50話 夜の庭園で密やかな我儘
扉の向こうの賑やかさが嘘かのように、連れられた庭園は穏やかな静けさに満ちていた。
目の前に広がるのは、魔法の光でライトアップされた緑の迷宮。その奥にある色とりどりの花々に囲まれた小さな噴水の前で、アイリスとジークは足を止めた。
「……とても、落ち着く場所ですね」
月明かりが噴水の水面へ白い光を零し、煌めきながら揺れている。穏やかな風が流れると小さな花々がさざ波のように心地の良い音を鳴らし、甘やかな香りで二人を包み込む。
そんな美しい光景に見惚れるアイリスをジークは淡く微笑みながら、彼女の肩に身を寄せる。そして甘えるように、アイリスの頭へコテンと頬を預けるのだ。
大きな犬みたいだと思いながら、アイリスはその温もりを拒むことなく、寄り添った。
「ねぇ、アイリス。貴族の夜会で、君が俺を助けてくれたこと……覚えてる?」
ジークは白い満月に視線を向けたまま、普段よりゆったりとした口調でアイリスへ問いかける。
それは以前、両親の代理として出席した貴族の夜会でジークと偶然鉢合わせた時のことだ。もちろん、鮮明に覚えているけれど……
「助けていただいたのは、私の方ですよ……?」
あの時、アイリスが男に肩を掴まれそうになったところを連れ出してくれたのはジークだった。
「あははっ! そんなことないよ」
ジークは明るい笑い声を零しながら、アイリスの顔を覗き込んだ。そして大切な思い出を懐かしむように、静かに言葉を続ける。
「俺はね……アイリスのあの言葉に助けられて、本当に嬉しかったんだよ……?」
そう言いながらアイリスの身体を引き寄せ、自身の胸の中へ彼女を閉じ込める。アイリスは驚いて彼を見上げると、すぐ近くで蕩けるような甘い熱を宿した灰色の瞳が、アイリスだけを見下ろしていた。
(っ…………!)
熱っぽい眼差しと二人の距離に気恥ずかしさを覚え、咄嗟に顔を俯かせ身を引こうとする。だが腰に回された彼の腕にぐっと力が込められ、より二人の身体は密着してしまう。
ドレスの生地越しに彼の確かな体温と、少し早い鼓動が伝わってくる。身動きの取れない彼の腕の中で、熱い吐息がアイリスの耳に触れた。
「アイリス…………」
名前を囁かれても、アイリスは顔を上げることができなかった。どうして彼は、あんな眼差しで自身を捉えるのか。
その理由を考える間もなく、ジークの大きな掌が俯いているアイリスの頬をそっと包み込み、拒む隙も与えずにゆっくりと上へ向かせる。見上げた先にあった彼の瞳は、やはりひどく甘く、それでいて切なげに揺れていた。
「俺の、特別な人……」
彼のウェーブがかった柔らかな髪がアイリスの肌に触れた。そして寂しがりやの獣が甘えるかのように、彼はアイリスへ額を擦り寄せる。
けれど――
「…………どうか……幸せになって……」
消え入りそうな声で、最後にそう囁いたジークの瞳は月光に反射してひどく濡れているように思えた。
「どうして……そんなお顔をされているのですか?」
アイリスは無意識のうちに、彼の頬へ手を伸ばしていた。
ジークは僅かに肩を揺らしたが、アイリスの手を拒むことはなかった。彼は彼女の手の上にそっと自身の大きな掌を重ね合わせ、自嘲気味な乾いた笑い声を零す。
「はは……俺、今どんな顔してる?」
今夜のジークは、なんだなチグハグだ。甘やかな表情をしたかと思えば、胸が苦しくなるほどの切ない表情を浮かべている。
「…………ジーク様。私に、何かできることはありますか?」
「え……?」
「今のジーク様は、どんな我儘でも叶えてあげたくなるような、そんなお顔をされていますよ」
できることは少ないけれど、それでも寂しがり屋な彼の心を埋めたかった。いつもアイリスを導いてくれる大切な友人に、笑っていてほしかった。
アイリスが柔らかく微笑みかけると、ジークは言葉を失ったように固く唇を結んだ。けれどすぐに呆れと愛おしさに満ちた笑みを、その端正な顔に浮かべる。
「あはっ、どんな我儘でもって……アイリスはほんとにお人好しだなぁ」
「友人の我儘を叶えたいと思うのは、当然でしょう?」
『友人』へ向けられた眩しいくらい純粋な言葉は、甘い猛毒のようにジークの胸へと深く染み渡っていく。彼は一度瞼を伏せながら、ゆっくりと唇を動かした。
「…………それなら、アイリスの、特別をちょうだい。どんな形でもいいから……」
頬に添えたままのアイリスの手へ、ジークは縋るように自身の頬をすり寄せる。
「俺だけの、特別が欲しい……」
伏せられていた瞼を上げると、濁りのない灰色の瞳がアイリスだけを捉えた。その真剣な眼差しにアイリスは思わず息を呑む。
「ジーク様だけの、特別……」
アイリスが考え込むように、ジークの言葉をなぞると、彼は名残惜しそうにしながらそっとアイリスの身体から手を離す。
それと同時に、アイリスの身体は後ろから伸びてきた腕によって後方へ引き寄せられる。
振り返るとそこには、会場にいるはずのルイスの姿があった。




