第16話 奪取
アレストは剣を杖に、膝を突いていた。
奥には身の丈の二倍ほどもある蜘蛛が、こちらに目を向けていた。
鬼神のようなアレストを前に、ただ呆然と立ち尽くす油迂とリュミナ、そしてセリナがいた。
「はぁ……はぁ……。腹が、カロリーが……。も、もう少しだ!」
アレストは呼吸を整え、震える膝を手で押さえた。そして、その身を起こし、巨大蜘蛛へと走り出した。
走りながら吐き出す糸に、斬撃を二度三度と叩き込んだ。蜘蛛を翻弄するように右に左に走り、距離を縮めて蜘蛛の脚につま先を立てた。
左手で蜘蛛の表皮を掴み、駆け上がるように上へと登っていった。
アレストは、蜘蛛の巨大な横腹に剣を突き立てると、刀身の半分ほどを押し込んだ。そのまま剣の柄を両手で掴むと、蜘蛛の身体から足を離した。
全体重をかけたアレストの身体は、蜘蛛の横腹を縦に切り裂くには十分だった。
巨大蜘蛛は、悲鳴のような雄たけびを上げ、身体を震わせアレストを振りほどこうとする。
だが、それは叶わなかった。腹を割かれた蜘蛛は、白い体液をその傷口から噴き出し、次第にその動きを止めていった。
やがて地面に散らばる大小様々な蜘蛛は、黒い霧へと変わり、そのまま空間に溶け込むように霧散していった。
辺りには、雫のような結晶が散らばっていた。
アレストが、その動きを止めた。
「や……やったか……」
アレストが口を開いた次の瞬間。背後の壁が一瞬で爆ぜた。
崩れる岩壁は、無数の岩片となり、その中から一匹の巨大な蜘蛛が出現した。
「ま、まず――!」
アレストに、巨大蜘蛛の重い一撃が襲いかかった。その巨大な足は、アレストの肩当てを剥ぎ、アレストの身体そのものを吹き飛ばした。
突然の出来事に反応できなかったアレストは、身体を丸め衝撃に備えると、そのまま壁面に打ち付けられた。
「――ぐはぁッ!」
壁にめり込んだ背中が悲鳴を上げると、アレストは顔をゆがめた。
アレストの前に巨大蜘蛛が迫った。アレストは、埋まった身体を起こすこともできず、視界に迫る蜘蛛をただ見ているしかできなかった。
視線の先に、魔導書を握るリュミナが映った。
「それはダメだ、リュミナ!」
アレストは必死に声を上げ、リュミナに向けて手を伸ばした。
辺りの地面は、白い靄に覆われている。
リュミナは魔導書を開き、指を這わせながら思考を巡らせた。
――靄は可燃性のガス。
火炎球は、詠唱者から放つ魔法。今ここで使えば、放った瞬間に手元のガスへ引火する。
だからそれを防ぐため、防壁を仲間全員に貼りつつ、座標指定の火の柱で、炎と爆発を抑える。
それに地面からは、僅かだけど地下水が湧いている。
「水分量は十分。だから、それを見越した魔法で、この窮地を脱してみせる!
対炎障壁!!」
その瞬間、湧き水は、壁に埋まったままのアレストと、リュミナたち全体を霧のように包んだ。それがレンズのような被膜へと変わると、リュミナが続けて魔導書に指を走らせた。
「――火炎柱!!」
蜘蛛の足元に、深紅の魔法陣が発生した。
その瞬間、爆音とともに強い光が辺りを覆い尽くすと、魔法陣から業火が噴き出した。
「――くっ……。さすがに、障壁の二箇所同時展開は……」
リュミナは顔をしかめ、歯を食いしばった。
その後ろでセリナが叫んだ。
「り、リュミナ。わたしの魔力も使って!!」
セリナは、リュミナの背中に右手を添えると、目を瞑った。
次第にセリナの身体は淡い青色の光に包まれ、その光がリュミナの背中へと流れ込んでいった。
セリナは同時に左手で杖を持ち、アレストに向けてかざしていた。緑色の光は、遠く離れたアレストに向けて伸びていった。
「……すまない、セリナ!」
巨大蜘蛛は、リュミナの魔法によってその身を焦がしたものの、魔法陣から吹き出る炎を直撃したわけではなかった。
蜘蛛は炎が噴き出す寸前に身を引き、火柱の直撃だけは免れていた。
リュミナは膝をつくと、魔法陣と障壁が消え始めた。セリナの額には汗が滲み、緑色の光も次第に細くなっていった。
一方で、巨大蜘蛛はしきりに口を動かし、地面へ顔を寄せていた。
よく見れば、雫のように散った結晶を口へと運んでいた。
蜘蛛はそのたびに、傷が塞がっていき、欠損した足が次第に元に戻っていった。
その蜘蛛の視界の先に、アレストが最初に仕留めた巨大蜘蛛の結晶が転がっていた。
「――まずい!」
アレストが思わず声を上げた。だが、動けなかった。岩肌にめり込んだ身体が思うように動かせなかったのだ。
リュミナは疲弊し、セリナは肩で息をしていた。
その時油迂は、その結晶に向かって駆け出していた。誰かに命令されたわけでもなく、直感でそれがマズいと感じたのだ。
アレストが再び叫んだ。
「油迂! その結晶を奪え!!」
蜘蛛の口の動きは一瞬止まり、走りくる油迂の動きに視線を合わせていた。蜘蛛の複眼に黒目があるわけではないが、それは確実に油迂を見ていた。
蜘蛛は、動きをじっと止めた。そして、足を曲げて腰を少し落とすと、僅かに下がった。
油迂は、走りながら蜘蛛へと視線を向けた。飛びかかってくるのか、足を鞭のように使い振り払うのか、それは分からなかった。だが、攻撃の意思だけは感じとった。
結晶との距離を詰める油迂。そして、あと数メートルまで迫ったとき、蜘蛛の足がピクリと動いた。
「正面、いや右からか!」
油迂は、右手袋を脱ぎ捨て、そのまま前の地面にありったけのマヨネーズを振りまいた。
――蜘蛛の左脚が動いた。
油迂の右側から、なぎ払うように脚が襲いかかった。それを、身を低くしてマヨネーズの上を滑るようにかわすと、再び結晶に向かって走った。
背後からは、無数の蜘蛛の糸が油迂を目掛けて飛んでいた。
油迂は、走りながら空中にマヨネーズを散布し、その糸を拒んだ。糸は空中でマヨネーズをまとい、その重みに引かれるように地面へ落ちた。
――特殊結晶まであと、一メートル。
油迂の手にそれが届くか、手が届かまいか。そんな微妙な距離の時、その巨体は飛んだのだ。
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