41話 不穏な手紙
放課後の第二図書館。
アイリスが本棚から魔導書を取ろうと背伸びをした拍子に、ポケットから乾いた音を立てて一通の手紙が床へと滑り落ちる。
「あっ……」
拾い上げたそれは今朝、寮母から手渡された実家からの手紙だった。登校間際で慌ててポケットへ押し込んだことを、すっかり失念していた。
(もしかしてまた夜会に出席してほしい、とかのお願いじゃないよね……?)
まだ誰も来ていない静かな空間で、アイリスは何気なくその手紙の封を切った。半分まで目を通したところで、彼女の細い指先がぴたりと凍りつく。
『お前の婚約者が決まった』
端的なその一文に続き、記されている文字を読み進める。
婚約者は国の北部に膨大な土地を有している『バルト伯爵』。同じ伯爵家という爵位でありながら、メルヴィル家とは比べものにならないほどの財力と権力を誇る格上の存在だ。
しかし同時に悪名高い男でもあった。アイリスよりも遥かに年上で、無類の女好き。
そんな彼がどうしても、アイリスをご所望なのだという。文末には不器用な筆致で『すまなかった』と、父からの謝罪が添えられていた。
(婚約者……そっか。まぁ、そうだよね……)
恋愛結婚への淡い憧れが全くなかったと言えば嘘になるが、アイリスは所詮ただのモブ令嬢。貴族の義務として、いつか家のために見ず知らずの誰かに嫁ぐ覚悟はできていた。
思考を切り替えるように、アイリスは手紙をじっと見つめる。
たしかバルト伯爵の領地には大規模な鉱山があったはずだ。ということは王都では滅多にお目にかかれない、珍しい魔法石が発掘できるかもしれない。
湧き上がる魔法オタクとしての探究心に、アイリスの唇がわずかに綻んだ。どうにかポジティブに現実を捉え直した、その時だった。
「アイリス、こんなところでなにしてるの〜?」
「探している本でも? 手伝いましょうか?」
「はゃいっ……!?」
足音もなく背後から降ってきた、声にアイリスは驚いて肩を揺らした。振り返れば、いつの間にかやって来ていたジークとルイスがアイリスのすぐ後ろに佇んでいる。
「な、なんでもありません……!」
アイリスは平然を装って手紙を背中へと隠すが、めざとい二人を誤魔化せるはずもなく――
「…………ねぇアイリス、今、何を隠したの?」
ジークは悪戯っぽく目を細め、アイリスの背後へと視線を落とす。
「……実家からの、手紙です」
「実家からの手紙を、なぜわざわざ隠すのですか? どのような内容の手紙だったのか、お聞きしても?」
ルイスの口元は綺麗に弧を描いているものの、その瞳は冷ややかにアイリスを射抜いていた。
笑みを浮かべた二人が、じり、じり、と逃げ道を塞ぐようにアイリスへ詰め寄ってくる。アイリスは困惑したまま、一歩後ずざった。
「ほ、本当に大した内容ではなくて……。私の婚約者が決まったという、ただの報告でした」
遠慮がちにそう伝えた瞬間、周辺の空気が凍りついたような寒気を帯びる。
ルイスの青い瞳が暗く濁り、眉がピクリと不穏に跳ね上がる。ジークは浮かべていた笑みを完全に消し去り、色のない灰色の瞳でアイリスを見下ろした。
落とした呼吸の行方さえ、分からなくなるほどの静寂が館内を支配する。二人が放つ無言の圧に、アイリスは押し潰されてしまいそうだった。
「…………婚約者って? 相手はどんな奴? アイリスは会ったことあるの?」
最初に沈黙を破ったのは、ジークだった。彼の声からは、いつもの明るさが跡形もなく消え失せ、息つく暇もないほどの問いが彼女の元へと降り注ぐ。
「ええっと、北部に領地を持つ伯爵家の方です。お会いしたことは、まだないですね……」
「顔合わせすらなく婚約を?……随分と急な話ではありませんか。ねぇ、アイリス嬢」
ルイスの上品な微笑みは、まだ保たれているものの声音の裏には張り詰めた不穏な空気が渦巻いている。
「それで、お相手の名前は?」
「ね、教えてよ」
交互に重ねられる、地を這うような低い声。アイリスは気まずそうに視線を斜め下へと逸らしてしまった。
なにせ相手のバルト伯爵は、悪い意味で有名すぎる。女性関係の噂が絶えない伯爵の名を口にすれば、確実に今以上に追及されることは目に見えている。
「アイリス嬢」
「アイリス」
重なり合うようにして名前が紡がれると、二人は辛うじて空いていた隙間をさらに埋めてきた。迫り来る彼らから逃げるようにアイリスは後ずさったものの、背中に触れたのは冷たい本棚の木肌。
もう逃げる場所はない。見上げるほどの長身が二人分の影となって、アイリスを完全に覆い尽くす。
(二人とも身長が高いから、壁に挟まれているみたいで圧が……ていうか普段は顔を合わせると言い争いをしているくせに、なんで私を追い詰める時だけ息がピッタリなの……!?)
二人の視線は一寸のブレもなくアイリスを捉えて離さない。蛇に睨まれた蛙のような心地のまま、アイリスはついに相手の名前を白状した。
「………………バルト伯爵、です」
その名が静寂に落とされると、二人の端正な顔立ちが目に見えて歪む。
「バルト伯爵……確か、貴女よりも遥かに歳上のはずでは?」
「質の悪い女好きで有名な伯爵だ。なんでそんな奴が?」
おっしゃる通りで何も言い返せない。
けれど相手がどれほど悪名高かろうと、貴族社会において政略結婚は当たり前。顔合わせもないまま学園卒業と同時に嫁ぐなど、有り得ない話でもない。
アイリスは取り繕うように、精一杯の明るい声を響かせた。
「でも、バルト伯爵の領地には鉱山があるそうです! 王都では流通していないような、とても珍しい魔法石が発掘できるかもしれません!」
それでも二人の表情が晴れることはなく、むしろその言葉を聞いて、より一層深い闇を孕ませる。
「……貴女は、そんな相手で本当に良いのですか?」
ルイスの問いかけに、心臓が痛いほど脈打つ。
けれど、これは家同士の決定。権力的にもバルト伯爵からの申し出を断ることなど、最初から不可能なのだ。
「私は、それでも良いです」
「アイリス嬢――」
ルイスが何かを言いかけ、その薄い唇を動かす。だがアイリスは、彼の言葉を遮るように声を張り上げた。
「ルイス様には関係のない話です…………ッ!」
絞り出した言葉が、図書室の壁に虚しく反響する。
お願いだから、もうこれ以上否定してほしくなかった。
「へえ……そうですか」
鼓膜を重く揺らす、凍てついたルイスの声。彼の端正な顔から瞬く間に温度が消え去っていく。底冷えするような暗い光を宿した瞳が、冷酷な刃のようにアイリスを静かに見下ろした。
足元から這い上がる底知れぬ恐怖に、アイリスの肩が弾かれたように微かに震えた。
「…………ルイス」
怒りを表したルイスを、宥めるようにジークが彼の名前を呼ぶ。ジークはそのままアイリスへと視線を落とし、彼女を安心させるかのように顔を覗き込む。
「アイリスも、関係ないなんて冷たいこと言わないでよ。俺の特別な友だちが、そんなだらしない奴と結婚するなんて、純粋に心配なんだ」
彼の表情からは先ほどまでの威圧感が消え去り、代わりに包み込むように優しい眼差しをしていた。
「いきなりこんな婚約を突きつけられて……アイリスも、混乱してるんでしょ?」
ジークは白くなるほど強く握りしめられていたアイリスの小さな手に、そっと自身の掌を重ねる。怯えを解きほぐすようにゆっくりと、彼はその手を優しく握りしめた。冷えきっていたアイリスの指先に、ジークの確かな体温が伝わってくる。
「……アイリス嬢」
次に紡がれたルイスの声は、哀しいほどに繊細で穏やかだった。
俯いていたアイリスがゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは先ほどの恐ろしい氷の人形ではない。彼の青い瞳には、言葉にできないやるせなさと痛切な光を宿していた。
「……怖がらせてしまい申し訳ありません。……ただ本当に貴女が心配なんです」
彼女を怖がらせてしまった後悔と、それでも譲れないという執着を混ぜたように、ルイスの長い指先がアイリスの白い頬にそっと触れる。彼女の肌を撫でるその指先は、ひどく優しく、微かに震えていた。
「私も、すみませんでした……。お二人に八つ当たりみたいな態度をとってしまって……。でも本当に、私にとっては嬉しいことなんです。だからどうか、心配しないでください」
アイリスは二人を安心させるように等身大の、精一杯の笑顔を浮かべた。
けれどその言葉を聞いた二人の表情は、劇薬を無理やり飲み込まされたかのように、不快感と抑えきれない憤怒に満ちた、歪んだ顔をしていた。




