マヨネーズで足を覆ってしまえば、臭いが隠せるのでは……」
しかし相手はゴードン。色々と良くしてくれているのに、そんなことをできる訳がなかった。
油迂は口元に手を添え、臭いから逃れる方法を考えた。
額に手を添え思考を巡らせていると、木々の隙間から、真っ直ぐ光が差し込んできた。
突然の眩しさに目を細め、その光を手で遮った。
ゆっくりと目を開いていく油迂。その光の先には、アレストが佇んでいた。
凜とした顔立ち。彼女の金色の長い髪が、風と共になびいていた。
油迂は大きく息を吸い込んだ。
「おはようございます。アレスト様!」
「……おはよう、油迂。昨日は良く眠れたか?」
「お、お陰様で、なんとか寝ることはできました」
そんな訳がなかった。油迂の瞼は落ちかけ、顔は半分引きつっていた。
アレストが顔を覗かせた。
「……その目の下のクマ、あまり眠れていないようだな」
「……実は、いびきとか色々あって、何度か起こされまして……」
「ゴードンか……。もう少しすれば金が入るから、テントを別にしてやろう。
すまないが、それまでは辛抱してくれ」
「い、いや。そこまでしてもらわなくても大丈夫です。きっと!」
「油迂……。大丈夫って顔してないだろう。まぁ、代金くらいは私が出してやる。だから安心しろ」
「すみませんアレスト様……」
「……さて、そろそろ朝食の準備をしないと、またリュミナにドヤされそうだから、私はこの辺で失礼するよ。
油迂は顔でも洗ってくるといい。それではまたな」
アレストはそれだけ言うと、その場を立ち去り、自身のテントへ帰っていった。
アレストを見送った油迂は、顔を洗おうと近くの小川へと向かった。
歩いて数分、しばらくすると、水のせせらぎが耳に届いた。
視線の先には、さらさらと流れる小川。油迂は、大きな玉石をいくつも跨ぎ、川のほとりに腰を下ろした。
そして、油迂は水を掬う。
――手がぬるぬるで、顔が洗えない。
「しまった、そうだった……」
思わず言葉をこぼした。
こちらに来て何度も訪れる朝。
何回その朝が来ても、ごく自然に顔を洗おうとしてしまう。
だが、洗い方はある。
油迂は、腰に結んである布をほどく。そして、川に浸し、全力で振り回して水気を切る。
そうすれば、布を両手で握り込んで絞る必要はない。
これが、油迂なりに考えた洗顔方法だった。
顔を拭って布を仕舞うと、元いた場所へと走った。
テントは既に片付けられ、ゴードンが荷物を纏めていた。同じように、油迂のバッグも纏められ、あとは背負うだけとなっていた。
油迂は、その様子に手を震わせ、奥歯を噛み締めることしかできなかった。
ゴードンが、油迂に気付き振り向いた。
「よう、油迂! ちゃんと眠れたのか?」
「え、ええ……ほど良く、なんとなくですけど」
「ガハハ! そいつはよかった。それはそうと、ほら。
朝食の時にまた、例のものを頼むぞ。それとできれば、気持ち大盛りで頼む!」
「わ、わかりました……」
そのやりとりを見ていたリュミナ。
彼女は腰に手を当て、二人の会話に口を挟んだ。
「ちょっとゴードン。少しはいい加減にしてよ!
油迂に依存しすぎなんじゃないの?」
荒げるリュミナの声に、ゴードンは適当に笑って誤魔化した。
「リュミナか、まぁいいじゃねぇか!
ウマいものは、ウマいんだよ! それかお前も食ってみるか? 飛ぶぜ、これは!」
「まったく……。油迂もホイホイ出すんじゃないよ! 見てるこっちが気持ち悪くなる!」
リュミナが再び声を荒げると、セリナが彼女の肩を引き寄せ、腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっとやめなよ、リュミナ!」
「何よセリナ。そうやってゴードンや油迂の味方をするの!?」
「そ……そういう訳じゃないけど。人に向かって、あまりそんなことを……」
その後も、リュミナは不満をまくし立て、ゴードンが軽く笑いながら「気にするな」と言い、セリナがその仲裁に入ろうと手を宙にさまよわせていた。
すると、喧騒に気付いたアレストが、大きく手を叩き注意を向けた。
「ほらほら、何やってんの!
これから朝食を食べるっていう時に!!」
アレストは息を大きく吸い、リュミナへ視線を向けると、そのまま言葉を続けた。
「リュミナ。あなたは思っていることを、ズバズバ言いすぎ。
仮にそうであったとしても、言われる人のこと、周りの人の事、それと状況を考えなさい!!」
リュミナは悔しげに唇を結び、それでも目を伏せた。胸の前で重ねた手に、少しだけ力がこもる。
「す……すみません、アレスト様……。
ゴードンがあまりにも無節操でしたから……」
油迂の視線は揺れていた。リュミナの思ってることは分かる。
分かるからこそ、強くは言えないし、反論もできない。
だが今ここで何かを言えば、火に油を注ぐことになる。
そう思った油迂は、何も言わずに手を小さく丸め、拳を震わせていた。
僅かな沈黙が辺りを包んだ。その空気を破るように、ゴードンが口火を切った。
「そんなの適当でいいじゃねぇか。それよりアレスト様。早くメシを食わせてくれよ!
このままじゃ折角買った鎧も、ブカブカになって買い直す羽目になっちまうわい」
そう言って、話題をはぐらかすゴードン。リュミナが頭を抱えて声を荒げた。
「ゴードンのそういうところが嫌なのよ、もう!」
愚痴るリュミナに、無視するゴードン。二人はいつもこんな感じであった。
そうして、いつものように食事が始まる。
マヨネーズをねだるゴードン。目を背けるリュミナ。
その横で、セリナが気まずそうにパンを齧る。
ゴードンは、油迂に皿を差し出し、マヨネーズを貰う。
そして、肉をマヨネーズに浸し、それをパンに挟んで食べはじめた。
やがて、油迂も同じようにして、黙々と食べ始めた。
――ごくり。
ゴードンと油迂がそれを口に運ぶたび、その喉の動きがアレストの視界に入る。
その動きに合わせるように、静かに喉を鳴らすアレスト。
彼らから目を背け、首を横に振ると、アレストは乾いたパンを無理やり口へ押し込んだ。
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