35話 汚れの消えない手
ジークに手首を掴まれたまま、アイリスは夜の庭園を早足で駆け抜けていた。
前を歩く彼の背中はいつもより頑なで、声をかけることすら躊躇われるほどの張り詰めた空気を放っている。
ただ、手首を握る彼の手のひらだけは、驚くほどに優しかった。
やがて、白いつるバラに囲まれた静かな東屋の中でようやく、ジークの足がゆっくりと止められる。
掴まれていた手首はそっと離され、彼が振り返る。月光に照らされた灰色の瞳は、ダイヤモンドのように美しく輝いていた。
「…………無茶するな〜、アイリス嬢は。あのまま襲われたらどうする気だったの?」
「そこまで頭が回りませんでした……」
「ほんとお人好しだね……。声をかけずに、見ないふりをしていればよかったのにさ」
ジークは小さく肩をすくめ、困ったように目元を歪める。その声には怒りよりも彼女を巻き込んでしまったことへのやるせなさと、危うい行動への憂慮が滲んでいた。
けれどジークに怒られようが、呆れられようがアイリスに後悔はなかった。あの澱んだ空間に、彼を一人きりで置き去りにすることなんて、絶対にしたくなかったのだ。
「優しい人が理不尽に傷つけられているのに、見て見ぬふりをするなんて私にはできません」
真っ直ぐに紡がれたアイリスの言葉に、ジークは瞳に宿る月光を揺らす。訪れた長い静寂のなか、彼はその眩しさから逃げるように視線を落とし、そっと息を吐き出した。
「俺は……君が思うほど、優しい人間じゃないよ……」
そう囁くと、彼は東屋の片隅にある年季の入った木製のベンチに腰を下ろす。そして、ぽんぽんと自身の隣を軽く叩いた。「おいで」と促すようなその仕草に誘われ、アイリスもまた彼の隣へと腰掛ける。二人の間に、わずかな隙間を残して。
ジークは東屋の傍らに咲く、月光に濡れた白い薔薇へと視線を向けた。けれどすぐに視線を逸らし、膝の上で固く握りしめられた己の手を静かに見つめる。
「……さっきの話、聞いてたでしょ? 俺を引き取ってくれたナイトフォール家はね、代々、国の汚れ仕事を請け負ってきた家系なんだよ」
ぽつり、ぽつりと、自嘲を交えながら語られる言葉は、夜の静寂に深く沈んでいく。
「俺には……見つけてくれた殿下に、引き取ってくれたナイトフォール家に、返さなければならない恩がある。だから、どんな命令にも従ってきた。……君には話せないような非道なことだって、汚れた手でいくつも重ねてきた」
ジークがゆっくりと顔を上げた。彼の長い髪が夜風に吹かれ、軽く靡いている。
アイリスに向けられたその表情は、ひどく穏やかな微笑みだった。けれどその目元は、今にも音を立てて崩れてしまいそうなほど切なく歪んでいる。
「――ね? 俺は、優しい人なんかじゃないでしょ?」
その瞬間、胸の奥が締め付けられるように激しく痛み、浅く息を繰り返すことしかできなくなった。
孤児だったジークを拾い、育ててくれた人たちの為に、身を削り続けてきた彼に、なんて言葉を返せばいいのか分からない。
どう振る舞うのが、この場における『正解』なのだろう。これがもし本当に乙女ゲームの世界なら、画面にはいくつかの選択肢が現れて、彼の好感度を上げるための『正しいセリフ』を教えてくれたかもしれない。
けれど、どこを探したって便利な選択肢なんて浮かび上がってはこないし、誰かが用意した偽りの言葉を彼に伝えたくなかった。
だって今、アイリスの目の前にいるのは、血の通った一人の傷ついた人間なのだから。
たとえそれが、この世界のシナリオにとって『不正解』であったとしても、アイリス自身の言葉を、ジークに届けたかった。
「…………それでも私は、貴方を優しい人だと思います」
ジークは自らの悪徳を差し出し、優しくないと光を拒んでいた。
だけど彼は、一人よりも二人の方が楽しいと、アイリスの手を掴んで、前へ導いてくれた。隠し事を打ち明けるきっかけを作り、良かったねと頭を撫でてくれた。
その手は確かに、愛おしいほど温かく……優しかった。
アイリスは手を伸ばし、ジークの膝の上で固く強張っていた彼の手にそっと触れる。触れた瞬間、彼の指先が小さく跳ねたが、アイリスの手が振り払われることはなかった。
「大切な人たちを守るために自ら泥を被ることが、ただの悪だとは思えません。ジーク様は自分の手が汚れているとおっしゃっていましたが、私には傷つきながらも大切な人のためにその身を捧げられる、温かくて優しい人の手に思えましたよ」
夜の底で凍える心に、消えない温もりを灯したい一心で、アイリスは紫の瞳に強い祈りを込め、ジークの瞳をじっと見つめた。




