52話 正しい選択
差し伸べられた手を重ねると、ルイスは優しくアイリスを引き寄せる。彼は手元にあるアイリスの存在を確かめるように愛おしげに見つめると、ふっと顔を上げジークへと視線を向けた。
「ありがとうございます、ジーク」
そこに込められているのは、アイリスの心を気遣ってくれた男に対する敬意だった。ジークはそれに対して言葉を返すことはしなかったが、優しく目尻を緩めて見送ってくれる。
誘われるようにして、ルイスのしなやかで大きな掌がアイリスの腰へとそっと回された。
夜の庭園を満たす冷たい静寂を破り、風に乗って届く音色に合わせるようにして、二人はゆっくりとステップを刻み始める。
ダンスの最中、ルイスの大きな掌が自分の腰を壊れ物でも扱うかのように優しく支えていた。彼の体温が布地越しに伝わり、その深く青い視線が寸分の狂いもなくアイリスだけに注がれている。
それだけで、心臓が弾けてしまいそうなほど激しく脈打ち始める。
(気にしてはダメ、私はただのモブ令嬢なのだから)
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の高鳴りは激しさを増し、彼に触れられている部分が火傷しそうなほどに熱を帯びていく。
どうしてもその視線に耐えきれなくなり、アイリスは目を逸らしながら消え入りそうな声で溢した。
「あの……見つめられると気になってステップを間違えてしまいそうなので……できれば、あまり見ないでいただけると……」
「ええ? ん〜ふふっ、それは難しいご相談ですね」
ルイスは愉しげに喉の奥で甘やかな笑声を響かせた。
「だって……好きな相手のことはつい、目で追ってしまうものでしょう?」
その言葉が耳に届いた瞬間、アイリスの思考は完全に停止した。
(いま、好きな、相手って……)
信じられないという思いで顔を上げると、ルイスの青い瞳に射抜かれたかのように目が離せなくなる。
やがて音楽が止まり、ダンスの終わりが告げられた。
けれど、ルイスの手がアイリスから離されることはなかった。彼はこちらをじっと見つめたまま、その名前を愛おしそうに紡ぐのだ。
「アイリス嬢……これが冗談ではないと言ったら、貴女を困らせてしまいますか?」
ルイスの長い指先がアイリスの白い頬に触れた。宝物を慈しむように、そっと肌を撫でる。その甘く深い眼差しにはアイリスを揶揄うような意思はなく、真剣な熱が宿っていた。
アイリスはただ呆然と、瞳を揺らすことしかできなかった。
その時。ふと視界の端に会場の窓際に佇むフィーネ様の姿が目に留まり――ハッと、現実に引き戻される。
アイリスは弾かれたように、ルイスの胸を強く押して彼から距離をとってしまった。
「…………る、ルイス様はもう、フィーネ様のところへお戻りになってください……! これ以上遅くなると、お相手を心配させてしまいます!」
涙を堪えるように声を荒らげ、アイリスはそのまま顔を俯かせた。ルイスの顔を見る勇気すら、今は持ち合わせていない。
「そうですね。…………アイリス嬢、私の我儘に付き合ってくださり、本当にありがとうございました」
どこまでも優しいルイスの声音が、アイリスの胸をひどく痛めつける。ルイスは俯いたアイリスの髪を、慈しむように一度だけ優しく撫でた。
そしてそのまま彼の足音が、少しずつ遠ざかっていくのが聞こえた。やがてアイリスが顔を上げた時にはもう、あの美しい銀髪の青年の姿はどこにもいない。
(これでいい。これが正解…………)
この先、エンディングの後にあるルイスの幸福を壊してはいけない。だって彼とアイリスは出会うはずのない存在だったのだから。
(これが、モブとして正しい選択……)
決して、望んではいけない。手を伸ばしてはいけない。
自分がただのモブだと、自覚しているはずだ。
それなのに、どうして――どうして。
これほどまでに、胸が苦しいのだろう。
「…………アイリス」
ジークの温かい腕が、アイリスの身体をそっと包み込んだ。壊れ物でも扱うような優しい抱擁に、アイリスは自分が限界まで息を止めていたことに気づく。
彼の温かな胸の中で、微かに呼吸がしやすくなった。
「ジーク様……私、どこかおかしいんです」
一度、言葉が涙で途切れる。胸の奥に名前のない激しい痛みを抱えながら、アイリスは震える声で続けた。
「これが、正しいはずなんです……それなのに、胸が苦しい……っ」
すべてを委ねるように、アイリスは彼の胸に擦り寄った。ジークはそんな彼女を抱きしめる腕に、強く力を込め、掻き抱くようにアイリスを包み込む。
「そうだね……そうだね、アイリス。正しさは、いつだってひどく苦しいものだね……」




