36話 優しい手(ジーク視点)
《ジーク視点》
アイリスの言葉が鼓膜を揺らした瞬間、息をすることさえ忘れたかのように、ジークはその場に縫い留められていた。
灰色の双眸はわずかに見開かれ、目の前の少女をただ見つめることしかできなくなる。夜の底で冷え切っていた己の手に、迷いなく重ねられたアイリスの清い手。そこから溢れ出す熱は、ひどく温かい。
ジークはたまらず視線を落とし、沈黙を打ち破るように乾いた声をこぼした。
「ははっ……」
(――ああ、なんて危うい子なんだろう……)
呆れてしまうほどに、危うく、純真な子。
誰もがその行いを軽蔑し、自身を汚れたものと認識する。それなのに彼女は、ジーク・ナイトフォールという人間が背負う業も、歪んだ本性もすべて受け止めた上で、なお――そのすべてを『優しさ』などという綺麗な外套で、包み込もうとしている。
ジークの胸の奥で、静かに何かが崩壊する音がした。
それは心の底で咲かないでくれと願い、頑なに目を背け続けていた蕾が、狂い咲きの花となり花びらを開いてしまったような音だった。
けれど、受け入れるわけにはいかなかった。自身が歩んできた道は、優しさなんて生易しい言葉で片付けられていいものではないのだ。
「…………あは、そうやって俺に憐れみをかけて、特別な存在にでもなったつもり?」
冷淡な響きを混ぜて、花を踏みつけるような言葉を口にした。平然を装おうとするが、今の自分がまともな仮面を見繕えているのか。それすらも分からなかった。
伏せていた目線を上げ、目の前のアイリスを瞳にとらえる。しかし、そこにあったのは怯える少女の姿ではなく、微塵も揺らぐことのない気高い紫の瞳だった。
真っ直ぐに自分を見つめるその眼差しに、胸の奥から焦燥とも狂おしさともつかない感情がせり上がり、息が詰まりそうになる。
「ジーク様、私は……」
アイリスが何かを言いかけるように、小さな唇を開いた。けれどその先を、聞きたくなかった。これ以上、彼女の口から自分を狂わせる言葉を紡がれたら、アイリスの全てを、欲してしまいそうになる。
ジークは衝動に突き動かされるまま、彼女の言葉を遮った。アイリスが重ねていた手を強く握り返し、そのまま勢いよく華奢な身体を己の胸の中へと引き寄せたのだ。
「……………嫌になっちゃうな。俺が本当に優しい人間だって、勘違いしそうになる……」
彼女の肩に顔を埋め強く抱きしめながら、抑えきれない言葉を零した。
まだアイリスと出会って間もない頃。
ジークにとって彼女は『殿下のお気に入り』というだけの存在だった。
魔法以外のことには消極的で、いつもどこか他人事のように割り切っている。それなのに呆れるほどのお人好しゆえに、結局は自らトラブルの渦中へ飛び込んでしまうような子。
そんなチグハグな彼女が面白くて、一緒にいると退屈しなくて……気づけばいつも、気まぐれを装っては彼女に構ってしまっていた。
けれどまだ『殿下』のお気に入りという枠に収まっていたはずだ。きちんと一線を引いて、自らの立場を弁えていた。
それなのに――今この腕の中にある温もりを、手放したくないと願ってしまう。
ジークは少しだけ身体を離し、腕の中にいるアイリスの顔を覗き込んだ。突然のことに目を丸くして驚いているその表情がひどく愛らしくて、気づけば無意識のうちに微笑みを浮かべてしまう。
(この子には、幸せになってほしいな……。もし叶うなら、俺の手で――)
けれど多くの命を奪い汚れてしまった自分では、彼女の隣に並ぶことすら許されないだろう。――それでも、強く願ってしまう。
(俺の手で、アイリスを幸せにしたい……)
どうしよう、困ったな。完全に狂わされてしまっている。
「…………ねぇ、いっそ本当に、俺の特別になる気はない? 俺、アイリスのためなら何だってしてあげたくなっちゃった」
アイリスの頬にかかるの髪を、指先でそっと撫でる。
見つめた彼女の姿は、夜の闇に溶け込む真紺と白のドレスに包まれている。まるで暗闇の中にひっそりと咲く、一輪の花のようだ。
(本当に、可愛いな……ああ、どうしよう…………)
ジークは内心、破裂しそうなほど心臓を高鳴らせながら、彼女の返答を待った。許されなくても、もし彼女が望んでくれたら……そんな期待を胸に宿らせる。しかしアイリスの口から飛び出してきたのは、予想外の言葉だった。
「それはつまり……私と『友だち』になってくださる、ということですか?」
「……………………ん?」
あまりの拍子抜けに、ジークは完全に呆気にとられた声を漏らした。
「実はこの前、私を『特別』だと言ってくれたクロエと友だちになりまして……。ジーク様も私の『友だち』になってくださる、ということですよね?」
アイリスは照れながらも、純粋な期待の眼差しでこちらを見上げる。
ジークは思わず、天を仰ぎたくなるのを必死に堪えた。そういう意味じゃないんだけどな……と内心で盛大に不貞腐れる。だが目の前で煌めく瞳を向けられてしまっては、その期待を裏切ることなどできるはずもない。
「……そうだね。俺もアイリスの友だちになれたら嬉しいな」
「ぜひ、よろしくお願いします! ふふっ嬉しいです!」
弾んだ声で満面の笑みを浮かべるアイリスに、ジークもつられて呆れ混じりの、けれどひどく甘い笑みを浮かべた。
「けどさ、アイリス……」
ジークは身を乗り出し距離を詰めると、彼女の逃げ場をなくすように顔を近づけた。至近距離でその澄んだ瞳をじっと見つめ、熱を孕んだ声で密やかに囁く。
「俺は欲張りだから。友だちっていう席だけだと満足できないんだよね」
意味が分からず、アイリスは小首を傾げている。その無防備な様子に、ジークは狂おしさを覚えながらも唇の端を不敵に吊り上げたのだった。
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※自作イラスト not AI
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