38話 ルイスのお願い
促されるまま、今度はルイスに手を引かれて廊下を進む。
アイリスは、ルイスによって握られた手と彼の背中を交互に見つめた。喉から「る、ルイス様、手が……」と声にならない声を溢すけれど、ルイスはそんなアイリスを気にせず目的の場所へと足を進める。
辿り着いたのは、重厚な扉に閉ざされた生徒会室の前だった。
放課後の激しい雨のせいで、幸いなことに廊下では誰ともすれ違わなかったが、生徒会室にはまだ他の役員が残っているのではないだろうか。
そんなアイリスの不安を見抜いたのか、ルイスは鍵を差し込みながら、ふっと力を抜いて呆れたように笑った。
「心配しなくても、今日はもう誰もいませんよ」
カチャリ、と静かな音を立てて扉が開く。
ルイスはアイリスの手を引いたまま、悪天候で薄暗くなってしまった部屋の中へと彼女を連れ込んだ。
生徒会室の中は静まり返り、窓を打ち付ける雨の音だけが響いている。ここへ来たのは、第二図書館の秘密の地下書庫を見つけて以来だ。
「どうぞ、こちらに座ってください」
「はい!」
やはり何か生徒会の雑務でも頼まれるのだろうか。アイリスが意気込んで返事をし、指示された上質なソファの端へちょこんと腰を下ろした。
すると、次の瞬間――
「え……っ」
アイリスの膝の上に、しなやかで心地よい重みが預けられる。ルイスはアイリスの膝を枕にするようにして、そのままソファに横たわってしまったのだ。
窓の外では先ほどまでの激しい豪雨が嘘のように、いつの間にか雨足が和らいでいた。トントン、とガラスを優しく叩くような、心地いい雨音が静まり返った生徒会室を満たしていく。
けれどそんな穏やかな雨音とは反対に、アイリスの心臓は跳ね上がり波打つ鼓動は早くなっていた。
「あ、あの、ルイス様…………っ!? これは……」
あまりの急展開に、顔がカッと熱くなるのを感じる。しかしアイリスの膝の上に頭を預けているルイスは、悪戯に、けれどどこか甘い微笑みを浮かべてみせた。
「しばらく私の枕になってください。なんでもするって、貴女が言ったのでしょう?」
「それは、そうですけど……! でも、これは……!」
混乱して言葉に詰まらせるアイリスを見上げながら、ルイスは楽しそうに喉を鳴らして低く笑う。その無防備な笑顔は、あまりにも美しくてアイリスはキュッと唇を紡いでしまう。
「寝不足なので、少し休ませてください……」
そう言うと、ルイスは拒絶を許さないように静かに両目を閉じてしまった。
頼ってほしいと言ったのも、なんでもすると言ったのもアイリス自身だ。アイリスはぐうの音も出ず、真っ赤になった顔のまま、その重みを受け入れるしかなかった。
「……わかりました。おやすみなさい、ルイス様」
アイリスが小さく諦めの溜息をつくと、ルイスは満足したように口元を微かに綻ばせる。
手持ち無沙汰を感じながらも、アイリスは恐る恐る自分の膝の上にある彫刻のように整った顔を観察した。
一番美しく見えるところに顔のパーツが配置され、間近で見た彼の睫毛は驚くほど長い。
けれど目の下には、うっすらと隈が浮かび上がっていた。近くで見れば見るほど、彼がどれほどの疲労を限界まで溜め込んでいたのかが伝わってきて胸が痛む。
労りの気持ちが溢れ、アイリスの手が自然と動いていた。気がつけば無意識に彼の柔らかな銀の髪に触れ、その頭をそっと優しく撫でてしまっていたのだ。
「ん…………?」
ルイスの、少し掠れた吐息が漏れる。
「すみません! 起こしてしまいましたか……!?」
「今……頭、撫でられました?」
「な、撫でました。出来心でつい……その、不敬でしたよね……」
慌てて手を引っ込めようとしたアイリスだったが、ルイスは淡く微睡むような青い瞳を開いて彼女を見上げた。そして空中に浮いたアイリスの手を、指先で絡めとるように捕まえ、そのまま彼女の手を自身の頭へと引き戻すのだ。
「……アイリス嬢なら構いませんよ。このまま、撫でていて…………」
それは、普段の彼からは想像もつかないほど眠たげで、トロンとした甘えるような響きを含んだ声だった。
言われるがまま、ぎこちなく彼の頭を撫でると、ルイスはゆっくりと再び瞼を閉じる。アイリスはさらに顔を赤くしながらも、優しく彼の髪を撫で続けた。
しばらくしてルイスの手から完全に力が抜け、規則正しい小さな寝息が静かな室内に響き始める。
窓を叩く心地よい雨の音に混じる彼の穏やかな呼吸。あれほど張り詰めていた魔力の揺らぎが静まり、深い眠りへと沈んでいく。
(静かに、眠られるんだな……)
いつも周囲を翻弄するあのルイスが、今はただ無防備に自身の膝の上で眠っている。少し不思議な感覚だった。アイリスはホッと胸を撫で下ろし息を吐いた。
彼が背負う周囲からの期待がどれほど高く、どれほど逃げ場のないものであるのか。ただのモブ令嬢であるアイリスには、きっと想像もできないほどに重く、辛い。
(私がこんな風に思うのは、おこがましいかもしれないけれど……)
それでも、どうか無理だけはしないでほしい。
完璧な天才としてではなく、一人の人間としてどうか彼が壊れてしまいませんようにと、心から願わずにはいられない。
静かな雨の音に包まれた部屋で、アイリスは彼の心身の疲れが少しでも癒されますようにと、願いを込めてその髪を優しく撫で続けた。




