33話 クロエの気になる人
放課後。演習場でアイリスは小さく息を吐きながら、目の前の光景を見守っていた。
どこか頼りなかった光の粒子が、今は見事な球体を描いて宙に浮いている。
「すごいですね、クロエ! 以前に比べて格段に魔力のコントロールが安定してきていますよ!」
アイリスが素直な称賛を口にすると、クロエが花のような笑みを咲かせた。
「アイリス様の教え方がお上手だからですよ。今日も丁寧に見てくださって、本当にありがとうございます!」
子犬のように無邪気に駆け寄ってくるクロエの姿に、アイリスの胸の奥は温かいもので満たされる。彼女の成長を間近で見られるのは、魔法オタクとしての役得かもしれない。
使い終えた簡易的な標的を片付け、そろそろお開きにしようとしたその時だった。
「あの……アイリス様。少し相談したいことがあって……」
クロエが頬を染め、もじもじと指先を弄りはじめた。
「相談ですか? 魔法の構築で行き詰まったところでもありました?」
「いえ! 魔法のことではなくて……その、実は最近、気になっている方ができて……」
「きっ!」
危うく淑女らしからぬ声を上げそうになったアイリスは慌てて口元を押さえる。
気になる人ができたということは、ついにヒロインであるクロエの恋愛ストーリーが始まるということだ。
そして重要なのは、その相手。ジークかディラン、ルイスかウィルバートか……アイリスの中で一番の有力候補は一緒に昼食をとったルイスだが、もし相手がウィルバートだったら、どう声をかければいいのだろう。
(ローズ様の恋が実ってほしい。けどクロエの気持ちを否定したくない……)
アイリスは背中の後ろに隠した手をぎゅっと握りしめながら顔を上げた。
「――気になるお相手の名前を伺ってもいいですか?」
クロエはさらに顔を赤くして、ゆっくりと意中の相手の名前を口にする。
「…………ディラン、シュベルト様、です」
「ディラン様……!?」
予想外の名前の登場に、アイリスは目を丸くしてその名前を繰り返すと、クロエは可愛らしく小首を傾げる。
「アイリス様はディラン様をご存じなのですか?」
「あ、ほらディラン様は、剣術の腕前が素晴らしいと評判なので!」
「そうなんですよ!」
クロエは前のめりになりながら即答する。アイリスとディランに交流があることを、悟られてはいないようでアイリスはホッと胸を撫で下ろした。
(それにしても、意中の相手はディラン様か……)
ディラン・シュベルト。切れ長で鋭い赤の双眸を持つ、歴史のある騎士の家系の嫡男。攻略対象の中で、一番無口で接点を持つことがなかなか難しい。
「気になり始めたきっかけが、あったのですが?」
「はい! 先日、学園の渡り廊下を歩いていたら、突然コウモリ型の魔獣に襲われそうになって……そこでディラン様が剣で助けてくださったんです! そのお姿が本当に格好良くて……まるで物語のナイトのようでした……」
うっとりと応えるクロエにアイリスは感心しながら、話に耳を傾ける。
二人の出会いは、乙女ゲームのシナリオとは異なっていた。けれど魔獣から剣で助けるなんて、さすがはディランだ。惚れてしまうのも頷ける。
「それ以来、学園でお見かけした時に、勇気を出してお声をかけているのですが……一言返事をいただくだけで、すぐに去ってしまわれるのです。私、避けられているのでしょうか……」
クロエはしゅんと肩を落とし、黄緑色の瞳を潤ませている。アイリスは思わず内心で盛大に、頭を横に振ってしまった。
なにせディランは、超が付くほどの朴念仁で恋愛に疎い天然。クロエの懸命な好意のサインに気づいていないだけだろう。
「ディラン様は……無口で感情に疎いところがあるだけではないでしょうか? ですからクロエを嫌っているわけではないと思いますよ」
「そう、でしょうか……」
「ええ、間違いありませ! けれどどうして私に相談を?」
表向きはディランと知り合いでもなく、まだ婚約者すらいないモブ令嬢に、こんな相談をするなんてと不思議に思い問いかける。
「ローズ様から伺ったんです! ウィルバート殿下との仲を深めるためにアイリス様に相談したところ、とっても良いアドバイスをいただき大成功したって!」
あの時は、ただ単に一人小芝居をしていたローズの背中を押しただけで、実際に行動をしたのは彼女自身だ。それにジークの貢献も大きかった。決して、アイリス一人で成功に導いたわけではない。
それにしても、まさかヒロインとライバルキャラの悪役令嬢がここまで仲良くなるとは……。
ローズを含めて一緒に昼食をとって以来、定期的に三人でお昼を食べたり庭園でお茶会をしている。同席するアイリスは、なぜモブである自分がこの場にいるのかと疑問に思いつつも、楽しんでしまっていた。
するとクロエは「それに…………」とまだアイリスを相談相手に選んだ理由があるのだと、言葉を続けた。
「お友だちと、恋のお話をするのが夢だったんです」
少し遠慮がちに、けれど真っ直ぐ向けられた黄緑色の瞳にアイリスの姿が映る。その瞬間、心の奥が温かなもので満たされる。
(友だち……)
その言葉は少しだけ気恥ずかしく、同時に眩しく思えた。
(私なんかが、クロエの友だちで良いのかな……)
アイリスは地味なモブ令嬢。そんな彼女が誰かと、ましてや主要人物であるクロエの友人と名乗ってもいいのだろうか。
「勝手に友だちなんて、言ってしまってすみません……私なんかがアイリス様に見合わないのは、わかっているんですが――」
「そんなことありません!」
アイリスは考えるよりも先に声を発していた。この気持ちをどう言葉にすればいいのか、迷うように瞳を揺らす。
「う、嬉しいです……クロエが、友だちと言ってくれたこと」
純粋にただ、嬉しかった。この高揚を、少しの間だけでも味わうことは許されるだろうか。
「ありがとう、クロエ。私も貴方を友だちと思ってもいいですか?」
「もちろんです!! アイリス様は私の特別ですもの!!
ふふっ今度ローズ様も含めて、また三人でお茶会をしましょうね!」
花の咲いたクロエの笑みに、アイリスもつられて微笑んでしまう。
「コホンッ。話が逸れてしまいましたね。クロエがディラン様と親睦を深める方法についてですが……まずは、ディラン様の訓練の時に、差し入れを持って行くのはいかがでしょう」
アイリスは軽く頬を染めながら、一つ咳払いをして話を本題に戻す。友だちの恋ならば、なおさら応援したくなる。
「差し入れ、ですか?」
「はい。ディラン様は早朝に訓練をされているとか。きっと終わった後は、お腹が空いているでしょうから手作りの差し入れをお渡しするんです!」
「手料理……! 食べてくださるでしょうか……」
「クロエは料理がとてもお上手ですし、きっとディラン様なら喜んでくださいますよ!」
「…………わかりました。恥ずかしいですが、私、ディラン様のために、精一杯美味しい料理を作ってみせます!」
○
そして迎えた決行当日の早朝。
空がまだ白み始めたばかりの薄暗い時間、アイリスとクロエは男子寮の裏手にある広場の茂みに身を潜めていた。
少し冷え込む朝の空気の中。広場の中央では、ディランが一寸のぶれもなく木剣を振るっていた。
ディランの額から流れる汗が、朝焼けの光を浴びてきらりと光る中、アイリスの観察眼が周囲の僅かな異変を捉えた。
自分たちが潜んでいるのとは別の茂みや、木々の影から微かな物音が聞こえるのだ。よく目を凝らせば、そこかしこに息を潜めてい女子生徒たちの姿があった。
(……そういえばディラン様の朝練では、彼の肉体美を拝むために、隠れファンたちがこっそり見物に来るって乙女ゲームの中で紹介されていたっけ……)
すっかり失念していたアイリスは、このハイエナの群をどうしたものかと頭を悩ませる。けれど誰もアクションを起こさないということは、見守るのが暗黙の了解なのだろう。
この中に無垢なクロエを放り込んでも大丈夫だろうか、とアイリスは更に不安になっていた。
「……すみません、クロエ……まさかこんなに見物客がいるとは思っていなくて。お昼に出直しますか?」
アイリスが耳元で囁くと、クロエは緊張で少し手を震わせながらも黄緑色の瞳に強い決意を宿して頷いた。
「いえ! アイリス様がアドバイスをくださったのですもの。私、頑張ります! 見守っていてください!」
クロエは意を決して茂みから一歩、踏み出した。
「あの……! ディラン様!」
鈴の音のような声が響き、ディランの鋭い眼差しがクロエへと向けられる。
「クロエ嬢か。こんな朝早くにどうした」
「ディラン様がいつも朝早くから訓練に励んでいらっしゃると聞いたので……差し入れを作ってきました! もしよろしければ、召し上がってください!」
クロエは丁寧に包まれたバスケットをディランへと差し出した。
彼は不思議そうにそれを受け取りながら包みを開けると、中にはマフィン型に焼かれた具沢山のキッシュが入っている。まだほんのりと温かく、香ばしいチーズとベーコンの香りがふわりと広がった。
「お口に合えば良いのですが……」
ディランは手元のキッシュをじっと見つめた後、無表情のまま一つのキッシュを大きな口で食べ進める。
クロエが不安そうに身を固くする中、何度か咀嚼を繰り返しゴクリと飲み込む。するとディランの端正な顔の輪郭が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「……美味いな。ちょうど腹が減っていたんだ。感謝する、クロエ嬢」
「いえ……! お口に合って良かったです!」
クロエの顔がぱっと明るくなり、花が咲いたような笑顔を見せた。ディランは少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、残りのキッシュをまた口へと運んでいる。
茂みの奥からそれを見守っていたアイリスは、成功した彼らの様子にそっと胸を撫で下ろしたのだった。
○
「――時々差し入れを届けに行っているのですが、最近はディラン様の方から『今日は何だ?』って聞いてくださるようになったんです!」
数日後の放課後。クロエと一緒に寮へ帰っていると、彼女は本当に嬉しそうに報告をしてくれた。
「順調そうで私も嬉しいです。良かったですね、クロエ」
「はい! アイリス様のおかげです!」
満面の笑みを浮かべるクロエにアイリスまでつられて微笑んでしまう。
ローズに続き、クロエの恋も順調に動き出した。このまま二人の恋が無事に成立することを祈っていると、アイリスは寮母に呼び止められる。
「おかえりなさい、お二人とも。アイリス・メルヴィルに急用のお手紙が届いていますよ」
「急用の手紙ですか……? ありがとうございます」
寮母から差し出された手紙を受け取ると、差出人はアイリスの実家からだった。
(実家から急用の手紙なんて、一体どんな用件だろう……?)
アイリスはクロエと別れ自室に入ると、心をざわつかせながら手紙の封を切ったのだった。




