43話 蘇る不穏な記憶
それは、酷く暗い、血の匂いに満ちた悪夢だった。
視界に映るのは無残に破壊された校舎と、横たわる生徒たち。飛び交う黒い蝶に、不気味に歪んだ赤い満月。息を吸うことさえ拒まれるほどの黒い瘴気。
その中心には、禍々しい巨大な影。
絶望の表情を浮かべ、泣き崩れるウィルバート。
その隣で涙を流しながら、必死に祈るクロエ。
傷だらけで横たわっている、ジークとディラン。
そして――深く青い瞳が光を失い、血溜まりの中で横たわるルイスの姿が、鮮明に脳裏へ浮かんできた。
「っ……!」
息を呑んで、アイリスは勢いよく上半身を起こした。
どくん、どくんと、心臓が嫌な音を立てて高鳴っている。額からは汗が流れ落ち、呼吸は浅く震えていた。
窓の外を見れば、まだ深い夜の帳が降りている。あれはただの悪夢、そう切り捨てて眠りに戻るにはあまりにも生々しい光景だった。
(今のは……本当にただの夢……?)
ズキリ、と頭の奥が割れるように痛む。眉をひそめてこめかみを押さえた瞬間、濁流のような記憶のカケラが降ってきた。
(あれは乙女ゲームの、『バッドエンド』だ……)
ゲームにおける本来のシナリオでは、悪役令嬢であるローズがウィルバートと正式に結ばれた後もなお、彼に慕われ続けるヒロインのクロエに激しい嫉妬を募らせる。
その感情に呑まれた彼女は、クロエの存在をこの世から消し去りたいという一念から、禁忌とされる召喚魔法へと手を染めるのだ。
召喚された闇の魔物によって、学園は崩壊の危機に陥る。クロエやウィルバートたちが命懸けで阻止したことで事態は辛うじて終息するものの、引き換えに支払った代償はあまりにも大きすぎた。
ウィルバートの幼馴染であり、側近のルイスの死だ。
生き残ったウィルバートは、半身を失ったかのような深い心の傷を背負い、誰も救われない破滅の結末を迎える。
それが、赤い満月の夜の出来事だった。
アイリスは寝台の上で膝を抱え、小さく息を吐き出した。冷え切った指先をぎゅっと握りしめ、今日の放課後に行われたバラ園でのお茶会を思い返す。
(ローズがクロエに嫉妬? そんなの考えられない……)
正式に婚約者として選ばれたローズは、不器用ながらも「殿下をお支えする」と嬉しそうに微笑んでいた。ローズとウィルバートの関係は極めて良好だ。
それに、ヒロインであるクロエは堅物のディランと恋人同士になったばかりで、ウィルバートとの接点など今やほとんど存在しない。
ローズの誇り高くも根は優しい性格を知った今となっては、彼女が嫉妬に狂って誰かを呪うなど到底考えられなかった。そもそも、あの規模の魔物を召喚するには、膨大な魔力が必要不可欠だ。優秀とはいえローズひとりの魔力だけで賄えるはずがない。
論理的に考えても、不可能なのだ。
(そう……こんな未来、来るはずがない。だってゲームのシナリオはもう完全に崩壊しているんだもの)
自分に言い聞かせるように、アイリスは心の中で繰り返した。
でも――でももし、何かしらの『強制力』のようなものが働いてしまったら?
物語の軌道修正を計るように、歪んだ因果がローズを巻き込み、無理矢理にでもあの破滅へ向かわせようとしたら……?
「…………」
脳裏に、先ほど見た悲惨な光景が再び流れる。血の海の中で、一切の体温を失って横たわっていたルイスの姿が、どうしても胸の奥に冷たくこびりついて離れない。
(ルイス様が……みんなが傷つく未来なんて、絶対に起こってほしくない……!)
みんなアイリスにとって、大切な友人たちだ。
みんなには、それぞれの未来で幸せになってほしい。
そして上品な微笑みの裏で努力を重ねているルイスが、道半ばで理不尽に命を落とす姿など、見たくない。
(この世界の月は常に満月だから、月を読むことはできない……。だけど赤い満月の日が訪れるのは、たしかルイス様たちの卒業式の少し前くらい…………)
逆算すれば、今からおよそ半年後だ。
アイリスは顔を上げ、きゅっと唇を結んだ。紫色の瞳に確かな決意の灯火を宿らせる。
(ただ怯えて待っているつもりはない。私にできることをしよう)
大切な人たちの笑顔を守るため、そしてあの最悪の終幕を書き換えるため。
アイリスは、静まり返った夜の闇の中で、出来うる限りの備えをしておこうと強く心に誓うのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回から第三章がスタートします!
★ブックマークや星で応援していただけると、大変励みになります!
どうかよろしくお願いします!




