53話 赤い満月の夜
ルイスたちの卒業式が、いよいよ間近に迫っていた。
けれど、アイリスが恐れていた『赤い満月の夜』は、一向に訪れる気配がない。
何か見落としがあるのではないかと、アイリスは第二図書館へと足を運び、古びた書物のページを幾度もめくった。けれど、どれほど目を凝らしても、不吉な赤い満月に関する記載はどこにも見当たらなかった。
(もしかしたら、このままバッドエンドは訪れないのかもしれない……)
張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩みかけた、その時だった。
視界の隅を、小さな影が不自然に舞う。
アイリスは咄嗟に顔を上げて窓の外へと視線を走らせた。夕闇が迫る空に、光を吸い込むような漆黒の蝶がひらひらと舞い踊っている。
かつて脳裏に巡った、バッドエンドの記憶――生徒たちが横たわる周りを不気味に飛び交っていた、黒い蝶と酷似していた。
アイリスの顔から、一気に血の気が引いていく。
(黒い、蝶…………!)
間違いない。ゲームの強制力か、あるいは別の意図か……この学園のどこかで悲劇の魔物が召喚されようとしている。
日は沈みかけているものの、まだ空に月は昇っていない。
(早く、みんなのところへ…………!)
焦燥感に突き動かされ、アイリスは扉の取っ手に手をかけた。けれど鍵がかかっていないのに、扉はびくとも動かない。
(まさか……)
魔力を研ぎ澄ませ周囲の空気を探ると、第二図書館の全体を包み込むようにして、強固な結界魔法が張り巡らされていた。
アイリスは、何者かによってこの第二図書館に閉じ込められてしまったのだ。
だからといって、悠長に助けを待つ時間もない。アイリスは思考を切り替え、魔法の術式を解読するべく、その発信源を突き止めるための行動をうつした。
アイリスは、魔力探知が得意ではない。けれど以前ジークにコツを教わったことがあった。
幸いここは室内で、外よりも探りやすい。呼吸を整え、自身の足元から薄い魔力を床へと浸透させていく。
すると、アイリスを中心に淡い光の波紋が床一面を包み込んでいった。光の動きにすべての神経を集中させて気配を辿ると、館内の北側に魔力の淀みを感じ取る。
アイリスは迷わずその場所へと駆けて、あたりを見渡す。
窓辺に飾られた花瓶の奥へ隠されるようにして、禍々しい輝きを放つ黒い魔法石が置かれていた。この石こそが、この結界魔法を維持し続けている発信源だ。
アイリスは石へと手を翳し、内部を流れる複雑な術式を紐解いていく。紡ぐようにして術式を書き換えていると、彼女の指先へ熱い魔力の痕跡が逆流してきた。
その瞬間、アイリスの解呪を拒絶するかのように、魔法石から黒いモヤのような刃が鋭く撃ち放たれた。
(しまっ――)
あまりの速さに防御が間に合わない。けれどその時、アイリスの小指で、冷たい魔力が漂うのを感じる。ルイスから贈られた指輪が、彼女に迫る危機に反応し結界を展開したのだ。
黒い刃はルイスの魔力の壁に遮られ、激しい火花を散らす。アイリスはその隙に、最後の術式を上書きした。
パキ、と乾いた音が響く。
黒い魔法石は中央から綺麗に二つに割れ、黒色から、光を通す半透明の石へと姿を変えて床に転がり落ちた。
「はっ、ぁ……」
一気に押し寄せた緊張感と疲労に、アイリスは膝から崩れ落ちそうになる。
手の甲を見れば、防ぎきれなかった刃の残滓が掠めたのか、一筋の赤い血が滲んでいた。
もしもルイスの指輪がなかったら、もっと酷い有様になっていただろう。
だが、ここで恐怖に震えている時間などなかった。
アイリスは痛む手を握りしめ、開かれた扉から第二図書館の外へと飛び出した。
一歩外へ出ると、すでに太陽は完全に地平線の彼方へと沈んでいた。代わりに空へ浮かぶのは、異様に大きく傾いた赤い満月だった。
学園は重苦しい空気に支配され、瘴気のモヤが立ち込めている。その中を、無数の黒い蝶が狂ったように舞い踊っていた。
ただ救いだったのは、常時学園を覆っている結界が機能しているため、不気味な蝶が敷地の外へ溢れ出るのを辛うじて防いでいることだった。
アイリスは息を切らしながら、本校舎に続く道を駆け抜ける。
周りを見渡せば、道端や植え込みの側に何人もの生徒たちが力なく倒れていた。駆け寄って容体を確認すると、怪我を負っている様子はなく深い眠りに落ちている。
(やっぱり、あの黒い蝶が撒き散らしている粉には、強制的に意識を切断する昏睡効果があるみたい……)
戦慄しながらも、アイリスはまだ無事な者がいないかと必死に走り続ける。
その時、他の蝶とは違う蛾のように大きな蝶が、アイリスの頭上から鋭く襲いかかってきた。
迎撃が間に合わない――そう思った瞬間、夜闇を鋭い雷の光が切り裂いた。
肉の焦げる音さえ置き去りにして、蝶はその場で灰へと変わり、夜風に溶けて消え去った。
「――アイリス!」
聞き覚えのある凛とした声が響く。金の髪を揺らしたウィルバートだ。
「ウィル! みなさん!」
ウィルバートの後ろには、ルイス、ジーク、ディラン、そしてローズとクロエの姿が揃っていた。
「無事でよかった……!」
彼らの胸元やポケットからは、アイリスが作った『呪詛返しの結晶』が、瘴気を弾いているのを感じる。あの結晶が彼らを黒い蝶の昏睡効果から守り抜いてくれたのだ。
「アイリス嬢……! 貴女その手、怪我をされたのですか!? 一体何があったのです……!」
誰よりも早くアイリスの元へと駆け寄ってきたのは、ルイスだった。いつもは上品な微笑みを崩さない彼が、今は動揺した様子でアイリスの傷ついた手をそっと両手で包み込む。
あのプロムの夜以来の会話に、アイリスは一瞬だけ身体を強張らせてしまう。けれどルイスは気にした様子もなく心配の籠った眼差しを彼女に向けていた。
「第二図書館に閉じ込められてしまって……その結界を破る際に、かすり傷を負っただけですから大丈夫です!」
アイリスがそう告げると、ルイスはピクリと眉を顰め、深い青色の瞳を険しく細めた。
そして心配そうにこちらを見つめていたジークも、穏やかな仮面を剥ぎ取り、怒りを孕んだ灰色の瞳でアイリスの顔を覗き込んできた。
「閉じ込められたって……どういうこと? 誰に?」
「結界魔法が第二図書館に仕掛けられていて……。ただ誰が仕掛けたのかはわかりませんが、恐らく火属性の魔力を持った方です。ですがルイス様の指輪が守ってくれたおかげで、無事に脱出できました! なので本当に私は大丈夫です!」
アイリスが二人を安心させるように明るい笑顔を向けてから、彼らの背後に控えるウィルバートたちへと視線を移した。
ゲームの記憶では、悪役令嬢であるローズが嫉妬に狂って魔物を召喚することになっていた。けれど今、ローズはウィルバートの隣で、不穏な周囲を警戒しながら毅然と佇んでいる。
この場に彼女がいるということは、この騒動の首謀者がローズではないという証明だった。
アイリスは安堵の息を吐き出し、全員に向けて表情を引き締めた。
「みなさん、聞いてください! 誰かがこの学園のどこかで、魔物の召喚術式を発動させています!」
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