37話 完璧でなければ
「今日もアイリスは可愛いね」
放課後の第二図書館。
いつもの席で魔導書を開こうとしたときに、隣からどこか艶を帯びた弾んだ声が降ってきた。視線を向けると、ジークが灰色の瞳を細めて、悪戯っぽく微笑んでいる。
「……そういうことは、他の方に言って差し上げてください」
ため息混じりに応じながら、アイリスは彼の言葉をいつもの気まぐれな戯れ言として、心の外側へと器用に追いやった。両親の代理で出席した貴族の夜会で、遭遇して以来、ジークの態度には明らかに変化があった。
以前までの護衛の時の彼は、ソファでうたた寝をしたり、自分の読みたい本を気ままにめくったり、暇潰しに雑談を仕掛けてきたりと比較的自由に過ごしていた。
けれどここ最近のジークは、必ずと言っていいほどアイリスのすぐ隣に座り、本を読んでいるアイリスの横顔を言葉もなくじっと見つめ続けてくるのだ。
そしてアイリスの集中力が途切れた隙を、見計らったようなタイミングで必ず声をかけてくる。
雑談の相手をしてもらえるのは、ありがたいけど……毎回挟まれる揶揄うような言葉や、この距離で視線を浴び続けるのは少しばかり落ち着かない。読書に集中しきれないもどかしさを覚え、なぜそんなに見つめるのかと単刀直入に尋ねてみたこともあった。
けれどジークは、はぐらかすように目を細め「アイリスのことは、どうしても見ていたくなるんだよね。特別な友だちだから」と、甘えるような声を零すだけ。
ジークにとってはこれが友だちの距離感なのかもしれない以上、無下に突き放すこともできない。
(調子が狂うけど仕方がない。なんたって『友だち』なのだから!)
心の中でそう呟き、いつものように第二図書館へと向かおうとした、とある放課後。
朝から降り続ける激しい雨音を聞きながら、アイリスが廊下を進んでいると奥から甲高い声が響いてきた。
「あの凶暴な魔獣を単独で討伐なさるなんて、さすがルイス様ですわ!」
「ルイス様はいつも完璧でいらっしゃる。学園の誇りです!」
熱狂と称賛に満ちた生徒たちの声が、高い天井に反響してひどく賑やかに響き渡っていた。放課後だというのに、人だかりができているその中心へとアイリスは視線を向ける。
生徒たちの隙間から覗くのは、頭一つ出た長身に一際目立つ銀髪のルイスだ。洗礼された美しい佇まいを崩すことなく、上品な笑みを浮かべている。
そんな『ルイス・ハワード』の功績の話題で、学園は朝から持ちきりだった。どうやら宮廷魔法使いの任務で、町を荒らす魔獣を一人で討伐したらしい。
まだ学生の身でありながら、危険レベルの高い魔獣を討伐するなんて「さすがはルイス・ハワードだ」と、学年の違うアイリスのところにまで話が入ってきたくらいだった。
周囲の生徒たちは、非の打ち所がないルイスの振る舞いに、うっとりとため息を漏らしている。けれど彼の身体が一瞬だけ、目眩に耐えるように揺らいだのだ。
「ルイス様……?」
周囲の生徒たちは怪訝そうに戸惑うような声を上げる。
だが、それだけだった。
気のせいだったとでも言うように、またルイスを称賛する言葉を並べていく。
その光景に、彼女たちが信じるルイスは、どこまでも完璧であり、ほんの一瞬の揺らぎなど単なる見間違いとして片付けられてしまったような、そんな歪さを覚えた。
(……あんなに人がいるのに、どうして誰も気にかけないの?)
ルイスの周囲に漂う魔力は、少しだけ揺らいでいる。それなのに周囲の誰も彼の不調に気づかない。気づこうともしない。
(ルイス様も、どうしてそんなに平然を装うの……?)
その異様な光景を横目で捉えながらも、アイリスはモブ令嬢として関わらないよう気配を消して、すれ違おうとする。
ルイスの様子は気になるけれど、ルイスたちと関わるのは第二図書館の中だけ。一歩外に出れば互いに他人のふりを通していた。それが彼女が守りたかった平穏な日常の境界線。ましてや、あんなに人目があるところでなんて、絶対に声をかけてはいけない。
そう、心に決めていたのに―――
「…………え?」
ルイスの口から漏れた声がアイリスの鼓膜を鳴らす。
弾かれたように目を見開くルイスが彼女の目の前で、小さく口を開けたまま硬直している。
行動を起こしたアイリス自身も、何が起こったのかわからなかった。けれど考えるよりも先に、自身の手でルイスの腕を掴んでしまっていたのだ。
「……えっと」
人だかりの中、アイリスは自分でもその行動が理解できないというように小さな口から言い訳を述べようとする。けれど掴んだ腕を、手放すことはできないでいた。
周囲の生徒たちも、突如割り込んできた地味な令嬢へ視線を向け静まり返っている。張り詰めたような数秒の沈黙。血の気が引くのを感じながらも、アイリスは必死に声を絞り出した。
「――せ、先生方が、急ぎの用事があるとル……生徒会長を探されていましたよ! あちらです!」
「ちょっ…………」
ルイスが後ろで困惑の声を零すのも構わず、アイリスは彼の腕を引いて廊下を歩き出した。数人の生徒たちの突き刺さるような視線を背中に浴びながら、とにかくこの場から彼を連れ出すことだけを考えて足を動かす。
人けのなくなった廊下まで来ると、黙って前を歩くアイリスの背中に少し戸惑ったような声が背後からかけられる。
「ねぇ……ねぇ、ちょっとアイリス嬢。教員に呼ばれているなんて嘘なのでしょう?」
アイリスはピタリと足を止めた。掴んでいた腕を離し、振り返って深く頭を下げる。
「すみません! 勝手な真似をして……」
「私は構いませんが……貴女は良かったのですか? 人の多いところで、私に声をかけて連れ出すなんて」
ルイスの言葉は、アイリスの立場を心配するものだった。平穏な学園生活をおくるため、普段はあんなにも距離を置いていたというのに。
「良くは……ないですけど……」
咄嗟のことだったとはいえ、衆目の前で彼を連れ出してしまった。きっと今後の学園生活に響いてしまうだろう。それでも。
アイリスは顔を上げ、真っ直ぐにルイスを見つめ言葉を続ける。
「ルイス様は体調が優れないのに、無理をされているお姿が気になって……」
その言葉が投げかけられた瞬間、ルイスの瞳が僅かに揺らいだ。そして次に彼の口から聞こえたのは、静かな疑問だった。
「……どうして、そう思われたのですか?」
「さっき、立ちくらみをされていましたよね……? それにルイス様の魔力が不安定に揺らいでいます」
言い当てられたルイスは、ひどく苦いものを噛み潰したような顔をした。いつもならどんな状況でも上品に微笑んでみせるその唇が、今はただ痛々しく結ばれている。
諦念とほんの少しの脱力を孕んだ長い溜息が、彼の薄い唇から零れ落ちた。
「…………貴方は本当に、察しがいいですね」
自嘲気味に、力なく笑うルイス。けれどアイリスは不思議でならなかった。自分は特別に目敏いわけではない。むしろ疎い方だと自覚している。
「察しがいいわけではないですよ。他の方だって、きっと気づいていたはずですよ?」
「それは、どうでしょうね……」
ルイスは視線を逸らし、白く煙る窓の向こうへと遠い目を向けた。
「『ルイス・ハワード』は、完璧でなければいけませんから。体調を崩すなど、周囲の人間にとってはあり得ないことなのですよ」
その声は驚くほど冷ややかで、まるで自分という入れ物を遥か上空から突き放して見下ろしているかのようだった。
そしてすぐにルイスはいつもの上品な笑みを浮かべる。ニッコリと誰にでも愛想が良く、けれど精巧に作られた人形のような中身の伴わない作り物の笑顔。
周囲から注がれる、狂信的とも言える崇拝。
彼ならできて当たり前、という逃げ場のない賛辞。
生徒会長として、公爵家の嫡男として、そして次代の魔法界を担う至高の魔法使いとして――彼が背負わされている期待の眼差しは、圧し潰されてしまうほどに巨大で容赦のない枷。
「だから貴女も気にしないでください。気遣って声をかけてくださり、ありがとうございました」
そう言って背を向けようとするルイスの袖を、アイリスはもう一度、強く掴んだ。彼は足を止め怪訝そうに振り返る。
「……まだ何か?」
冷たい仮面を崩さないルイスが、少し怖かった。けれどアイリスは迷いのない瞳で彼を見上げ、胸の奥から湧き上がる感情のままに声を震わせた。
「ルイス様は……完璧なんかじゃありません!」
「………………はい?」
予想だにしない罵倒にルイスは呆気にとられたように声を漏らし、目を見開かせる。
「ルイス様に声をかけなかっただけで、不機嫌になられたり、ジーク様に煽られるとすぐ言い争いを始めちゃうし、時々、意地悪なことをおっしゃいますし……!」
日頃の彼の『完璧とは程遠い』態度を、アイリスは次々と指折り数えていく。
クロエとの出会いイベントが発生したか、ウィルバート達に確認をした時、ルイスに声をかけなかっただけで不機嫌になられたり。アイリスが居眠りをしてしまった日の帰り道に、ジークに煽られ、言い返していた彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「ルイス様は全然完璧なんかじゃありません! でも完璧ではなくても、ルイス様はルイス様でしょう!?」
激しい雨音が廊下の窓を叩く中、アイリスの声だけが響いていた。アイリスの瞳には、彼を責める色などひとかけらもなく、ただ目の前の彼を案じる純粋な光だけが宿っていた。
「私は……貴方に完璧なんて求めていません。だから、体調が悪いならそう言って、ちゃんとまわりを頼ってください……っ」
その言葉は彼の胸の最も深い場所に、鋭くそして優しく突き刺さった。ルイスは目を見張ったまま固まると、やがて耐えかねたように片手で顔を覆い深く俯いてしまう。
(え……もしかして、言い過ぎて余計に気分を悪くさせてしまった……!?)
青ざめるアイリスが、おろおろと彼の顔を覗き込もうとした。けれどルイスの口から漏れたのは呆れたような、どこか優しい響きだった。
「貴女は、本当に…………はぁ……」
ため息を吐いて顔を上げた彼の視線は、少し気恥ずかしそうに逸らされていた。けれど、そこにはもう先ほどまでの作り物の笑顔も、冷徹な仮面も張り付いてはいなかった。
眉を少し下げて呆れながらに微笑む、ありのままの『素の表情』がそこにある。
「そうですね……少しだけ、休ませていただきます」
「はい……! それが良いと思います! 保健室に行かれますか?」
「いえ、寝不足なだけですから軽く休めば治ります。それと貴女に一つお願いをしてもいいですか?」
「もちろんです! 私にできることなら、なんでもしますよ!」
生徒会の雑務のお手伝いや、魔術式の解読くらいしか自分には手伝えることはないけれど、それでも彼の負担を少しでも減らせるのなら。
アイリスは力になりたい一心で、勢いよく頷いた。
「なんでも……。では、ついてきてください」
「え?」




