39話 そんなこと?
トン、トン、と規則性を持ってガラスを叩いていた雨音が、いつの間にか消えていた。
窓の外は深い帳に包まれ、しっとりと濡れた夜の空気が静かに世界を満たしている。
灯りを一つだけ灯した薄暗い生徒会室の中で、アイリスは膝の上にあるルイスの気配に気を配りながら、手元の魔導書をめくっていた。半分読み終えたところで、膝の上の重みが僅かに揺れる。
「あ、起きましたか? おはようございます、ルイス様。よく眠れました?」
アイリスは本を閉じて、覗き込むようにして優しく声をかけと、ルイスの長い睫毛がゆっくりと持ち上げる。そして何度かパチパチと瞬きを繰り返した。
ルイスは静かに身体を起こしたが、まだ夢の名残を孕んだ朧げな瞳のまま、じっと隣に座るアイリスを見つめた。その深い青色の瞳が、夜の闇に溶けるように妖しく光る。
次の瞬間、ルイスの白く長い指先が、アイリスの髪の奥へと滑り込んだ。抗う隙も与えない滑らかな動きで後頭部を引き寄せられ、アイリスの視界が彼の胸元で覆われる。
至近距離で触れ合う、彼の甘い体温。そしてルイスは慈しむようにアイリスの額へ、そっと唇を押し当てたのだ。
「…………っ!?」
あまりの衝撃に、アイリスの指先から力が抜ける。手にしていた魔導書が、音を立てて膝の上に滑り落ちた。
ゆっくりとした動作でルイスの身体が離れていくと、彼の目元は柔らかく細められていた。
「ええ。貴女のおかげで、よく眠れましたよ。ありがとうございます」
そう言って甘く微笑むルイス。対するアイリスは、未だ何が起こったのか理解できず、完全に石化していた。ルイスの唇が触れていた額のその一箇所だけが、まるで燃えるように熱い。
真っ赤になって固まるアイリスに、ルイスは何事もなかったかのように、口元へ意地の悪い三日月を描いた。
「それにしても……ふふっ、貴女って本当に、危なっかしい人ですね。気軽に触れさせないでと、先日お願いしたばかりなのに」
ルイスはわざとらしく困ったように眉をひそめてみせるが、その瞳の奥には愉悦の光で満ちている。
彼の愉しげな青い瞳がアイリスを捉えると彼はソファの淵に片手を突いて、アイリスへ迫るように距離を詰める。
「え? あ、ちょっ……!」
ソファの隅で逃げ場を失い混乱しているアイリスの小さな手を取り、ごく自然に指と指を深く絡め合わせた。
「ねぇ……アイリス嬢」
小さく震えたアイリスの手へ視線を下ろしたかと思えば、彼は上目遣いをするように彼女の顔を覗き込む。その濡れた瞳には、どこか熱っぽい色気を帯びていた。
「貴女にとって先程の口付けは、『そんなこと』のうちに入ってしまうようなものでした……?」
吐息が届いてしまいそうなほど、近い距離。あまりにも熱を帯びた彼の眼差しに、アイリスは目を見開くことしかできなかった。
「は……入ら、ないです……」
消え入りそうな細い声で、どうにかそれだけを応える。するとルイスは愉しげに目を細め、ようやくその美しい顔を少しだけ離してくれた。
「そう、良かったです。もしコレも『そんなこと』として、簡単に片付けられてしまうのなら……貴女が今以上に可愛らしく肌を赤らめるような事を、してしまうところでした」
紡がれる言葉の破壊力に、アイリスの心臓はさらに激しくのたうつ。動揺で破裂しそうなアイリスの様子を横目に、ルイスは喉を鳴らして低く笑う。そして彼女の手を掴んだまますっと立ち上がった。
「少し残念ですが……もう遅いので帰りましょうか。貴女を長く引き留めすぎてしまいましたね」
ルイスは暗い窓の外へ一度視線を向け、すぐにまた愛おしげな視線をアイリスへと落とす。
「ふふっ、歩けますか? もし腰が抜けてしまって歩けないのなら、私がお部屋まで抱えて差し上げましょうか?」
「じ、自分で歩けます……っ!」
揶揄うような言葉に、アイリスは我に返って立ち上がる。けれどまだアイリスの顔は熱ったまま、心臓も悪戯に波打ち外へ出た後も、止むことはなかった。
○
その夜。
自室のベッドの中で、アイリスは一人頭を抱えていた。何度も、額に触れたルイスの唇の感触が蘇ってくる。
(ルイス様はなんであんなことを……完璧じゃないと、罵ったことを怒ったから、私を揶揄って面白がっているの?)
意地の悪いルイスならやりかねない。
アイリスはすぐに首を振って、より現実的な恐怖へと思考を切り替えた。
(それよりも、人だかりの中でルイス様を連れ出しちゃった……)
モブ令嬢の分際でルイスに声をかけるだけでなく、連れ出すなんて……絶対に悪い噂が立っているだろう。平穏な学園生活の崩壊を予感し、アイリスは毛布を頭から被って憂鬱な夜を過ごした。
しかし、翌日――
怯えながら登校したアイリスだったが、学園内は拍子抜けするほど静かだった。
聞こえてくる噂といえば『昨日、女子生徒が教員の代わりにルイス様を呼びに来たが、重要な要件だったので大変助かった、とルイス様が称賛なされていた』というもの。その女子生徒がアイリスだとは噂になっていない様子だった。
(変な方向に噂が広まる前に、ルイス様が周囲に上手く弁明してくれたみたい……)
学園屈指の影響力を持つ彼の根回しのおかげで、アイリスの平穏は守られたのだ。
心からの感謝を胸にアイリスが渡り廊下を歩いていると、背後から聞いたことのある声が聞こえた。
「――あら、アイリス様?」
静けさの残る廊下に、鈴の音を転がしたような澄んだ声が響く。
アイリスが足を止めて振り返るとそこには、蝶を模した煌びやかなバレッタを髪に飾ったフィーネが、優雅に佇んでいた。
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※自作イラスト not AI
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