4話 ディランと黒猫
日の傾きかけた放課後の第二図書館は、世界の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
窓から差し込む琥珀色の光の中で、アイリスは、机の上に広げた古びた魔導書に視線を落とす。
美しい術式を指先でなぞりながらペンを走らせる。その表情は、田舎の書庫で知識に飢えていた頃のそれとは違い、至上の喜びに満ちていた。
(この第二図書館は最高! 静かで誰も来なくて魔導書も揃っている。これぞ私が求めていた平穏な学園生活……)
しかし、その至福の静寂は、背後から聞こえてきた低い足音によって呆気なく破られることとなった。軍靴のように規則正しく、寸分の乱れもない確かな足取りが徐々にアイリスの方へと歩み寄る。
「アイリス嬢、失礼する」
低い声が、静かな室内に響く。そこに立っていたのは、他者を容易に寄せ付けない圧倒的な威圧感を放つ騎士の青年、ディランだ。
相変わらず感情を一切読ませない意志の強い一文字の唇と、切れ上がった鋭い赤の双眸がじっとアイリスを捉えていた。
だが、今日の彼はいつもと少し様子が違っていた。彼がここへ来るのは、ウィルバートの護衛の時のはず。けれどアイリスの目の前には、ディランの姿しか見当たらない。
「ごきげんよう、ディラン様。……ウィルはご一緒ではないのですか?」
「殿下は急な公務が入られた。数日、この図書館へは赴けないとのことだ」
ディランは表情一つ変えずに告げると、手にしていた一冊の分厚い本をアイリスへ差し出した。
「殿下から託された。本日、アイリス嬢へ貸し出す予定だった魔導書だ」
「わざわざありがとうございます、ディラン様!」
アイリスは紫色の瞳をパッと輝かせ、受け取った本の革表紙を愛おしそうになぞった。さすがは王子、国民の要求を完璧に把握している。
アイリスに本を渡す、という用事を済ませたディランは、そのまま帰るものとばかり思っていたのだが。彼は生真面目な顔をしたまま、一歩もその場から動こうとしない。
それどころか、彫刻のような顔立ちを引き締めたまま、アイリスの斜め後ろで直立不動の姿勢を保っている。その威圧感たるや、まるで戦場に立つ総大将のようだ。あまりの気配の重さに、アイリスは冷や汗が流れるのを覚えながら、おずおずと振り返った。
「あの、ディラン様……? 本は確かに受け取りましたので、もうお引き取りいただいても大丈夫ですよ……?」
「いや。殿下から『令嬢一人では心配だから、護衛としてアイリスと一緒にいてやってくれ』と命じられている。俺のことは気にするな」
(いや、とても気になります。岩の精霊が背後に立っているレベルで落ち着かないです!)
ディランの辞書に『手を抜く』という文字はないらしい。殿下の命を全うせんとする強固な意志が瞳に宿っている。
「では、せめて……そちらの椅子にお掛けになってください。ずっと立たれていては、気になってしまいます」
「……そうか。ならば失礼する」
ディランは短く応じると、アイリスから少し離れた対面の席へと腰を下ろした。座る姿すらも、背筋が真っ直ぐ伸びており少しの隙もない。
アイリスは一つ息を吐くと、気を取り直して先ほど受け取った魔導書へと視線を移した。
はじめのうちは鋭い視線に緊張していたアイリスだったが、ひとたび魔法の深淵へと足を踏み入れれば、目の前の大柄な騎士の存在すら、彼女の意識から綺麗に消え去っていった。
窓の外が茜色から群青色へと変わりかけ、室内の薄暗さが一段と増した頃、アイリスは「ふぅ……」と小さく息を漏らして本を閉じた。
充実感に満たされながらふと顔を上げると、目の前には相変わらず直立不動の姿勢で座ったままのディランがいる。彼は微動だにせず、ただ静かにアイリスを見守っていたようだった。
「にゃあ」
その時、静寂を破るように、愛らしい鳴き声が響いた。
驚いて視線を走らせると、半開きになっていた窓の隙間から、一匹の黒猫がするりと侵入してくるのが見える。
艶やかな黒の毛並みに、満月のように丸い金色の瞳。学園の敷地にいつの間にか住み着いている、人懐っこい野良猫だ。
「猫ちゃん、迷い込んでしまったの?」
アイリスが床に膝をつき、黒猫へと手を差し伸べた。黒猫は警戒する様子もなく近づいてくると、アイリスの指先に濡れた鼻頭を擦り付け、頭を擦り寄せる。
「ふふ、人懐っこい子」
その様子を微笑ましく眺めていたアイリスだったが、ふと、対面からの『異変』を察知した。
先ほどまで岩のように微動だにせず、佇んでいたディランが微かにソワソワと身じろいでいる。
彼の赤の瞳は、アイリスの膝の上で丸くなっている黒猫へ釘付けになっていた。
(……まさかこの強面騎士、猫が好きなの? そんな設定はゲームでなかったはずだけど……)
アイリス少しの好奇心を覗かせながら、柔らかな声で問いかけた。
「……もしかして、ディラン様も撫でたいのですか?」
「っ、な――!?」
図星だったらしい。
ディランは弾かれたように肩を震わせ、端正な顔を驚愕に染めた。その硬い仮面が一瞬にして崩れ、動揺が露わになる。
「俺はただ、その猫がアイリス嬢に危害を加えないか監視していただけであって、決して、そのような欲求など……」
「まぁまぁ、この子はとても人懐っこいので、きっとディラン様にも撫でさせてくれますよ。ほら、怖くありませんよ」
アイリスは彼の必死な弁明を笑い飛ばすように、黒猫を抱えて机の上へと下ろす。大人しく机に座った黒猫を、ディランは大きな身体を強張らせたまま、警戒するように見つめている。だがその瞳の奥には、隠しきれない熱い期待が宿っていた。
「…………本当に、大丈夫なのか」
「はい。ゆっくり顔の下から手を近づけてみてください」
ゴクリ、とディランの喉が鳴る。
彼は戦場で剣を抜くとき以上の緊張感を漂わせながら、無骨で大きな手をゆっくりと黒猫へと伸ばしていった。
しかし――運命は残酷だった。
ディランの放つ圧倒感を察知したのか、黒猫は突如として耳を伏せ、金色の瞳を鋭く光らせた。
「フシューッ!!」
鋭い鳴き声と共に、黒猫の小さな前足が空を裂いた。鮮やかな猫パンチが、ディランの手の甲へと容赦なく炸裂する。
「……っ!」
ディランは咄嗟に手を引いた。肉体的な痛みなど微々たるものだろう。しかし、彼の顔はまるで世界の終わりを目撃したかのように絶望に染まっていた。直立不動だった大きな背中が、心なしか小さく丸まっているようにも見える。
(かなりショックを受けている……)
さすがに不憫に思ったアイリスは、何とかしてこの不器用な騎士に猫の温もりを届けたいと協力を申し出た。
「ディラン様、落ち込まないでください! この子はディラン様の立派な体躯に驚いただけです。触れられるよう色々試してみましょう!」
それから数分後。
アイリスが猫を正面から撫でている間に、背後から背中を撫でてもらおうとするも失敗。ならば、羽ペンで撫でると見せかけて、こっそり指に変えてみるも失敗。
「俺はもうダメだ………」
「諦めないでください、ディラン様! こうなったら最終手段を使いましょう」
アイリスはポケットから、食べきれず残してしまったお弁当の残りである蒸かし芋を取り出した。少量ならば、皮を剥いた芋を猫も食べられる。
「私がこのお芋で、猫の視線と意識を逸らします。その隙に、ディラン様は猫の死角である後ろから、そっと背中を撫でてください。これなら絶対に上手くいきます」
「……そんな作戦が、通用するのか」
「私の作戦を信じてください。さあ、いきますよ」
アイリスが小さく崩した芋を黒猫の目の前に差し出す。黒猫は先ほどの警戒をすっかり忘れ、アイリスの手元に夢中になった。
「今です、ディラン様。そっと、優しく……!」
アイリスの囁きにディランは息を止め、再び大きな手を伸ばした。今度は己の気配を極限まで殺したまま、その大きな掌が、黒猫の艶やかな背中の毛並みへと――――そっと触れたのだ。
ピクッと猫の身体が震えたが、美味しいおやつの魅力には勝てず、そのまま大人しくディランの手を受け入れた。ディランは、恐る恐るその掌を動かし、猫の背中を優しくなぞる。
「……あぁ」
ディランの口から、微かな感嘆の声が漏れた。先ほどまで鉄仮面のようだった彼の顔が、見る見るうち柔らかく緩んでいく。
「柔らかい……。そして、温かいな……」
「大成功ですね、ディラン様」
アイリスが隣で微笑むと、ディランはハッと我に返りアイリスの瞳を見つめてきた。
「……アイリス嬢。俺の望みに付き合わせてしまい、すまなかった。本当にありがとう」
唇の端が親愛を込めて持ち上げられていた。
その偽りのない笑顔は、夕暮れの図書館のなかで、驚くほど温かく、彼との確かな親睦の始まりを心地よく感じさせたのだった。




